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京の紅葉2011

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京都・山科にある勧修寺(かじゅうじ)と紅葉
 
 
勧修寺は京都市営地下鉄東西線 の小野駅 から西に向って山科川を渡ったところにある、真言宗の寺院です。正式名は「かんしゅうじ」ではなく、「かじゅうじ」です。
 
 ここは、かつては代々法親王が入寺し、門跡寺院として格式を誇った寺院です。
 
境内には江戸時代に御所から移築された宸殿、書院、本堂がありますが、建物内は通常は非公開となっています。建物や庭園は門跡寺院の風格を感じさせるところです。
 
また、四季を通じて様々な花が見られ、早春の梅、春のしだれ桜、初夏の紫陽花、秋の菊花展、紅葉のほか、氷室池を中心とした庭園では、初夏のかきつばた、黄菖蒲、花菖蒲、睡蓮、夏の蓮などがきれいなところです。
 
 秋には菊花展が開かれ、境内では見事な紅葉が見られることで知られています。
 
 今年の京都の紅葉は全般的に遅れていて、勤労感謝の日の23日に訪れたときには、勧修寺の紅葉は見頃初期といったところでした。
 
 
1 場所
 
 
2 境内
 
<境内図>
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●山門
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・山門から見た中門()、宸殿(中央)、書院()
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●中門
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  山門を入って左手奥に拝観受付があり、その横に中門がある。
 
●宸殿
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 中門をくぐると、宸殿の正面に出る。
 
元禄10年(1697)、明正天皇の御殿を下賜されたもので、江戸時代初期の御所の建物。
 
・扁額「明正殿」
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・宸殿と紅葉
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●書院(重文)
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<特色>
・貞享3年(1686)、後西天皇の仮内侍所を弟帝・霊元天皇から賜って移築したものと伝える。(明正天皇の宮殿ともいわれる)。
 
・一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られる。障壁画は土佐光起・光成父子の作。
 
・御座所の違い棚(西桜棚)は、冠を置くため中央部が下がった珍しいものといわれる。
 
 
○書院と紅葉
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○臥竜の老梅
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 江戸時代に御所から移植されたと伝える。 
 
 
○偃柏槙(ハイビシャクシン)
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 書院の前に地を這うように広がる。樹齢750年といわれる。
 
 
○勧修寺燈籠(水戸燈籠)
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 偃柏槙の間にある。徳川光圀が寄進したと伝える。
 
 
 
●本堂
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 書院前からカエデの木々の間を通って西へ進むと、本堂前に出る。
 
<特色>
・寛文12年(1672)に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたもので、元は近衛家の建物であったともいわれている。
 
・本堂に安置している本尊の千手観音立像は、醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作といわれている。
 
 
●観音堂(大斐閣)
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 昭和6年の再建。
 
 
 
3 庭園(京都市指定の名勝)
 
平安時代の作庭と伝わる「氷室池(ひむろいけ)」を中心とする池泉回遊式庭園。
 
平安時代、池の氷が五穀の豊凶を占うために宮中に届けられたという伝承があり、庭園は別名「氷池園(ひょうちえん)」とも呼ばれている。
 
天明6年(1786)の「捨遺都名所図絵」に、「氷室池」を中心に、「氷室十五勝」と名づけられた中島や池の周囲の亭や橋、滝石組などの様子が描かれている。
 
 
●庭園のようす 
 
○十月桜
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※十月桜について
バラ科サクラ属の植物。桜の園芸品種。毎年、花が4月上旬頃と10月頃の年2回開花する。花は十数枚で、花弁の縁が薄く紅色になる。エドヒガンの系列でコヒガンの雑種とされている。
 
 
○つわぶき
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○どうだんつつじの紅葉
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○「この先危険」の標示
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 標示板をくぐって、一周してきました。途中危ないところもなく、なかなかいい眺めでした。
 
 
○氷室池と紅葉
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○弁天堂と紅葉
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3 沿革
<説明板>
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・真言宗山科派の大本山で、平安中期の900年に醍醐天皇の母・藤原胤子を弔うために、胤子の母の実家である宮道家邸宅を寺に改めたのが始まりといわれる。
 
・天皇の祖父にあたる藤原高藤の諡号(しごう・おくりな)をとって勧修寺と名づけられ、のちに醍醐天皇の勅願寺となった。
 
・代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助によって再興された。
 
・本堂は、霊元天皇より仮内侍所を、書院(重文)と宸殿は明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀っている。
 
・書院前の庭にある大きな傘を持つ燈籠は、水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈籠」と呼ばれている。
 
・その周りには樹齢700年と伝えられるハイビャクシンが植えられている。
 
・氷室池を中心とした優美な池泉回遊式の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名である。
 
 
 
4 勧修寺の規模の変遷
①鎌倉時代まで
鎌倉時代の後伏見天皇の皇子・寛胤法親王が第十六世として入寺してからは門跡寺院となる。宮道邸だった頃から鎌倉時代にかけて、池のある庭があったとされ、優美な庭園の様子が歌に詠まれているという。この頃の庭園は現在の大岩街道の南側に、現在の勧修寺の敷地の倍ほどの広がりがあったといわれている。
 
 
②応仁・文明の乱による焼失、荒廃と豊臣秀吉による境内の南北分断
その後、応仁・文明の乱(146777年)で勧修寺は焼失し、荒廃した。さらに、豊臣秀吉が境内中央に伏見城につながる伏見道を設けたため、境内は南北に分断され、寸断された南側の地は勧修寺の境内からはずされた。
 
 
③江戸時代の復興と境内の整備
徳川家綱・綱吉の帰依を受け、伽藍の整備が進められた。皇室の援助もあり、17世紀末には、ほぼ現在の状況にまで復興した。
庭については明確な記録は見つかっていないが、境内が半減したため、池も分断されて埋め立てられ、相当縮小し、江戸時代の復興の時期に合わせて修復されたと考えられている。
 
※なお、分断された南側の地に、仁寿3年(853)創建と伝えられ、勧修寺の鎮守であったとされる吉利倶八幡宮があり、また、享保8年に、藤原定方の墓が建立された。
 
 
 
5 練習問題
(1)真言宗( 1 )派の大本山。山号「亀甲山」。本尊は千手観音。
 
(2)沿革
昌泰3(900)に藤原胤子(醍醐天皇生母)の願いで、藤原定万(胤子の弟)が祖父の( 2 )の邸宅跡に開創。承俊律師を開山に迎え、のち( 3 )の勅願寺に。15世の寛胤法親王が入寺以後、明治維新までは親王が住持する格式ある門跡寺院だった。
 
(3)千手観音
本尊。( 4 )の等身大。
 
(4)書院
重文。元禄10(1697)、( 5 )の旧殿を外賜されたもの。( 6 )作の襖絵がある。
 
(5)( 7 )
平安時代の作庭。睡蓮の名所。書院前庭には( 8 )より拝領の勧修寺型灯籠
がある。樹齢750年の名木( 9 )。
 
(6)( 10 )
国宝。勧修寺繍帳とよばれる。現在奈良国立博物館の所蔵。
 
(7)( 11 )
鎌倉時代の作。
 
【正解】
1
山階
2
宮道弥益
3
醍醐天皇
4
醍醐天皇
5
明正天皇
6
土佐光起
7
氷池園
8
水戸光圀
9
ハイビャクシン
10
刺繍釈迦如来説法図
11
蓮華蒔絵経筥
 
東山七条にある平重盛の山荘庭園と伝える「積翠園」の紅葉 
 
 京都に在住している人でも余り知られていない、穴場ともいえる庭園が、東山七条にある妙法院の北側に隣接する東山武田病院(旧:京都専売病院)にあります。
 
・東山武田病院
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 この病院には附属庭園として池を主体にした回遊式庭園があり、「積翠園」と名づけられています。
 
歴史をたどれば、この庭園は平安時代末期の治承期に平清盛の長男重盛の山荘庭園「小松邸」として造られ、平家物語にも記されている「小松内府の園池」であると伝えています。
 
その後、江戸時代には妙法院境内の庭園となり、元禄期に改修され、今から約50年前に、旧日本専売公社が土地を購入し、京都専売病院を経て、現在は東山武田病院の庭園となっています。
 
 
平安時代末期に造られた庭園であるとすれば、京都市内でこの時代の庭園で現存しているのは数少ないことから、貴重な遺構であるといわれています。
 
 また、この庭園は四季折々の美しい景観を楽しむ事ができ、地元でもあまり知られていないため、静かに散策する事ができます。
 
この庭園を見るには、病院の入口からいったん建物の中に入り、まっすぐ突き抜けると庭園に出ます。誰でも自由に見ることができますが、病院入口の受付で、「庭を見せてください」と一声かけてから入った方が良いと思います。
 
・庭園入口案内表示
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 秋の深まりとともに、庭園の広葉樹はきれいに紅葉していて、訪れる人もほとんどいないことから、落ち着いた庭をのんびりと散策することができました。
 
 なお、この東山武田病院のある敷地を使って、2014年にフォーシーズンズホテルが進出する計画があり、地上4階、地下1階建てで、客室数は約200室、スパやレストランも併設されるそうです。
 
 本格的な工事が始まれば、もうのんびり自由に庭園を散策することは出来なくなるかもしれません。
 
 
 
 
2 積翠園のようす
 回遊式庭園で、東西に池が広がり、東側に大島、西側に小島と2つの島がある。
 
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・「夜泊石」
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 大島の南側の水面には、「夜泊石(よどまりいし)」と呼ばれる5つの小岩がまっすぐに並んでいる。
 
夜泊石とは、中国の蓬莱思想に基づいて、仙人が住むとされる蓬莱山に島を見立て、不老不死の妙薬を積んで帰った宝船が港に一列に留まっている様子を石で表現したものといわれている。
 
苔寺や金閣寺の庭園にも見られる形式で、平安から室町期までの池泉式庭園の特徴の一つとされている。
 
 
 
3 沿革
 
 ・平安時代末期の治承期に、平清盛の長男重盛の山荘庭園「小松邸」として造られ、平家物語にも記されている「小松内府の園池」と伝えられている。
 
・江戸時代には妙法院境内の庭園となっており、元禄期に改修され、その後、旧日本専売公社が50年ほど前に土地を購入し、現在は東山武田病院の庭園となっている。
 
 
京都・東山七条にある智積院の色づき始めた紅葉と本坊前のサザンカの花 
 
  
 東山七条にある智積院は、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が残され、収蔵庫で拝観することが出来ます。
 
このうち、「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等は国宝に指定されています
 
また、書院前の庭園はかつての祥雲禅寺の庭園として広く知られていますが、智積院の境内も近年整備が進み、早春の梅や初夏のキキョウ、紫陽花など四季折々の花のほか、紅葉も楽しめるようになりました。
 
 東山七条かいわいでは、妙法院やその隣の積翠園庭園も紅葉の穴場としておすすめです。
 
 11月に入って、鐘楼前などの紅葉がきれいに色づいてきました。
 
 
 
 
 
2 境内の紅葉(115日撮影)
 
金堂と周辺の紅葉
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 本尊は大日如来。昭和50年に再建された。
 
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●講堂と周辺の紅葉
現在の講堂は平成7年に再建された。
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●鐘楼周辺の紅葉
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●収蔵庫と周辺の紅葉
桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が残されている。
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 玄宥僧正像
 
 
明王殿
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・本尊の不動明王は、紀州根来寺より伝来したと伝え、「麦つき不動」とも呼ばれる。
 
・この建物はもと京都四条にあった大雲院の本堂で、智積院旧本堂が焼失した後、譲渡されたもの。
 
 
 ●本坊への参道
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 前方に、妙法院庫裏(国宝)が見える。
 
 
●本坊
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・本坊前で咲いているサザンカの花 
 
 
●総門
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 東福門院の旧殿の門を移築したもの。境内から七条通方向を撮影。
 
 
 
3 沿革
・真言宗智山派の総本山で全国に3000余の末寺がある。
 
・智積院は、もとは、紀州根来山の大伝法院の塔頭で学問所であった。近世に入って根来山の大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)秀吉の根来攻めで全山炎上した。
 
・慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの翌年、家康は東山にある豊国神社(秀吉が「豊国大明神」として祀られている神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。
 
・さらに、元和元年(1615)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を「五百佛山」とした。
 
・祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。
 
・現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
 
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
 
 
 
4 庭園
・利休好みの庭といわれる中国の盧山を形どって造られた池泉鑑賞式庭園。
 
・桃山時代の作庭といわれ、斜面を利用した植え込み、滝とその石組などが名庭と称されている。
 
 
5 収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)
 収蔵庫では、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、かつて祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画をみることができる。
 
国宝に指定されている長谷川等伯・久蔵父子による襖絵
・「楓図」:
・「桜図」:
・「松と葵の図」
・「松に秋草図」
 
・「桜図」は等伯の長男、久蔵の遺作とされている。
 
 
6 京都検定の出題歴
(1)平成16年度2
智積院の「楓図」(国宝)の作者は誰か。
 (ア)長谷川等伯 (イ)海北友松 (ウ)雲谷等顔 (エ)狩野元信
 
【正解】(ア)
 
文禄3年(1594)、淀君が父の浅井長政の菩提を弔うために建立し火災による消失後、淀君の妹の崇源院が再建した寺院はどこか。
(ア)智積院 (イ)養源院  (ウ)妙法院  (エ)即成院
 
【正解】(イ)
 
(2)平成19年度3
【問】長谷川等伯と長男の久蔵が描いた障壁画「桜楓図」(国宝)は(  )にある。
(ア)養源院 (イ)円徳院  (ウ)智積院  (エ)南禅院
 
【正解】(ウ)
 
 
 
7 練習問題
(1)真言宗智山派総本山。山号「五百佛山」。本尊「大日如来」
 
(2)沿革
慶長5年(1600)、( 1 )が紀州根来寺の智積院玄宥僧正に、土地を与え、五百佛山根来寺智積院という坊舎を建立したことが始まり。その土地は、豊国社の坊舎の一部と祥雲禅寺であった。祥雲禅寺は、( 2 )が長男の( 3 )を供養するために建てたもの。
 
豊臣氏滅亡後の元和元年(1615)、祥雲禅寺の建物、障壁画、豊国社の堂舎、梵鐘を受け継いだ。
 
後に、数度の火災、幕末には( 4 )の屯所となった。
 
(3)書院前の庭園
国の名勝に指定。祥雲禅寺時代の庭を修築したもの。
山は中国の「廬山」を、池は「長江」をモデルにしたとされる。
 
(4)「桜楓図」
国宝。( 5 )筆の「楓図」と、長男の( 6 )が描いた「桜図」、「松に草花図」など長谷川一派の筆による障壁画で有名。いずれも祥雲禅寺客殿に描かれていたもの。大和絵の大作。
 
【正解】
1
徳川家康
2
豊臣秀吉
3
鶴松
4
土佐藩
5
長谷川等伯
6
久蔵
 

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