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京の社寺めぐり

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正月の上賀茂神社と本殿の特別参拝
 
 
 上賀茂神社は、下鴨神社の祭神である玉依姫命の子の賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祭神とし、正式名は「賀茂別雷(かもわけいかづちのかみ)神社」といいます。
 
 賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称されていて、京都三大祭の一つ、葵祭は賀茂神社両社の祭事です。
 
 ここは、平成6(1994)12月に「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されています。
 
 正月の上賀茂神社では、楼門をくぐって本殿への拝所になっている中門に、氏子の方が奉納された宝船が取りつけられ、この下をくぐって、普段は立ち入れない国宝の本殿の前まで進んで参拝してきました。
 
 正月ならではの雰囲気を味わい、正月早々、少し得をした気持ちにもなりました。 
 
 
 
 
1 境内
 
 賀茂川にかかる御薗橋を渡り、上賀茂神社前のバス停でバスを降りると、目の前に大きな一の鳥居が立ち、ここから二の鳥居まで真っ直ぐな参道が見えます。
 
●一の鳥居
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●二の鳥居まで真っ直ぐに続く参道
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●神馬舎
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 正月には白馬がいます。
 
 
●二の鳥居
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 二の鳥居をくぐると、左側に拝殿(細殿)とその前に立砂が、またその右に舞殿(橋殿)が見えます。
 
 
●拝殿(細殿)と立砂
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※立砂
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・神代の時代、神が降臨したと伝える神山を模したもの。
 
・神山は、神社の北2kmほどのところにある。
 
・立砂の頂点には神が降臨するための目印として松葉が挿されている。
 
・鬼門にまく清めの砂の起源とされる。
 
 
●龍の絵の大絵馬
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 さらに樟橋(長寿橋)をわたり御物忌川にそって歩くと、楼門の前に出る。楼門の前には朱色の「玉橋」があります。
 
●樟橋(長寿橋)をわたって楼門へ
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・樟橋
 
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●玉橋
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 楼門の向かいにある。
 
 
※御物忌川と「なら(楢)の小川」
・玉橋の下を流れる川を御物忌川といい、本殿の西側に流れる御手洗川と合流して「なら(楢)の小川」となり、境外に流れ明神川となる。明神川沿いに神官たちの社家町が残り、昭和63年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 
  
●楼門
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 左右に回廊をめぐらした朱塗りの門で、寛永5年(1628)の建築です。
 
 楼門をくぐって、石段を上ったところが中門で、普段はここが拝所となっています。
 
 
・辰の彫刻
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 チェーンソーによる作品
 
 
・厄除 卯杖
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●中門(参拝所)
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 中門には、氏子たちによって作られたお正月飾りの宝船が事始めの1213日から飾られています。
 
・宝船
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 新年に宝船の下をくぐって、参拝すると一年間、無病息災で過ごせるといわれています。
 
 中門の奥にあるのが本殿で、権殿はその左側にあります。
 
 
※本殿と権殿(国宝)
・正面右奥側に、「本殿」、左奥側にあるのが「権殿」。
 
・現存の建物は文久3年(1863)の建てかえ。流造りで、国宝に指定。
 
・神社のご神体は「神山」。「本殿」と「権殿」は神山の遥拝所という位置づけ。
 
《新年特別参拝》 
元日から5日までは、中門から本殿の前に出て、参拝することができ、この場合には、本殿の前から摂社の新宮社の前に出て、新宮門を通って楼門の前に戻ることになります。
 
●摂社の新宮社
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●新宮門
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正月の縁起物
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祈願絵馬
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3 沿革
 
(1)創建
・平安京造営以前から先住していた賀茂族の氏神として祀られたのがはじまり。
神代の昔、本殿の北北西にある神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代現在の地に社殿を造営したと伝える。

・賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称される。
 
 
(2)祭神
・下鴨神社の祭神・玉依姫命の子、賀茂別雷大神が祀られており、正式には、賀茂別雷神社という。

・雷神を祀ることから、厄除けの信仰を集めている。

・平安京遷都後は、王城鎮護の神とされ、朝廷の尊崇を受けるようになった。

・葵祭は賀茂神社両社の祭事である。
 
 
(3)山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。
・明治の近代社格制度でも、官幣大社の筆頭という、伊勢神宮の次位の神社とされ、明治16年には勅祭社に定められた。

・現在は、厄除、方除、電気の守り神、必勝の神として信仰を集めている。
 
 
 
4 祭事
<おもな祭事>
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116日:武射神事
 
55日:競馬会神事
 
512日:御阿礼神事
 
515日:葵祭
 
99日:烏相撲
 
1113日:相嘗祭
 
 
 
5 京都検定の出題歴
(1)平成18年度2
(
)「社寺」と「行事」の組み合わせ。誤っているものはどれか。
(ア)上賀茂神社−幸在祭  ()愛宕念仏寺−千灯供養
(ウ)下鴨神社−蹴鞠始め  (エ)大覚寺−観月の夕べ
 
【正解】()
 
(2)平成18年度3
(
)賀茂社は、上社の( 1 )、下社の( 2 )の総称で、京都で最も歴史ある神社の一つであり、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。
 上社は、平安遷都以来、王城鎮護の神社とされ、歴代天皇の行幸があった。55日の( 3 )は平安時代に起源をもち、古式に則して行われる伝統行事の一つである。
 
【正解】
1
賀茂別雷神社
2
賀茂御祖神社
3
競馬会神事
六波羅蜜寺へ初もうでに行って、「皇服茶(大福茶)」をいただく  
 
 
六波羅蜜寺は、鴨川に架かる松原橋から東へ約400m進み、「六道の辻」と呼ばれる西福寺の角を南へ入ったところにあります。あたりには民家や商店が建ち並んでいて、ここは有名なお寺なのに、境内が狭く、窮屈に感じるところです。
 
六波羅蜜寺とその前の通り
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六波羅蜜寺の創建の由来について、平安時代中期の天暦5年(951)、空也が造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称したと伝えています。
 
空也は疫病の蔓延する当時の京の都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったといわれています。
 
空也の死後、比叡山の僧・中信が中興して六波羅蜜寺と改称し、それ以降天台宗に属し、桃山時代には真言宗智積院の末寺となりました。
 
平安時代末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、その後鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近とされています。
 
六波羅蜜寺は江戸時代までは大伽藍を連ねていましたが、明治初期の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を縮小しました。現在、寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭く、主な建物は本堂(南北朝時代、重文)と弁財天堂、宝物収蔵庫のみとなっています。
 
 ここはまた、西国三十三所観音霊場17番札所として、年間を通じて多くの参拝客が訪れています。
 
 こうした六波羅蜜寺では、毎年正月三が日に「皇服茶」の接待が行われ、3日の午前中に、頂いてきました。
 
 
1 場所
 
 
2 境内
 
●本堂(南北朝時代、重文)
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・貞治2年(1363年)の再建

・外陣を板敷きとし、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式建築といわれるもの。
 
 
●石仏(阿弥陀石仏)と阿古屋塚(右側手前)、清盛塚(右側奥)
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大福茶(皇服茶)について
もともと、大福茶とは、若水(元旦の朝に初めて汲む水)で沸かした煎茶の中に結び昆布と小粒の梅干を入れたもの。
 
平安時代、京都に疫病が流行した折、空也上人が薬茶をふるまったことに始まるといわれ、村上天皇も服した茶ということで「皇服茶」「王服茶」といわれ、のちに「大服茶」となり、さらに福を招くに転じて「大福茶」となった、と伝えられている。
 
今では、その大福茶は、113日、ここ、六波羅蜜寺でいただくことができる。六波羅蜜寺では、村上天皇も服した茶ということから「皇服茶」と呼んでいる。
 
 
《境内のようす》
 
案内板
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飲み方
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接待のためのテント
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皇服茶(300円で御守付き)
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結び昆布と小粒の梅干が入っている。
 
 
・御守り
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京都で暮らしている人の中に、毎年ここで皇服茶を頂かないと正月が来たという感じがしないという人も多いようです。
 
 
 
3 沿革
・天暦5年(951)、「市の聖」、空也上人が建立した西光寺に始まる。

・真言宗智山派、西国33所第17番札所。山号は補陀洛山。

・本尊は空也上人の自刻の十一面観音立像(国宝)

・空也上人は、醍醐天皇の第二皇子。六斎念仏の始祖。ゆかりの皇服茶、空也踊躍念仏が今に伝わる。

・平安末以降、この付近には平清盛ら平家一門の屋敷(六波羅殿)が営まれた。また、鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれた。

・明治の廃仏毀釈の影響により、大幅に寺域を縮小。
 
 
 
4 仏像
本尊「木造十一面観音立像」(国宝)
951年に空也が創建した西光寺の本尊像であり、空也上人の自刻と伝える。
・本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏。
・像高258cmの一木造。平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例として国宝に指定。
 
空也上人立像(重文)
<境内にあるポスター>
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平清盛座像(重文)
<境内にあるポスター>
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東山の豊国神社に初もうで  
 
 
 豊国神社は、七条通よりも一本北の通りである正面通の東の突き当りの石段上にあります。
 
 豊国神社は、明治13年(1880)に、明治政府が方広寺の大仏殿跡に再興した神社で、豊臣秀吉を祭神としています。
 
 ここにはかつて伏見城の城門であったと伝える唐門があります。桃山時代の雰囲気を伝える豪華な彫刻があり、国宝に指定されています。
 
ここの唐門は、同様に伏見城から移築された西本願寺の唐門、聚楽第の遺構と伝える大徳寺唐門と並んで、京の三唐門の一つといわれています。
 
唐門には「鯉の滝登り」の彫刻があり、鯉は竜門の滝を登って龍になるとの故事があることから、この唐門は出世開運の社にふさわしく、立身出世の関門「登竜門」で、この唐門をくぐると出世できるといわれています。
 
普段は唐門から中に入れませんが、正月三が日には特別に、「登竜門」ともいわれる唐門をくぐって、その奥にある拝殿から本殿の前まで進んで、参拝することができますので、初詣先としてはおすすめのところです。
 
今日は特別に本殿前で参拝してきました。
 
唐門の左右には石灯籠が並んでいますが、これらの灯籠は秀吉を思う諸大名がそれぞれ神社に寄進したものと伝えています。
 
 
 
場所
 
 
2 境内
 
●正面通に面した石段と鳥居
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参道と唐門
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・唐門から見た鳥居と正面通方面
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唐門(国宝)
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 唐破風がついた四脚門で、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたと伝えられている。
 
欄間や扉の彫刻は華麗で、いかにも桃山時代のものらしいといわれる。
 
 
≪唐門の扉の彫刻≫
 
・「鯉の滝登り」の彫刻
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  鯉は竜門の滝を登って龍になるとの故事があることから、この唐門は立身出世の関門「登竜門」になっている。出世開運の社にふさわしいこの唐門をくぐると、出世できるといわれている。
 
 
・扁額と鶴の彫刻
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 扁額には後陽成天皇から秀吉に与えられた神号「豊国大明神」の文字があり、この額は後陽成天皇の宸筆ともいわれている。
 
目玉がないため「左甚五郎の目無し鶴」と呼ばれている。これは名人・左甚五郎の彫刻の出来が良すぎたために、鶴に目を入れると魂が宿り飛び去ってしまうと思い、鶴の脱走防止のためにあえて目を入れなかったといわれている。
 
 
・桐紋
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●拝殿
・唐門から見た拝殿
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・拝殿
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本殿
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●貞照神社
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 本殿に向かって右側にあり、秀吉夫人の北政所をまつる。
 
 
 
3 京都十六社朱印めぐり
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初詣におすすめです。
 
・今宮神社  (開運隆昌・健康長寿)  北区紫野今宮町21
・わら天神宮  (安産・厄除け・家内安全) 北区衣笠天神森町
・御霊神社  (厄除け・学業成就)  上京区上御霊竪町495
・西院春日神社  (厄除け・病気平癒) 右京区西院春日町61
・六孫王神社  (出世開運・家運隆昌)  南区壬生通八条角
・市比賣神社 (女性の守り神・市場の守り神)下京区河原町五条下ル一筋目西入
・岡崎神社  (厄除け・安産・縁結び) 左京区岡崎東天王町51
・熊野神社  (縁結び・安産・病気平癒) 左京区聖護院山王町43
・若王子神社  (学業成就・商売繁盛) 左京区若王子町2
・豊国神社  (開運招福) 東山区大和大路通正面茶屋町530
・粟田神社   (旅立守護・厄除け) 東山区粟田口鍛冶町一番地
・新熊野神社  (健康長寿・病魔退散・お腹の神) 東山区今熊野椥ノ森町42
・吉祥院天満宮 (知恵と勉強の神・受験合格・開運招福) 南区吉祥院政所町3
・藤森神社  (男人守護の神様・勝運と馬の神様) 伏見区深草鳥居崎町609
・御香宮神社  (安産・開運招福) 伏見区御香宮門前町174
・長岡天満宮    (入学祈願・厄除開運)   長岡京市天神2-15-13
 
 
 
4 豊国神社の沿革
<説明板>
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(1)豊臣秀吉の死去と豊国社
慶長31598)年豊臣秀吉は伏見城において63歳で死去。遺命により方広寺近くの東山三十六峰の一つ、阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、翌、慶長4年(1599)年、中腹を切り開き「太閤坦(たいこうだいら)を造成し、ここに豊国廟、豊国神社等が造成された。
 
後陽成天皇から正一位の神階と「豊国大明神」の神号が贈られ、盛大に鎮座祭が行われた。
 
境内域30万坪を誇る壮大な神社であったといい、慶長9年の秀吉公七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときのようすは、豊国臨時祭礼図屏風(重文)に描かれている。
 
元和元年(1615)に豊臣家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされた。なお、神体はひそかに新日吉神宮に移し、祀られたという。
 
 
(2)豊国神社の再興
明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。
 
明治6年(1873)、別格官幣社に列格。
 
明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡地の現在地に豊国神社が再興され、遷座が行われた。
伏見の御香宮神社に初もうで
   
 
今朝の京都は雨が降ったり晴れたりという天気でしたが、初詣に行ってきました。
 
まずはじめに、地元伏見区で古い歴史を持ち、昔から伏見一帯の氏神、総鎮守といわれている御香宮神社に行きました。
 
 
<説明板>
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御香宮神社は近鉄桃山御陵前駅の近くにあり、境内には、
 
表門は徳川頼房が伏見城の大手門を拝領して寄進したもの
 
拝殿は徳川頼宣による寄進
 
・本殿は徳川家康による再建
 
と伝えられています。
 
 また、神社の名前の由来は、境内で湧き出した井戸を清和天皇が「御香水」と命名し、これが神社の名前に結びついたといわれています。
 
 祭神として神功皇后をまつることから安産祈願の御利益があると信仰され、境内には「安産の杜」の像があります。
 
また、秋に行われる祭礼は洛南随一の大祭といわれています。
 
 
 
※場所
 
 
1 正月の境内
 
表門(重文)
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 元和8(1622)、徳川頼房(水戸光圀の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進したものと伝えられる。
 
・表門から拝殿に向かう参道
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拝殿(京都府指定文化財)
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 寛永2年(1625)に徳川頼宣が寄進。割拝殿。入母屋造、本瓦葺。
 
・拝殿前の狛犬
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・拝殿から本殿前の拝所へ
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・拝所
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●本殿(重文)
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 徳川家康の再建。五間社流造。
 
 
御香水(名水百選)
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・貞観4年(862)に、境内に良い香りの水が湧き出し、これを飲むと病気が治ったという奇跡が起き、清和天皇から「御香宮」の名を賜る。
 
・社名の由来となった御香水の井戸は本殿東側、汲み上げた水は本殿前に出ている。
 
<清和天皇御香水社名下賜1150年祭の掲示>
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2 祈願絵馬と「伏見五福めぐり」
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 「伏見五福めぐり」は、御香宮、長建寺、大黒寺、乃木神社、藤森神社をまわって、それぞれの朱印を所定の台紙に集めて回るというもの。
 
 全部回ると今年は「辰」の土鈴のプレゼントがあり、この5年くらいは毎年近場で回っています。
 
 
三条木屋町近くにある瑞泉寺と豊臣秀次の墓
 
 
京阪三条から三条大橋を渡って最初の交差点、木屋町通を南に向かうと左手に瑞泉寺の山門が見えます。
 
江戸時代の初め、角倉了以が高瀬川の開削工事中に「秀次悪逆塚」と刻まれた豊臣秀次の石塔を発見し、了以が豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立したのが瑞泉寺の始まりとされています。当時、このあたりは鴨川の中州だったといわれています。
 
・説明板
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以来、瑞泉寺は400年間にわたって死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養してきました。
 
豊臣秀次は文禄4年(1595)、叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放され、切腹を命じられその首は三条河原でさらし首とされました。秀次の妻妾、幼児などを合わせて30余人、捕らえられ、三条河原で打首、秀次の首とともに河原に埋められ、塚が建てられ、石塔が置かれたといいます。その後、洪水によって塚が荒れてしまっていたのでした。
 
現在の瑞泉寺には本堂に本尊の阿弥陀如来像を安置し、境内の地蔵堂に安置する地蔵菩薩像は秀次一族の処刑の際に次々に引導を授けたと伝える「引導地蔵尊」といわれています。
 
一族の墓所には、中央の墓塔の左右に石塔が49並んでいます。39人の一族と後を追った10人の石塔といわれています。
 
山門を入って右側にロウバイの木があります。
黄色い花に黒い筋の入った花が咲き、寒い冬の日にもの悲しげな花を咲かせるようすを今年も忘れずに見に行きたいものと、楽しみにしています。
 
 
 
 
 
2 冬の境内のようす
●木屋町通に面している山門
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●本堂
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●秀次と一族の墓
<説明板>
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●引導地蔵
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宝篋印塔
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 秀次一族の供養のために建てられたものと考えられている。
 
 
●大日如来
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●石灯籠の脇で咲いていた菊とホトトギス
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3 沿革
<説明板>
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●経過
豊臣秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を継いでいた。
 
処刑まで
・秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、秀次は次第に疎んぜられ、文禄4年(1595)、7月、高野山において自害させられた。

・秀次の首は三条河原に運ばれ、その前で秀次の遺児、妻妾39人が処刑され、その場に埋葬され、そこには「悪逆塚」または「畜生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれた。

・翌月、秀次の幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で死刑に処せられた。
 
処刑後
・遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていた。
・秀次一族の塚は、その後鴨川の氾濫などにより荒廃した。
 
角倉了以による堂宇の建立
・慶長16年(1611)、角倉了以が高瀬川の開削中に秀次の墓石を発見して、墓を再建するとともにその地に豊臣秀吉の甥、豊臣秀次一族の菩提を弔うために堂宇を建立した。これが瑞泉寺の起こりとされる。瑞泉寺の名は、秀次の法号、瑞泉寺殿をとって名付けられた。
 
●現在の瑞泉寺
・浄土宗西山禅林寺派に属する。
・本堂には本尊阿弥陀如来像を安置。
・寺宝として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。
・境内には秀次の墓及び幼児・妻妾や殉死した家臣らを弔う49基の小五輪塔が並んでいる。
 

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