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京の社寺めぐり

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京都検定のため、必要最小限の重要事項の整理を加えました。
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西賀茂の正伝寺と春の境内
 
 
正伝寺は洛北西賀茂、五山送り火の一つ「船形」のある船山のふもとにある臨済宗南禅寺派の寺院です。
 
吉祥山と号し、正式名は正伝護国禅寺といいます。
 
創建は鎌倉時代にさかのぼり、本堂は伏見城の殿舎を移築したものと伝え、広縁の天井は伏見城落城時の血痕が残る廊下を張った血天井といわれています。
 
また、襖絵は狩野山楽による逸品といわれています。
 
本堂前に広がる庭園は小堀遠州による枯山水の庭園と伝え、比叡山を借景としたサツキの刈り込みを七五三調に配植し、築山風に表現したもので、「獅子の児渡し」といわれています。
 
  しだれ桜が咲いていた4月末のようすです。
 
 
1 場所
 
 
2 境内
山門
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山門前で咲いていたシャガの花
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参道途中にある石仏
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参道と庫裏
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参道の脇で咲いていたスミレと山吹
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●本堂(方丈)
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・承応2年(1653)に伏見城の殿舎を移築したもの。重文。
 
・広縁の天井は伏見城落城時の血痕が残る廊下を張った血天井といわれる。
 
・方丈襖絵は、狩野山楽が描いた「淡彩山水図障壁画」(重文)
 
<扁額>
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<血天井>
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<三つ葉葵の紋のある釘隠し>
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本堂(方丈)前の庭園としだれ桜
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・小堀遠州の作による、白砂を敷き詰めた枯山水庭園。
・サツキの刈り込みを右から七五三調に配植し、築山風に表現している。この皐月の刈込で、七五三調に「獅子の児渡し」を表現しているという。
・正面に見える比叡山を借景としている。
・月見の名所でもある。
 
 
鍾楼
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・鐘楼としだれ桜
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庫裏としだれ桜 
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3 沿革
<説明板>
 
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・正伝寺は吉祥山と号し、その創建は鎌倉時代にさかのぼる。
 
・国の重文に指定されている本堂(方丈)は入母屋造、こけら葺きで、寛永年間(16241644)に伏見城の遺構を移建したものと伝えられる。
 
・また、本堂の襖絵は、桃山時代の絵師、狩野山楽の筆になる逸品である。
 
・さらに本堂前庭は、白砂敷にサツキを中心とした三群の刈込みを配した枯山水で、土塀越しにのぞまれる比叡山が美しい姿を見せている。
 
・この庭園は、京都における代表的な借景庭園として、昭和6061日、京都市指定名勝とされた。
 
 
補足
・鎌倉時代の弘安5年(1282)に烏丸今出川に創建し、室町時代には天皇家、将軍家の帰依を受けたが、応仁の乱(14671477)の兵火により衰退し、その後、豊臣秀吉・徳川家康の援助を受け復興した。
 
・東山にある長楽寺の本堂は、西賀茂にある正伝寺の法堂(元伏見城御成門中にあったのを正伝寺に移したもの)を明治23年に譲り受けたもの。
 
 
 
4 練習問題
(1)臨済宗( 1 )派。山号「吉祥山」。本尊「釈迦牟尼仏」
 
(2)正式名「( 2 )」
 
(3)沿革
・文永10年(1273)に東巖慧安が師の兀庵普寧を開山として烏丸今出川に創建。
・後醍醐天皇の勅願所となった後、暦応3年(1340)には十刹に加えられ、足利義満の祈願所に。
石像寺 (通称「釘抜地蔵」)
 
 
 石像寺は通称「釘抜地蔵」として広く知られ、千本寺之内の交差点から千本通を南は100mほどのところにあり、通りに面した西側に山門があります。
 
 間口の狭い入口を入ると、山門を経て、参道がまっすぐ地蔵堂まで続いています。
 
 ここは、弘仁10年(819)、弘法大師が地蔵菩薩立像を彫り、人びとを苦しみから救おうと「苦抜(くぬき)地蔵」と名づけられたといい、後年になって「釘抜(くぎぬき)地蔵」と呼ばれるようになったと伝えています。
 
 お堂の周りには、2本の釘と釘抜をくくりつけた絵馬がびっしり貼られています。
 
 ここでは、地蔵堂背後の阿弥陀三尊像も必見です。鎌倉初期の傑作といわれています。
 
 
※場所
 
 
1 境内
 
●千本通に面した入口
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●山
門を経て、地蔵堂まで続く参道
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●地蔵堂
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 本尊の地蔵尊は、大師が自ら刻んだと伝える石造の地蔵菩薩
 
 
●地蔵堂の前にある大きな釘抜き
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●手水舎
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●観音堂
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 行基の作と伝わる観世音菩薩を祀る。
 
 
●絵馬
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●石仏と奉納された釘抜きと釘の絵馬
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●地蔵堂背後の阿弥陀三尊像
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鎌倉初期の傑作で天仁元年(1224)に伊勢守・佐伯朝臣為家によって彫られたものと伝え、寺号である石像寺は、地蔵堂の背後にあるこの阿弥陀三尊像(重要文化財)から命名された。
 
 
2 沿革
・正しくは光明遍照院石像寺といい「釘抜地蔵」「くぎぬきさん」として親しまれている。
 
・弘法大師(空海)の開基と伝え、もとは真言宗であったが、重源上人が中興してから浄土宗となった。
 
・地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩立像は弘法大師の作と伝えられ、もとはもろもろの苦しみを抜き取るという信仰から苦抜地蔵と呼ばれていたが、それがなまって釘抜地蔵となった。
 
・一説には、手の病気に苦しむ商人の妻に地蔵菩薩が現れ、手に刺さっていた二本の恨みの釘を抜いて救ったことから苦抜地蔵と呼ばれるようになったとも伝えられる。
・地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(重文)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は、高さ1.2m、天仁元年(1224)に伊勢守・佐伯朝臣為家によって彫られ、翌年開眼供養した銘がある。
 
・観音堂には行基の作と伝えられる観世音菩薩を祀っている。
 
・境内には、弘法大師三井の一つという加持水がある。
 
・また、この地は鎌倉時代初期の歌人・藤原定家、家隆が住んだところとも言われており、定家らの墓と伝えるものがある。
(現地の説明板より転記)
 
 
 
3 京都検定の出題歴
平成16年度2
「寺院」と「その通称名」の組み合わせのうち、誤っているものを選びなさい。
 (ア)曼殊院・椿寺  (イ)華厳寺・鈴虫寺  (ウ)勝持寺・花の寺
 (エ)石像寺・釘抜き地蔵
 
【正解】(ア)
 
 
 
4 練習問題
(1)正式名「( 1 )」、通称「釘抜地蔵」
 
(2)本尊:阿弥陀如来。
 
(3)弘仁10年(819)に( 2 )が建立、のち、俊乗坊( 3 )が浄土宗に改めた。
 
(4)通称名は、地蔵堂の石造地蔵菩薩立像に由来。「( 4 )地蔵」から「( 5 )地蔵」に転じた。
 
(5)2本の釘と釘抜を貼り付けたお礼絵馬が多数奉納されている。
 
【正解】
1
光明遍照院石像寺
2
空海
3
重源
4
苦抜き
5
釘抜
宇治の恵心院と境内で咲いていた河津桜と春の花
 
 
 恵心院は、宇治川のほとりにある、年間を通じてさまざまな花が見られる、植物園のような境内を持つお寺です。
 
 京阪宇治駅から通園茶屋の脇を橋寺の山門前を通り宇治川に沿って続く道は「さわらびの道」と呼ばれ、途中、この道と別れてさらに宇治川に沿って進むと、宇治神社の鳥居を過ぎたところに、恵心院へ向かう緩い坂道の参道があります。
 
 参道を上っていき、突き当たりを右に折れると正面に恵心院の表門が見えます。
 
 この参道は早春には水仙が咲き、春には山吹が咲いて、とてもきれいです。
 
 参道を上っていき、突き当たりを右に折れると正面に恵心院の表門とその向こうに本堂が見えます。
 
 恵心院は弘仁13(822)、弘法大師が開基した龍泉寺を源とするという古い歴史を持つ真言宗智山派に属する古刹で、戦火による荒廃の後、寛弘2(1005)、比叡山の恵心僧都(源信)によって再興されたと伝えられています。恵心院という名はそれにちなんでいます。
 
 境内には四季折々にさまざまな花が咲き、ここを訪れる人たちの目を楽しませてくれます。
 
 3月末の週末、雨の恵心院の境内では河津桜が満開で、このほか、レンギョウ、ミツマタ、馬酔木、椿、沈丁花などが咲き、もう少し経てば大きな三春桜などのしだれ桜が咲いて、春本番を迎えます。
 
 
※場所
 
 
1 境内
表門と「恵心僧都説法の遺場」と書かれた標石
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 標石は表門脇にあります。
 
 
本堂
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 本尊の木造十一面観音立像は平安時代の作で、宇治市指定文化財になっています。
 
・扁額
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2 境内で見られた花
河津桜
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●ミツマタ
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沈丁花
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●馬酔木
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●水仙
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●白梅
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●レンギョウ
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●ボケ
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●雪柳
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●洋椿(サルト)
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4 沿革等
<説明板>
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 恵心院は弘仁13(822)、弘法大師が開基した龍泉寺を源とするという古い歴史を持ち、真言宗智山派に属する古刹で、戦火による荒廃の後、寛弘2(1005)、比叡山の恵心僧都(源信)によって再興されたと伝えられています。恵心院という名はそれにちなんでいます。
 
 江戸時代には淀藩主永井氏の庇護を受けて伽藍が整備され、徳川家康らの庇護を受け繁栄したと伝えられています。
 
 現在では永禄2(1559)造営の表門と本堂だけが残っており、本尊の木造十一面観音立像は平安時代の作で、宇治市指定文化財になっています。
 
 

山科の歓喜光寺

山科の歓喜光寺
 
 
 歓喜光寺は、京都市山科区大宅の奈良街道と名神高速の高架橋が交差する東側、大宅中学校の東に隣接したところにある時宗の寺院で、山号は紫苔山、院号は河原院。本尊は阿弥陀如来、開山は聖戒(しょうかい)です。
 
 ここは、寺伝によれば、正応4年(1291)京都・八幡に時宗開祖・一遍上人の高弟・聖戒によって、善導寺として創建されたのが始まりで、正安元年(1299)に、聖戒に帰依した関白・九条忠教の庇護のもと、六条東洞院の源融左大臣の旧跡(六条河原院)に移転し、菅原道真の父の菅原是善の旧邸の天満宮とその神宮寺である歓喜寺を合併しました。
 
 この際、寺の名称を歓喜光寺に改め、その所在地から「六条道場」とも呼ばれるようになったと伝えています。
 
 その後、寺地は転々と移り、明治40年(1907)、東山にあった法国寺と合併し、法国寺の所在地である東山区遊行前町(五条通東大路上る)に移転しましたが、昭和50年(1975)には駐車場建設のため東山区の旧地を立ち退いて、山科区の現在地に移転しました。
 
 移転の際に、本堂及と地蔵堂は解体して東山から移設されて復元建立し、数多くの石仏も移されましたが、庫裏・書院・御供所などは新築されたということです。
 
 
※場所↓
 
<周辺地図>
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1 境内
 
 大宅中学校側にある山門の下に駐車場があり、ここから石段を上がって西門に入ります。
 
<境内案内図>
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●山門
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 山門を入ると、正面に地蔵堂があり、駐車場側の塀に沿って多くの石仏が置かれています。
 
 
●地蔵堂
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・扁額
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・お堂の内部と「南無地蔵」
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<説明板>
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・昔、東山の五条坂近辺は、鳥辺野墓地に隣接する埋葬地で、その中に一体の地蔵尊が安置されていました。人々はお地蔵さんの前を通り過ぎるとき口々に「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお唱えご回向したことから、「南無地蔵」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 
・地蔵堂正面中央に安置されている「南無地蔵」は、丸彫りの石像で背丈は1.6mあり、台座石には「宝永7824日」と刻まれています。
 
・地蔵堂には子安地蔵をはじめ8体のお地蔵さんが、堂の周りには約450体のお地蔵さんが鎮座しています。
 
この地蔵堂も東山五条から移転したもので、かつては法国寺の境内にありました。
 
 
●数多くの石仏
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450体あり、昭和50年(1975)に、歓喜光寺が東山五条坂からこの地に移転し、復元建立された時に一緒に移ってこられたということです。
 
 
地蔵堂の前から庫裏の前に出て、更に奥へ進むと本堂が見えます。
 
 
●本堂
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<説明板>
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 もとは法国寺の本堂です。桃山時代の建立で府指定文化財になっています。
 
現在の本堂は、法国寺のもので、これは、慶長6年(1601)に豊臣秀頼が浅井備前守息女母公(淀君)二世安楽のため建立されたものと伝えられています。
 
本堂内陣の中央には、ご本尊の阿弥陀如来立像と脇仏が祀られています。
 
 
●伊予河野氏石碑
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「天明三(1783)年九月十五日」の文字があるが、詳細はわかりません。
 
 
●智拳印を結んだ金剛界大日如来の石像
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<説明板>
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  今では、病気平癒の祈願像として祀られているそうです。
 
●石塔
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●境内で咲いていた花
 
・白梅
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・ツバキ
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2 沿革
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・歓喜光寺の開山である聖戒は、宗祖一遍の高弟で、一遍の諸国巡礼に随伴した僧であり、一遍の実弟ともいわれている。
 
・『弥阿上人行状』等によると(「弥阿上人」は聖戒のこと)、歓喜光寺は正応4年(1291年)、綴喜郡八幡(現・京都府八幡市)に善導寺として創建されたという。
 
・石清水八幡宮に近いこの地が寺地として選ばれたのは、八幡神の本地を阿弥陀如来とする信仰による。
 
・それから数年後の正安元年(1299年)、寺は関白九条忠教の庇護のもと、六条東洞院(現・京都市下京区)の源融(みなもとのとおる)左大臣の旧跡(六条河原院)へ寺地を移すとともに、菅原是善(菅原道真の父)の旧邸(現・京都市上京区堀松町)の天満宮とその神宮寺である歓喜寺を合併した。この際、寺号を歓喜光寺に改め、所在地から「六条道場」とも称するようになった。
 
・応仁の乱の後、寺は高辻烏丸(現・京都市下京区)に移転し、さらに天正年間(1573 - 1592)に豊臣秀吉によって四条京極へ移転させられて、近世を通じて同地にあった。
 
・この地は現在の京都市中京区中之町(新京極通り四条上る)であり、境内にあった天幡宮だけが繁華街の中に残されて、錦天満宮と称している。
 
 
・寺はその後、明治40年(1907)、東山にあった法国寺と合併し、法国寺の所在地である東山区遊行前町(五条通東大路上る)に移転した。東山五条の交差点の近く、大谷本廟などの所在する地区である。
 
・法国寺は後陽成天皇の母・新上東門院が、父・勧修寺晴右(かじゅうじはれみぎ)の追善のために建てた寺で、当初「豊国寺」と称したが、豊臣秀吉の没後、徳川家をはばかって「法国寺」に改称したという。
 
・移転はさらに続き、昭和50年(1975)には駐車場建設のため東山区の旧地を立ち退き、郊外の山科区に移転した。
 
・なお、国宝の絵巻『一遍上人絵伝』(12巻)は、歓喜光寺の開山・聖戒と絵師・円伊によって作製された経緯から、もと歓喜光寺に伝来したものであるが、20世紀末頃に時宗本山、神奈川県藤沢市にある清浄光寺の所有になっているという。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)
 
 
錦天満宮とのかかわりや、渉成園の近くにある「六条道場」と書かれた石碑について、思い巡らせてみるのも面白いと思います。
 
このあたりに六条道場・歓喜光寺があったと思われます。
 
京都三条会商店街から武信稲荷へ
 
 
京都三条会商店街は京都の西の中心部に位置し、堀川通り〜千本通りの間の三条通を、約800mアーケードにして、その下に約180ものお店が並んでいます。
 
・三条会商店街
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この商店街は二条城から近くにあり、ちょっと下町の雰囲気のあるこの商店街から南へ少し歩くと武信稲荷神社があります。
 
武信稲荷神社は平安時代にこの近くにあった藤原氏の学問所観学院と人々の健康長寿を願って創設した施設である延命院の守護社として、右大臣であった藤原良相(ふじわらのよしすけ)公によって創建されたと伝えられています。
 
境内には樹齢約850年といわれるエノキの大木がそびえています。
 
この木は、平安時代末期に平重盛が宮島の厳島神社から苗木を移して植えたものという伝承を持ち、神木とされています。

また、幕末に坂本龍馬がこの木に「龍」の文字を刻み、おりょうへの伝言にしたという逸話が伝わり、このエノキは龍馬とおりょうの縁結びの木として知られていることから、武信稲荷神社は縁結びのご利益を求めて訪れる人の多い神社です。
 
 
 
 
1 境内
●入口の鳥居と参道
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●舞殿
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・ツバキ
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●手水舎
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●拝殿・本殿
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 右は舞殿、左は拝殿・本殿
 
 
●エノキの大木(ご神木)と宮姫社(弁財天)
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・本殿のわき、境内社の宮姫社(弁財天)に接するようにそびえている。
 
・樹齢約850年、高さ約23m、胸高幹周り約4m。京都市の天然記念物に指定。
 
 
○境内社宮姫社(弁財天)の沿革
 
御神木のエノキに宿る弁財天。
 
<由緒>
・平安時代末期に平重盛が宮島の厳島神社から苗木を移して植えたものと伝わる。
 
・エノキは「えんの木」とも読まれ、弁財天が宿るといわれる。ご神木のエノキに宿る弁財天を祀る末社の「宮姫社」は、縁結び、恋愛の神として信仰を集めている。
 
・市の天然記念物に指定。
 
●境内に貼られているポスター
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<龍馬とおりょうの逸話>
坂本龍馬がこの木に「龍」の文字を刻み、おりょうへの伝言にしたという逸話があることから、このエノキは龍馬とおりょうの縁結びの木ともいわれている。
 
≪逸話≫
神社のすぐ南には江戸時代、幕府直轄の六角獄舎があった。
幕末、ここには勤王の志士が多数収容されており、その中に坂本龍馬の恋人おりょうの父の楢崎将作が勤王家の医師であったため捕らえられて収監されていた。龍馬は楢崎将作の身を案じ、何度か六角獄舎に様子を探りに来ていたが、龍馬自身も命を狙われ追われる身であり、二人は離れることとなった。その後おりょうは龍馬の身を案じ行方を捜していたところ、武信稲荷神社の榎の幹に、龍馬独特の字で『龍』の字が彫ってあったという。おりょうは、これは、龍馬が自分は今も生きていて京都にいるのだ、というメッセージなのだと思い、二人の共通の知人を訪ね、それにより二人は再び出会えたという。
 
 
 
●境内 社
○釘抜大明神(釘抜地蔵)
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昔、神社近くに住んでいた鍛冶屋の主人が病気や災難が多く苦しんでいたが、武信稲荷大神に祈りながら鉄を打っていたところ、しぜんに釘抜きの形になったので、ここにお祀りした。以後鍛冶屋の一家は幸運に恵まれがといわれている。自分の体の病苦のあるところをさすり、釘抜さんを撫でると、病気を治していただける。
  
○白蛇弁財天
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古くからこの土地におられた白蛇のお姿の弁天さんが先年信仰の厚かった行者に「人々を守護するために世にでる」とお告げがあり、有志の人々の奉仕によってお祀りされた。企業商売の繁栄、技術技芸の上達に大きなお力を授けられる。
 
  
2 祈願絵馬
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 ここはちょっと分かりにくいところにありますが、わざわざ行ってみるだけの価値は十分あるところです。

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