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神泉苑と境内
神泉苑は二条城の南側、押小路通と御池通の間に広がる法成就池を中心とした真言宗の寺院です。雰囲気はまるで公園のようで、近所の子供たちがアヒルにえさをやっていたり、お年寄りが散歩に来ていたりと、観光客よりも地元の人のほうが多いところです。
御池通に面した鳥居のある南側から入ると、正面にかつての大池の一部であると伝える法成就池が広がり、正面の池中の島に善女龍王社と恵方社があります。また、左手には神泉苑本堂があります。北側は押小路通に面して北門があります。
ここは、もとは延暦13年(794)の平安京遷都とほぼ同じ頃に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑(天皇のための庭園)で、歴代天皇の御遊地となり舟遊び・狩猟・詩歌管弦の宴などが繰り広げられました。
平安時代には現在の祇園祭の発祥となる御霊会が行われ、その後、慶長7年(1602)、二条城の内堀の造営によって苑域は縮小しましたが、東寺真言宗の寺院として再興されました。
現在、境内は国の史跡に指定されています。
年中行事としては毎年5月1日〜4日に行われる神泉苑大念仏狂言が有名です。
かつてこのあたりには、大きな池が広がっていたことから、御池通の名前の由来につながったともいわれ、また源義経と静御前が最初に出会ったところという伝承もあります。
ここはまた、桜の花の咲く頃は一段と素晴らしいところです。
※場所↓
<案内図>
1 境内
●御池通に面した鳥居
●法成就池
御池通に面した鳥居のある南側から入ると、正面にかつての大池の一部であると伝える法成就池が広がり、正面の池中の島に善女龍王社と恵方社があります。
●善女龍王社
法成就池の中央に天長元年(824)、空海が勧請して祈雨の修法を行った善女龍王を祀る。
・「願いの叶うお守り」
・「開運みくじ」と「恋みくじ」
・兎の石像
●法成橋を渡る
この橋は、心に願いを念じながら渡り、その想いを橋の向こうにある善女竜王様にお願いすると叶うといわれています。
また、その昔、源義経が、ここで雨乞いの舞を奉納していた静御前を見初めたというエピソードも伝わっているといい、なかなかロマンチックなところでもあります。
約14mある法成橋を、願いを一つだけ念じながら一歩ずつゆっくりと渡るのだそうです。
●法成就池と龍頭船
●恵方社(歳徳神)
●本堂
聖観世音菩薩(本尊)、木造不動明王坐像(重文)を祀る。
本堂は東寺(教王護国寺)より移築したもの。
●満開の梅の花
●北門
2 沿革
<説明板>
・その流域は、南北4町東西2町という広大なもので、苑内には大池と中嶋のほか、乾臨閣や釣殿、滝殿などもあり、歴代の天皇や貴族が舟遊、観花、弓射、相撲などの行事や遊宴を行ったといわれている。
・天長元年(824)春のひでりに、この池畔で東寺の僧空海が善女龍王を祀って祈雨の法を修して霊験があったと伝えられ、以後当苑では名僧が競って祈雨の修法を行うようになった。
・また、貞観5年(863)には、初めて当苑で御霊会が施行されるなど、宗教霊場として利用されるようになった。
・慶長年間に東寺真言宗の寺院として再興された。本堂の本尊は聖観世音菩薩。法成就池の中央に天長元年(824)、空海が勧請して祈雨の修法を行った善女龍王を祀る。
・毎年5月1日から4日間の神泉苑祭りには、壬生狂言の流れをくむ神泉苑狂言(京都市登録無形民俗文化財)執り行われる。
※ゴイサギ(五位鷺)の名の由来
「源平盛衰記」には、醍醐天皇の時代、宣旨に鷺さえも羽をたたんでかしこまった話がのせられており、謡曲「鷺」はこれをもとにつくられている。俗に「五位鷺」というのは、このとき天皇から五位の位を賜ったことからこのように呼ばれるようになったといわれている。
3 神泉苑大念仏狂言:5月1日〜4日。
神泉苑祭。無言劇。面をつけ無言で、金鼓、太鼓、笛の囃子に会わせて演じられる。神泉苑狂言のことを「カンデンデン」と俗称するのはこのため。
◎京都三大念仏狂言
①「千本ゑんま堂大念仏狂言」 引接寺 5月1日〜4日 この狂言だけ有声なのが特徴。 ②「壬生大念仏狂言」 壬生寺 節分、4月21〜29日、10月
狂言面をつけて演じる無言劇 ③「嵯峨大念仏狂言」 清涼寺 3月、4月第2土日・第3日曜、10月
狂言面をつけて演じる無言劇 |
京の社寺めぐり
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京都検定のため、必要最小限の重要事項の整理を加えました。
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養源院とその境内
養源院は、蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する浄土真宗遣迎院派の寺院です。
文禄3年(1594)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の供養のために秀吉に願って成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建し、その後、火災による焼失を経て、元和7年(1621)、淀殿の妹である徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興され、以後は徳川氏の菩提所となりました。
本堂は、元和5年(1619)に破却された秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされ、左右と正面の廊下の天井は血天井として知られています。
また、俵屋宗達筆の襖絵や獅子麒麟、白象の杉戸絵があり、重文に指定されています。
本堂内はすべて写真撮影禁止となっています。
こちらの境内は、とりわけ春の枝垂れ桜の頃が素晴らしく、そのほか、参道のカエデの新緑や紅葉の頃、初夏のヤマモモ、夏の百日紅、秋の彼岸花など、四季折々の花が訪れる人を癒してくれます。
ちょうど訪れたときには鐘楼脇のツバキやシキミの花が咲いていました。
※場所↓
1 境内
●山門
●本堂への参道
●勅使門への参道
●本堂
・血天井とは、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し,最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る。同じ血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもあるが、生々しさでは養源院が一番といわれる。
・鶯張廊下は、日光東照宮の眠り猫で有名な江戸初期の大工・彫刻師である左甚五郎が造ったものと伝わる。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より抜粋)
本堂から外に出ると、本堂に向かって右側に奥へ向かう道があり、突き当たりにはお堂が見えます。
●本堂に向かって右側奥に見えるお堂
残念ながらここは通行禁止になっていますが、養源院には小堀遠州の作庭による東山連峰の阿弥陀ケ峯を遠景とした庭園があり、ここも拝観できませんが、おそらく、突き当たりに見えるお堂の後方、東大路通に沿って庭園があるものと思われます。ハイアットリージェンシーの上の方から見えるかもしれません。
また、ここには「お江」の方の母「お市」と「お江」の供養塔があり、特別公開が行われたこともありますが、通常は見ることができません。
(特別公開時でなくても、東大路通に面した養源院の敷地に隣にある駐車場から、塀越しに上の方は見ることが出来ますが。)
もう一つ忘れられないのは、本堂手前の鐘楼から、隣の敷地にある後白河天皇陵が見えることです。
●鐘楼
養源院の南隣は後白河天皇法住寺陵ですが、休日は御綾の参拝はできません。そんなときには、養源院の鐘楼から塀越しに隣を見てみましょう。
<養源院にある木々と咲いている花>
・ヤマモモ
・ツバキ
・シキミ
●境内社
山門から参道を入って右側に白衣弁才天があり、参道途中の左側に毘沙門天を祀ったお堂がある。
・白衣弁財天
・毘沙門天
・延命地蔵
●境内の石仏
2 重文
・金地着色松図(襖8面、戸襖4面)12面、
・着色杉戸絵(表獅子・裏波に麒麟図、表獅子・裏白象図)4枚(8面)、俵屋宗達筆
3 庭園
小堀遠州の作庭で東山連峯の阿弥陀ケ峯を遠景とし、水が北の池より南の池へ注ぐ風景を造作したもので、築山部分の涸滝石組のすばらしさ、南の池には海辺の奇石を多く用いた珍しい庭園で都林泉名勝図会に見られる。園内の一文字、十文字の手洗鉢は有名である。(お寺のパンフレットより)
4 沿革
<説明板>
・建立後、まもなく火災遭ったため、元和7年(1621)に、淀殿の妹で徳川秀忠夫人の崇源院が伏見城の遺構を移して本堂を再建し、以来、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。
・本堂の廊下の上の天井は、関ヶ原の合戦の前、家康の命を受けて伏見城を死守した鳥居元忠以下の武士が自刃した時の廊下の板を天井に上げ、その霊を弔ったもので、俗に「血天井」として知られている。
・本堂の杉戸および襖の絵(ともに重文)は、俵屋宗達の筆によるもので、杉戸には唐獅子、白像、麒麟等の珍しい行動が描かれており、奇抜で新鮮味にあふれ、中学、高校の美術の教科書にも用いられている。
5 京都検定の出題歴
【問】平成16年度2級 文禄3年(1594)、淀君が父の浅井長政の菩提を弔うために建立し火災による焼失後、淀君の妹の崇源院が再建した寺院はどこか。 (ア)智積院 (イ)養源院 (ウ)妙法院 (エ)即成院 【正解】(イ)
6 練習問題
(1)沿革 ①文禄3年(1594)に、豊臣秀吉の側室淀君が父の( 1 )の菩提を弔うために、成伯法印を開山として建立。 ②焼亡後、元和7年(1621)、淀君の妹の崇源院が、夫である( 2 )に願い、( 3 )の中御殿の遺構を移して再建。以後、将軍家の位牌所、皇室の祈願所に。 (2)本尊「阿弥陀如来」
(3)「( 4 )」
伏見城落城時に自刃した家康の家臣( 5 )らの血で染められた廊下の板を、供養のために天井板に用いたもの。 (4)( 6 )の杉戸絵:重文。
「獅子図」「麒麟図」「白像図」8面。 鳥居元忠らの慰霊のために描いたもの。 (5)襖絵:重文
「松図」12面 (6)庭園
( 7 )によるもの。 【正解】
1 浅井長政 2 徳川秀忠 3 伏見城 4 血天井 5 鳥居元忠 6 俵屋宗達 7 小堀遠州 |
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建仁寺と境内の梅の花
建仁寺は、祇園の花見小路通を四条通から南に下がっていくと、つきあたりに北門があり、境内に入ると北から南に、方丈・法堂・三門・勅使門が並び、その両側に塔頭が立ち並んでいます。
<境内案内図>
建仁寺は建仁2年(1202)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。
室町時代の最盛期には塔頭は60余りありましたが、応仁・文明の兵火などによって荒廃し、現存の大部分は江戸時代以降に復興されたもので、現在の塔頭は14か寺とされています。
境内は桜が綺麗ですが、梅も山門の近くにあります。
1 場所↓
2 境内
●勅使門(重文)
・境内から見た勅使門
・切妻造、銅板葺の鎌倉時代後期の唐様建築。
・柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれている。
・もともと、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものともいわれている。
●三門
「望闕楼」の扁額がかかる二重門。大正12年、静岡県浜名郡の安寧寺から移建したもの。階上には観音菩薩像と十六羅漢像を安置。
●浴室
寛永5年(1628)の建立。湯気で体を温める蒸し風呂となっている。
<浴室周辺の梅の花>
(5)法堂
法堂は境内中心部にあり、その南に、三門と方丈池があり、方丈池の向かいに浴室がある。
法堂天井に小泉淳作氏による「双龍図」が描かれている。
・小泉淳作氏による「双龍図」
●本坊
●方丈(重文) (現在、修復工事中)
・慶長4年(1599)に、恵瓊(えけい)が安芸の安国寺から移建した。
・本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。
●惣門
今年は桜の開花も遅れるようですが、この建仁寺の桜が咲く頃にまた訪れてみたいものです。
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五條天神宮
五條天神宮は鴨川にかかる松原橋から松原通を西へ約1.5km進み、西洞院通との交差点近くにあります。
松原通は烏丸通を過ぎたあたりから商店街になっています。
五條天神宮は、平安遷都の際、空海が大和より天神を勧請し、桓武天皇により「天使の宮」(天使社)と称して建立したのが始まりとされ、御鳥羽天皇の時代に「五条天神宮」と改めたという洛中では古い歴史のある神社です。
創建当時には広大な鎮守の森を有していたと伝えていますが、創建以来数多くの戦乱などによって消失と再建を繰り返し、現在の社殿は元治元年(1864)の蛤御門の変による焼失後に再建したものです。周りをマンションに囲まれた市街地の神社です。
また、牛若丸(義経)と弁慶が始めてであったのがここであると言う伝承もあるところです。
ここはまた、節分に日本最古とされる「宝船図」が参拝者に配られることで知られています。これは船に稲穂を一束乗せただけの簡素なもので、厄除け、病除けのご利益があるといわれています。
2 境内
●西洞院通に面した鳥居と門
●本殿
・扁額
●北側(松原通)からの入口
・扁額
3 沿革
<説明板> ・祭神として大己貴命、少彦名命、天照大神を祀る。
・社伝によれば、延暦13年(794)、桓武天皇の平安遷都にあたり、大和国宇陀郡から天神を勧請したのが始まりとされる。
・当初は「天使の宮」(天使社)と称したが、御鳥羽天皇の時代に「五條天神宮」と改めた。
・創建時は社域も広く、社殿も広荘で広大な鎮守の森を有していたが、中世以来、保元の乱、応仁の乱、蛤御門の変、鳥羽伏見の戦いなどの兵火で焼失し、本殿も焼失再建が繰り返されてきた。
・現在の社殿は元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失し、その後再建したもの。
・例祭は毎年5月10日に行われる。
4 義経と弁慶の出会いの場所
ここが義経と弁慶の出会いの場所であることは「義経記」の文に記され、それに取材した能楽「橋弁慶」によって知われるようになったという。
5 天使突抜通
広大な鎮守の森があった頃、森の中を南北に五丁もある天神様(五條天神宮)の細道がつづいていたという。 現在、町名「天使突抜一丁目から四丁目」があり、その名の由来となっている。
6 練習問題
(1)祭神「少彦名命」ほか。通称「( 1 )」。 (2)沿革
平安遷都にあたって、( 2 )が大和国から天神を勧請したのに始まる。 (3)( 3 )の祖神
祭神の少彦名命が薬の神であることによる。 (4)厄除けの神
(5)日本最古の「( 4 )」
2月の( 5 )祭のとき、参拝者に配布。 【正解】
1 天使社 2 空海 3 医家 4 宝船 5 節分 |
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東山にある今熊野観音寺と境内
東大路通から泉涌寺へ向かう参道を上っていくと、泉涌寺大門前の駐車場の手前に左へ折れる道があり、この先に今熊野観音寺があります。
※場所↓
ここは西国三十三所観音霊場の第15番札所として、さらに中風や頭痛平癒、近年は、ぼけ封じのご利益で信仰を集め、年間を通じて多くの参拝客が訪れるところです。
例年であれば今頃は本堂の前のしだれ梅が咲いている時期なので、3月18日にお参りに訪れてみましたが、しだれ梅はまだつぼみで、講堂前の白梅だけが咲いていました。
せっかく来たので、境内を歩いてきました。
今熊野観音寺は泉涌寺の塔頭で、境内入口にある大きな説明板には、お寺の縁起について、次ぎのように書かれています。
●説明板
・平安時代弘法大師が熊野権現より観音尊像を授かり、嵯峨天皇の勅願により開運厄除けの寺として開創された名刹です。
・後白河法王は本尊十一面観音を深く信仰され、霊験によって持病の頭痛が平癒したので、特に「新那智山今熊野」の称をこの寺におくられました。
・それより頭の観音さんとして知られ、病気封じ智恵授かり所願成就の寺として広く信仰されています。
1 境内
<境内案内図>
泉涌寺参道から左に折れ、今熊野川に架かる鳥居橋を渡り、観音寺の境内に入る。
●泉涌寺道からの入口
●鳥居橋
●講堂と白梅
●子護大師
境内に入って真っ直ぐ進み、石段を上ると、子護大師の前に出る。子護大師は文字通り子供達を護り育む「子護弘法大師」として信仰されている。
「南無大師遍照金剛」を唱えながら、大師像の周りをまわる。
●本堂
本尊は、弘法大師作と伝えられる十一面観世音菩薩。
後白河法皇の病気治癒の伝説から、本尊は中風や頭痛平癒の観音といわれている。知恵授けでも名高い。
脇仏は、智証大師円珍作と伝えられる不動明王と、運慶作と伝えられる毘沙門天。
ぼけ封じ、頭痛封じ、智恵授けの枕カバーを授与している
本堂を正面に見ると、右手に大師堂があり、右側の山上に多宝塔が見える。
・本堂と五智水(左)
・本堂と大師堂(右)と多宝塔(奥)
・本堂前のしだれ梅
・本堂の屋根の留蓋瓦に置かれている仙人らしい像
乗っているのは亀かウミガメか玄武か
※留蓋瓦とは
留蓋瓦は、隅蓋瓦や巴蓋瓦とも称し、もともとは隅部の接点から雨水が浸入するのを防ぐために据えられた、半球形(椀を伏せた形状)のものであったが、その後、意匠面での発展が見られ、獅子や玄武などの動物型、牡丹や菊などの植物型など、さまざまな形のものが現れた。
●多宝塔(医聖堂)
●五智の井(五智水)
弘法大師が当山を開かれるときに錫杖をもって岩根をうがたれて湧き出した水が五智水と伝えられている。五智の井は、五智水が井戸水として湧き出している井戸。
●織部灯籠
織部型石灯籠について、フリー百科事典「ウィキペディア」には、次のような記載がある。
「つくばいの鉢明りとして使用する、四角形の火袋を持つ活込み型の灯篭。その為、高さの調節が可能である。露地で使用される。奇抜な形から江戸時代の茶人・古田織部好みの灯篭ということで「織部」の名が着せられるが、古田織部が考案したという証拠は無い。石竿に十字模様や聖人のようにも見える石像が刻まれており、これをもってキリシタン灯篭と呼ばれることもある。ただし、織部灯篭をキリシタン遺物と結びつける説が現れたのは昭和初期からであり、否定的な学者も多い。」
●大師堂とぼけ封じ観音
●ぼけ封じ近畿十楽観音霊場
●鎮守社「稲荷社」「熊野権現社」
・熊野権現社と石塔
●石仏
●鐘楼
2 年中行事
●お砂踏法要 9月21日〜23日
今熊野観音寺は西国三十三所観音霊場の第十五番札所であり、ここに、四国霊場八十八ヵ所の全ての砂が敷き並べられ、遍路の行程を一日で巡ることができるとされる。
3 祈願絵馬
4 沿革
<説明板>
・泉涌寺の塔頭で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。西国三十三ヶ所観音霊場第十五番目の札所になっている。
・空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡年間(854〜857)左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したとも伝える。文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。
・伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後復興されて現在に至っている。
本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置。
・寺域は幽静で、郭公鳥の名所として昔から知られている。
・本堂背後の墓地には慈円僧正、藤原忠通、藤原長家の墓と称せられる見事な石造宝塔三基がある。
5 京都検定の出題歴
(1)平成16年度2級 【問】西国三十三箇所巡礼は、平安後期に僧侶の間で始まり、室町後期には一般にも普及した。次のうち札所寺院でないものはどれか。 (ア)長楽寺 (イ)今熊野観音寺 (ウ)清水寺 (エ)善峯寺 |





