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山科の毘沙門堂
山科の毘沙門堂は毘沙門天を本尊とし、正式名は護法山安国院出雲寺と称する天台宗の門跡寺院で、天台宗京都五門跡の一つとされています。
ここは去年の秋にJR東海の「そうだ京都行こう」のキャンペーンで取りあげられ、大変な混雑になりました。
・去年の秋のキャンペーンポスター
紅葉の頃は確かに素晴らしいのですが、ここは山科駅方面から北へ向かって狭い一本道なので、観光客が多くなると車で近づくことができないことから、紅葉は諦めて2月に行きました。冬の境内は、訪れる人も少なく、ひっそりと静まりかえっていました。
毘沙門堂はJR山科駅の北の山麓にあり、山科北通(旧東海道)を約1km、疎水を越えて住宅地の間を歩いた突き当たりにあります。
<境内案内図>
1 境内
●極楽橋
毘沙門堂に向かって一本道の参道を歩いていくと、石橋があります。
ここに置かれた石碑に橋の由来が書いてありました。
「人皇百十一代、後西天皇がこの地に行幸せられ、橋より上はさながら極楽浄土のような清浄華麗な霊域であると感嘆せられ極楽への橋「極楽橋」との勅号を賜ったもので、明治以前まではいかなる高位の人といえども、この処で下乗され参拝されたのである。」
●仁王門への石段
急な石段の上にある本堂への表門。寛文5年(1665)ここに再興した当時に建立したもの。
●仁王像
石段を上って仁王門をくぐると、木立に彩られて本殿、宸殿、霊殿などが並びます。
●本殿
・扁額「出雲寺」
仁王門をくぐると正面には本堂があり、ここには本尊の毘沙門天と徳川家康公の木像が祀られています。
●弁財天
本堂に向かって右側奥に弁財天があり、その前にある池のあたりから、本殿と霊殿が見えます。
●霊殿
●宸殿
宸殿は、公弁法親王が入寺するにあたって父・後西天皇の旧殿を拝領し、元禄6年(1693)に移築したもので、狩野益信筆の襖絵があります。
※狩野益信筆の襖絵
・「天井の龍」:見る角度により、目や顔の向きが変わる。 ・「九老之図」:逆遠近法で描かれている。 ●宸殿の前に植えられている樹齢150年のしだれ桜
・南天と宸殿
●勅使門としだれ桜
宸殿から西へ、玄関、庫裏が続きます。
●玄関
●庫裏
堂内拝観の場合は、本堂から入り、宸殿から霊殿、玄関とその北側に広がる晩翠園と名づけられた庭園を見ることができます。
・南天
・ロウバイの花
●勅使門への参道
紅葉が素晴らしいところです。 去年の秋のキャンペーンのポスターは、ここで撮影されたものです。
2 沿革
<説明板> ・大宝3年(703)に相国寺の北に創建された出雲寺が起こりと伝える。
・延暦年間に、最澄(伝教大師)が自ら作った毘沙門天を安置したことから、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。
・平安末期以降は戦乱で荒廃したが、江戸時代の寛文5年(1665)に、天台宗の僧・天海とその弟子の公海によって、現在地に再建された。
・その後、後西天皇の皇子・公弁法親王が入寺し、以来、皇族や摂関家の子弟が門主をつとめる「門跡寺院」となった。
3 京都検定の出題歴
●平成18年度2級 (問)鎌倉初期に平親範が平家ゆかりの三寺を一堂とし、それ以来桜の名所として知られ、江戸時代に山科で復興された門跡寺院はどこか。 (ア)勧修寺 (イ)毘沙門堂 (ウ)安祥寺 (エ)岩屋寺 【正解】(イ)
4 練習問題
(1)山号は護法山。正式名は( 1 )。本尊は伝教大師作の毘沙門天。
(2)沿革
①寺の起こりは奈良時代に遡る。文武天皇の勅願で( 2 )が出雲路のあたりに開創。以後、兵火により荒廃。鎌倉初期に平親範が平等寺と尊重寺、護法寺を合併して復興。 ②寛文5年(1665)、( 3 )により現在地に再興。その際に、出雲寺から伝えられていた( 4 )を本尊としたことから、毘沙門堂と呼ばれるようになった。また、( 5 )天皇の皇子公弁法親王が入寺して以来、門跡寺院となった。
(3)( 6 )門跡の一つ。
(4)建造物
急な石段を上って仁王門をくぐると、木立に彩られて本殿、宸殿、霊殿などが並ぶ。
本堂、唐門、仁王門は寛文6年(1666)の築造。華麗な建築装飾は( 7 )の手法に共通する。 (5)宸殿:
( 8 )の旧殿を賜ったもの。内部の障壁画・襖絵は狩野探幽の養子・( 9 )の山水画。
(6)庭園
( 10 )と名づけられている。心字の池がある。 (7)桜と紅葉
樹齢150年のしだれ桜。桜のほか紅葉も有名。
【正解】
1 出雲寺 2 行基 3 天海僧正 4 毘沙門天像 5 後西 6 天台宗五箇室 7 日光東照宮 8 後西天皇 9 益信 10 晩翠園 |
京の社寺めぐり
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京都検定のため、必要最小限の重要事項の整理を加えました。
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通称「額縁門」と呼ばれる山門がある寺町通りの天寧寺
鞍馬口通から寺町通に入り、南に向かってすぐ左手に曹洞宗の寺院、天寧寺があります。
寺町通に面した山門を見ると、天気の良い日には山門を通して比叡山が、あたかも額縁に入れたように見えることから、は通称「額縁門」と呼ばれて親しまれてきました。
山門から境内に入ると、左手に観音堂が、さらにその奥には表門と本堂があり、境内は四季折々の花が咲き、参拝者の目を楽しませてくれます。
ここはまた江戸初期の茶人金森宗和の墓や、薩摩藩の剣法として広く知られる剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚らの墓があります。
※場所↓
1 境内
●「額縁門」(山門)と比叡山
・山門から見た境内
●観音堂
山門を入ると、左手に観音堂がある。
後水尾天皇の念持仏と伝える聖観音像と東福門院の念持仏とされる薬師如来像を安置。
観音堂の奥には表門と本堂があり、本堂脇にはカヤの大木が見える。
●表門と本堂
●カヤの大木
頂部に落雷の跡、幹の本堂側に、天明8年(1788)の本堂火災時に受けたと思われる傷痕がみられるという。
市内有数のカヤの大木として、昭和62年に京都市登録天然記念物とされた。
●庫裏
●鐘楼
・鐘楼と留蓋瓦
※留蓋瓦
留蓋瓦は屋根の末端の部分を覆う瓦で、隅蓋瓦や巴蓋瓦とも称し、もともとは雨水が浸入するのを防ぐために据えられた、半球形(椀を伏せた形状)の瓦でしたが、その後、意匠面での発展が見られ、獅子や玄武などの動物型、牡丹や菊などの植物型や波頭など、さまざまな種類が見られます。
●稲荷社
2 沿革
<説明板>
・山号は萬松山と号し、曹洞宗に属する。
・当寺は、もと会津(福島県)城下にあったが、天正年間(1573〜1592)に、天台宗松陰坊の遺跡といわれるこの地に移転されたと伝えられている。
・その後、天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812)に、書院は天保14年(1842)に再建された。
・本堂には、仏師春日作と伝える本尊釈迦如来像を、観音堂には後水尾天皇の念持仏聖観音像及び東福門院の念持仏薬師如来像を安置している。
・境内墓地には、江戸時代の茶人として有名な金森宗和、剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚らの墓がある。
・また、山門を通して眺める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は「額縁門」と呼ばれて親しまれている。
※補足
①天正年間に楠木正成の八男、傑堂能勝和尚が会津城下に創建。
②その後焼失するが、文禄元年(1592)、祥山和尚がこの地に移し、直江兼続や京都所司代板倉勝重の援助で堂宇を整備。
3 京都検定の出題歴
●平成19年度2級
【問】比叡山の眺望を一幅の絵のように見ることができる「額縁門」を持つ寺院はどこか。
(ア)上善寺 (イ)天寧寺 (ウ)西園寺 (エ)正伝寺
【正解】(イ)
4 練習問題
(1)山号:萬松山。本尊:釈迦如来。
(2)沿革
南北朝時代に楠正成の末男傑堂能勝が会津に創建。文禄年間(1592〜96)、京都に移築。京都所司代の( 1 )の援助を受ける。天明の大火後、再建。
(3)観音堂
( 2 )の念持仏とされる薬師如来像を安置。
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城南宮の梅の花がほころびはじめました
伏見区の城南宮の参道わきの梅の花がようやく咲き始めています。
今年の京都の冬は、例年になく寒さが厳しく、梅の開花が遅れています。
●城南宮
●参道で咲き始めた梅の花
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智積院で紅梅が咲き始めています
東山七条にある智積院で、早咲きの紅梅が咲き始めています。特に講堂入口近くに植えられた一本の紅梅は毎年早咲きで知られていますが、今はちょうど満開です。
今年の京都の冬は例年より寒く、ようやく梅の花が咲き始めました。
※場所↓
●境内案内図
●総門
・東大路通より
・境内より
●大玄関と本坊
●本坊近くから見た妙法院庫裏
●本坊近くに置かれた大日如来
●金堂
●大師堂
●鐘楼
●講堂入口の紅梅
●明王殿と近くで咲いている紅梅
この建物はもと京都四条にあった大雲院の本堂で、智積院旧本堂が焼失した後、譲渡されたもの。
●智積院の沿革
<説明板>
・智積院は、もとは、紀州根来山の大伝法院の塔頭で学問所であった。近世に入って根来山の大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)秀吉の根来攻めで全山炎上した。
・慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの翌年、家康は東山にある豊国神社(秀吉が「豊国大明神」として祀られている神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。
・さらに、元和元年(1615)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を「五百佛山」とした。
・祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。
・現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
※収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)
収蔵庫では、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、かつて祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画をみることができる。
●国宝に指定されている長谷川等伯・久蔵父子による襖絵
・「楓図」: ・「桜図」: ・「松と葵の図」 ・「松に秋草図」 等 ・「桜図」は等伯の長男、久蔵の遺作とされている。
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