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京の社寺めぐり

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京都検定のため、必要最小限の重要事項の整理を加えました。
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上七軒から大報恩寺(通称「千本釈迦堂」)へ
 
 
 
1 上七軒
 
京都の五花街の一つ、上七軒は、北野天満宮の東門から南東に向かい、今出川通の上七軒交差点あたりまでの間を指し、通りの両側には「五つ団子」の紋章の提灯を下げた花街らしい格子戸の町家が続いています。
 
 
 
●街並み
(写真は一部9月に撮影したもの)
 
北野天満宮の東門
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・「上七軒」と書かれた標石
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・北野天満宮からの入口
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・「中里」
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 このあたりでは、時間によっては舞妓さん・芸妓さんの姿を見ることができます。
 
・老松
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  老舗の和菓子屋さん。
 
 
・歌舞練場近くの町家
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・ふた葉
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●説明板
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上七軒は、北野天満宮の東、今出川通の上七軒交差点のある七本松通西入から北野天満宮東門に至る両側にあり、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町と並び、京の5花街の中で室町期まで溯る、最古の長い歴史を持つ花街といわれています。
 
その始まりについては、15世紀中頃、北野天満宮の一部が焼失し、その修造の際に残った用材を使用して、七軒のお茶屋を建て、七軒茶屋と称したことが上七軒の起源だとされています。
 
その後、天正15年(1587)には、北野大茶の湯の休憩所になり、そこで御手洗団子の供応を受けた太閤秀吉はとても喜び、その褒美として七軒茶屋は御手洗団子を商う特権と法会茶屋株を公許したのがわが国におけるお茶屋の始まりと伝えられています。(上七軒歌舞会ホームページより転載)
 
上七軒の紋章「五つ団子」はこの御手洗団子に由来しています。
 
また、上七軒では毎年春には『北野をどり』、秋には『寿会』が上演されます。
 
 
 
●上七軒の主な行事について
(1)始業式
新年を迎えて芸・舞妓が一堂に会して精進を誓う行事。芸・舞妓達が黒紋付の正装で参列し旧年の御礼、新年の挨拶を交わし、その後、全員で素囃子と舞初めを行なう。上七軒では、毎年1月9日に歌舞練場で行われる。なお、他の花街(祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町)では、始業式は1月7日に行われる。
 
 
(2)梅花祭(225日)
北野天満宮の祭神菅原道真公が延喜3年(903年)225日薨去された祥月命日に行われる祭典。
 
 
(3)北野をどり(325日−47日)
・今年のポスター
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平成22年第58回から、北野天満宮の御縁日「25日」にちなんで、325日の開幕となった。
 
 
(4)都の賑わい
 京都の芸舞妓による年1度の歌舞講演会。平成6年、「五花街合同伝統芸能特別公演」として開催し、第4回公演から名称変更。以来、毎年6月第三土曜・日曜日の2日間、開催する。
 
 
(5)八朔
旧暦81日のこと。古来「田の実の節」といい、「頼み」に通じることから、この日、日頃お世話になっている本家、得意先には感謝と更なる贔屓を願って、芸舞妓が正装の黒紋付で、研鑚を積む芸事の師匠や御茶屋などに挨拶回りをする。
 
 
(6)寿会
上七軒の芸・舞妓による舞踊の発表会。4月の「北野をどり」と違って寿会では古典もの、踊りが中心。
 
 
2 大報恩寺(通称「千本釈迦堂」)
 
上七軒の通りを東に少し歩くと、通称「千本釈迦堂」と呼ばれる大報恩寺があります。
 
大報恩寺は真言宗智山派の寺院で、本堂は応仁の乱にも奇跡的に火災を免れて創建当時の姿をとどめ、本堂内陣の柱には刀・槍の傷跡が残っています。
 
大報恩寺本堂は、洛中最古の建造物として国宝に指定されています。
 
霊宝殿には快慶の作と伝える木造十大弟子立像などがあり、境内には阿亀(おかめ)の内助の功の伝説にちなんでつくられた「おかめ塚」や「おかめ桜」と名づけられた大きな枝垂れ桜をはじめ、北野経王堂願成就寺などがあり、時間をかけて見学したいものです。 
 
なお、大報恩寺の年中行事では、7月912日に行われる陶器市や127日、8日に行われる大根焚きが広く知られています。
 
 
 
 
<境内>
 
山門と参道
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本堂(国宝)
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 安貞元年(1227)創建時のままで、応仁文明の乱にも火災を免れた洛中最古の建造物であり、国宝に指定されている。
 
・本堂内陣
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本堂内陣の柱に残る刀・槍の傷跡
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おかめ塚
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 本堂建立にあたった大工棟梁の妻、阿亀(おかめ)内助の功の伝説にちなんでつくられたもの。2月の節分会はおかめ節分ともいわれ、おかめ塚で豆まきなどが行われる。
 
 
由来
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・本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。
 
・それを見た妻のおかめが、柱を短く揃えて枡組を用いたらどうかとひと言アドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。
 
・おかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと、上棟式を待たずに自害してしまった。
 
・高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。
 
・その後、大工の信仰を得るようになり、今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。
 
・度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている。
 
 
 
<大報恩寺(千本釈迦堂)の沿革>
 
・瑞応山と号する真言宗智山派の寺院。通称「千本釈迦堂」の名で知られている。
 
・承久3(1221)、藤原秀衡の孫、義空(ぎくう)上人が、猫間中納言藤原光隆の臣、岸高から寄進をうけたこの地に小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりと言われている。
 
・当初、倶舎・天台・真言の三宗の霊場として)堂塔伽藍も整い壮麗を極めたが、応仁の乱はじめ度々の災火のため堂宇を焼失してしまった。
 
・その中で現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、市街地に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。
 
・堂内には、行快作の本尊釈迦如来座像を安置、また霊宝殿内には快慶作の十大弟子像を始め、六観音菩薩像、千手観音立像、銅像釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵している。
 
・また、毎年、2月にはおかめ福節分会、7月には陶器供養、8月には六道まいり、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ多くの人々で賑わう。
 
  
 
<仏像等>
(1)本尊:木造釈迦如来坐像(重文)
 鎌倉時代の仏師快慶の弟子である行快の作。(秘仏)
 
(2)木造十大弟子立像 10
 建保6年(1218年)快慶の作と判明。
 
(3)六観音菩薩像
 定慶作。
 
※その他、霊宝殿にはかつて北野天満宮の門前にあった「北野経王堂」の遺物など多くの文化財を常時展示している。
 
   
<年中行事>
・陶器市
 7月912日に行なわれる。
 
・大根焚き
 127日・8日に行なわれる成道会法要。
 
鎌倉時代に、当寺の僧・慈禅が、法要の際に大根の切り口に梵字を書いて息災祈願を行なったのが起源とされ、今日では、この大根を食べると中風など諸病除けになるとされ、参拝者に、厄除け大根が振る舞われる(有料)。
 
 
宇治の恵心院と水仙とロウバイの花
 
 
 恵心院は、宇治川のほとりにある、年間を通じてさまざまな花が見られる、植物園のようなお寺です。今年初めて訪ねてみました。
 
 京阪宇治駅から恵心院に向かうには、まず、「さわらびの道」と名付けられた通園茶屋の脇を橋寺の山門前を通り宇治川に沿って続く道を進みます。
途中、左へ向かう「さわらびの道」との分岐がありますが、ここをさらに宇治川に沿って進むと、宇治神社の鳥居を過ぎたところに、恵心院へ向かう緩い坂道の参道があります。
 
●参道と水仙の花
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 参道の両脇に、水仙が咲いています。
 
 参道を上っていき、突き当たりを右に折れると正面に恵心院の表門が見えます。このあたりでも水仙が咲いています。
 
●表門と水仙の花
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  表門脇に「恵心僧都説法の遺場」と書かれた標石があります。
 
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 恵心院は弘仁13(822)、弘法大師が開基した龍泉寺を源とするという古い歴史を持ち、真言宗智山派に属する古刹で、戦火による荒廃の後、寛弘2(1005)、比叡山の恵心僧都(源信)によって再興されたと伝えられています。恵心院という名はそれにちなんでいます。
 
 江戸時代には淀藩主永井氏の庇護を受けて伽藍が整備され、徳川家康らの庇護を受け繁栄したと伝えられています。
 
 現在は表門と本堂だけが残っており、本尊の木造十一面観音立像は平安時代の作で、宇治市指定文化財になっています。
 
 境内には四季折々にさまざまな花が咲き、ここを訪れる人たちの目を楽しませてくれます。
 
 京都でも、この冬は近年になく寒く感じられますが、立春が過ぎて、ここ、恵心院の庭ではロウバイの花が見頃になっていました。
 
 
1 場所
 
 
2 境内
表門を入ったところにある注意書きと見頃の花の案内
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 ここは、年間を通じて花の写真を撮りに来る人が多いので、まず本堂にお参りするように、と注意しています。
 
 
本堂
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・扁額
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本尊の木造十一面観音立像
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ほぼ直立に近い姿で、太い顎、脇を締めた体型など屋や重厚な感じを残している点や、衣文の数が少なく簡素な表現を示しているあたりに、10世紀頃の典型的な作風を見ることができるといわれている。
 
 
 
3 庭園で見られた花
 
●ミツマタ
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ロウバイ
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4 沿革等
<説明板>
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・弘仁13(822)、弘法大師が開基した真言宗智山派に属する宇治の古刹。
 
・はじめ、寺名は唐の青龍寺に似ていることから、龍泉寺と呼ばれた。
 
・その後の戦火で荒廃したが、寛弘2年(1005)、比叡山の恵心僧都(源信)によって再興された。恵心院という名はそれにちなんでいる。
 
・その後豊臣秀吉,徳川家康らの庇護を受け、伽藍の整備が行われた。
 
・現在は、永禄2(1559)造営の本堂及び表門だけが残っている。
 
京都・桃山にある乃木神社と勝負の神
 
 
 1月も終り、受験生にとっては正念場ということで、余裕のある人はともかく、この時点で、神頼みしかないという方のために、ちょっとマイナーかもしれませんが、JR奈良線 の桃山駅 近くにある乃木神社をおすすめします。
 
 乃木神社の祭神の乃木希典は、その歴史的評価は別にして、明治期の陸軍の軍人として広く知られていますが、大正元年(1912913日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなり、その後、ゆかりの地である山口県、栃木県、東京都をはじめ、京都の桃山など、各地に乃木神社が建立されました。
 
 京都の乃木神社は、JR奈良線 の桃山駅 から明治天皇陵(伏見桃山陵)方向に向かって10分ほどのところ、明治天皇陵の南の麓にあります。
 
 ここは明治天皇に殉死した乃木希典を祀る神社として、大正5年に薩摩藩出身の関西の財界人である村野山人によって創建されました。
 
・境内に立つ村野山人の銅像
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 境内には、乃木希典が少年時代を過ごした長府の旧邸が復元され、また、日露戦争のときに司令部として使用された民家が移築されるなど、乃木将軍ゆかりのものを見学することができます。
 
 ここはまた、「勝利」を強く意識した絵馬・名水などがあり、最近、受験合格祈願でも人気の神社の一つとなっています。
 
 正月明けの境内のようすです。
 
 
 
 
2 境内のようす
 樹齢3000年の台湾ヒノキを使って建てられたという神門から境内に入ると、中央に本殿まで続く参道があり、左手には宝物館、記念館、乃木旧邸(復元)が建ち並んでいる。
 
 社殿は参道の突き当りにあり、正面が乃木希典、静子夫妻を祀る拝殿・本殿があり、向かって右側に山城えびす神社がある。
 
●神門
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 乃木将軍は第3代の台湾総督であったことから、台湾ヒノキ(樹齢3000年)を使って神門が作られたと伝える。
 
●神門から見た境内
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●日露戦争日本海海戦(明治38年)で活躍した軍艦吾妻の主錨
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●乃木将軍景仰の碑と宝物館
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●記念館
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 日露戦争の旅順攻撃の第3軍司令部に使った中国の民家。神社創建時に、現地で家主から建物全体を買い上げ、そのまま移築したもの。
 
 
●手水
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 大正5年、創建時のもの。
 
 
●乃木希典胸像
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 学習院院長時代。
 
 
●さざれ石
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●お地蔵さん
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●長府乃木旧邸
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 乃木将軍が少年時代に国元である長州の長府で暮らしていた頃の住居を再現したもの。
 
●乃木神社拝殿
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 乃木希典、静子夫妻を祀る。
 
 
●山城えびす神社
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 乃木神社創建から7年後の大正12年に「静魂七福社」(しずたましちふくしゃ)として創建され、乃木静子夫人の御霊と七福神が合祀の形で祀られた。
 
 その後、乃木神社創建90年を期に、静子夫人の御霊は乃木神社本殿へ遷され、七福神のなかで唯一日本の神様であるといわれている「えびす様」を祀る「山城えびす神社」として創建した。
 
 
<勝負の神様として>
 
●乃木の名水「勝水」
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 伏見は昔から良質で豊富な地下水に恵まれ、各地に名水と呼ばれる井戸がありますが、ここでは拝殿前に「勝水」と呼ばれる井戸があります。
 
 
●祈願絵馬「勝ちま栗」
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「勝ちまくり」と名づけた祈願絵馬の絵は、なかなかかわいい。
 
○○に勝つ」という「○○」は自分で書く。
 
 
●「全てに勝ちま栗」と書かれた祠
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 勝ち運祈願に御利益ありそうですね。
 
 

新京極通と染殿院

新京極通と染殿院
  
 
新京極通は寺町通の一筋東、三条通から四条通までの約500mを結ぶ通りです。
 
もともと、この通りは明治5年(1872)、当時の京都府参事であった槇村正直が、東京遷都によって衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺町通に沿って建ち並んでいた寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのがはじまりでした。
 
新京極通といえば、昭和の時代の頃までは修学旅行の生徒たちで賑わい、土産物など観光客向けの店の多い通りでしたが、最近は、シネコンもでき、飲食店、ファッション洋品店など若者向けの店舗が目立つようになりました。
 
 今回は、新京極通の一番南、四条通に接するところにある染殿院と呼ばれる寺院を訪ねてみました。
 
 
場所(染殿院)
 
 
1 新京極通とは
 
 まず、新京極通について、道ばたに立てられている説明板を見てみます。
 
<説明板>
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・天正年間(15731592)、豊臣秀吉が市中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴い、その境内が、縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物を中心に発展するようになった。
 
・明治5年(1872)、このことに注目した京都府参事槇村正直は、東京遷都によって衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまり。
 
・明治10年(1877)頃には芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並んでいた。
 
・明治の中頃になると、見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、新京極通は、東京の浅草、大阪の千日前とともに日本の三大盛り場の一つと数えられ、現在でも京都有数の繁華街として知られている。
 
・現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買い物客でにぎわう、京都を代表する繁華街である。
 
・上方落語の始祖、安楽庵策伝が住職を努めた誓願寺、和泉式部の寺として知られる誠心院や西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満宮、染殿院という七つの寺院と一つの神社が通りの歴史を今に伝えている。
 
<現在の新京極通>
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2 染殿院
こうした新京極通の南端、染殿院は四条通から新京極通を北に入ってすぐ、左側に入口があります。
 
四条通からは、甘栗和菓子の老舗・林万昌堂四条本店の中を突き抜けて奥に進むと、染殿院の本堂の前に出ることができます。
 
 
林万昌堂四条本店からの入口
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新京極通からの入口
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●境内のようす
 
<説明板>
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・染殿院は、大同3年(808)に空海を開基として創建され、本尊の地蔵菩薩は、空海の作と伝わります。
 
・文徳天皇の皇后藤原明子(染殿皇后)はこの地蔵菩薩に祈願したところ清和天皇が誕生したことから染殿地蔵と呼ばれるようになりました。
 
・それにあやかり、安産守護のお地蔵さんとして信仰を集め、現代でも女性の参拝者が絶えません。
 
・なお、本尊は高さが2m余りもある木彫裸形の立像地蔵菩薩で、公開は50年に一度という秘仏です。
 
  
 
本堂
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石仏
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●織部灯籠
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●染殿地蔵尊の標石とつくばいと祈願絵馬
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●祈願絵馬
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 子宝祈願の絵馬が多い。
 
 
 
《練習問題》
・( 1 )宗の寺院。正式名「染殿院」。
・別称「十住心院」、「敬礼寺」、「四条京極釈迦堂」ともいう。
・本尊(秘仏):( 2 )立像
( 3 )作。江戸時代には名地蔵の一つに。等身よりも大きな裸の像。染殿皇后が帰依して、無事清和天皇を出産したとされる。安産祈願の信仰。
 
【正解】
1

2
地蔵菩薩
3
空海
 

五条坂と若宮八幡宮社

五条坂と若宮八幡宮社
 
 
五条大橋の東詰から清水寺の方向に、緩やかな上り坂を幅の広い五条通が東大路通の五条坂交差点まで続き、ここからさらに清水寺へ向かって坂道が続いています。
 
一般的に「五条坂」という場合、五条坂交差点から清水寺に上がっていく坂道を指すという人が多いようですが、五条大橋の東詰近くの大和大路通から清水坂に至るまでの全体を指して呼ぶというのが正しいようです。
 
 このあたりは、京都を代表する焼物である清水焼の発祥地であり、江戸時代には清水六兵衛・高橋道八を初めとする多くの窯元がありました。
 
五条通に面して若宮八幡宮社があり、その境内には「清水焼発祥の地」との石碑が建っています。
 
清水焼は、もとはここ五条坂周辺で製造されていたのですが、周辺が公害問題や手狭になったことなどから山科区に清水焼の工業団地が造成され、1965年以降に多くの製造業者が移転しました。
 
五条坂周辺では最近マンションが増えてきましたが、清水焼の陶工のお店も建ち並び、毎年8月に行われる陶器まつりは多くの買い物客で賑わいます。
 
 なお、一般的に「清水焼」と呼ばれていますが、西陣織、京友禅と並ぶ京都の代表的伝統産業として「経済産業大臣指定伝統的工芸品」および、「京都府知事指定伝統的工芸品」として指定された名称は、「京焼・清水焼」となっています。
 
 
1 五条坂
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・五条坂の裏に今も残る登り窯の煙突
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2 若宮八幡宮社
 
五条坂に面して、参道入口の鳥居があります。
 
若宮八幡宮社の創建は平安時代に遡り、かつては源氏一族や多くの武士からの信仰が厚く、室町時代には足利歴代将軍からの崇敬を集め隆盛を極めたといいます。
 
その後、応仁の乱により荒廃し、以後各地を転々とし、慶長10年(1605)現在地へ移転し、現在の社殿が造営されました。
 
ここは陶器の街の五条坂の中心にあたることから、昭和24年に、陶祖神椎根津彦命を合わせ祀られ、陶器神社とも呼ばれるようになりました。
 
毎年87日から10日まで、五条坂で行われる陶器まつりは、この若宮八幡の大祭にあわせて開催され、多くの買い物客でにぎわい、京都の夏の風物詩とも言われています。
 
 先日訪れた際に、特に許可をいただき、至徳3年(1386)に足利義満が寄進した御影石の八角形の手水鉢と社殿裏の庭園を見せていただきました。
 
 
 
 
 
●五条通に面した鳥居
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●参道
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●社殿
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<説明板>
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  承応3年(1654)の再建。
 
仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を主祭神とし、左相殿に仲恭天皇、右相殿に椎根津彦大神(陶祖神)が祀られている。
 
三間社流造銅板葺で、造りは、正面の庇部分を前室とし、更にその前に向拝を付けた前室付流造という京都では珍しい形式。
 
昭和5961日に京都市の文化財(建造物)に指定された。
 
 
●社殿裏の庭園
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 池の水は干上がっているが、最近まで池には水があり、近所の子供たちがザリガニを取りに来ていたという。
 
 
●御影石の八角形の手水鉢
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 境内には、至徳3年(1386)に足利義満が寄進した御影石の八角形の手水鉢がある。
 
神社に伝わる「足利将軍参詣絵巻」という絵巻の中には、この八角形の手水鉢も描かれている。
 
 
●蓬莱石
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 社殿の前に置かれている。
 
足利尊氏が病気にかかった際、病気平癒を祈願したところ完治したことから、奉納したという不思議な石。
 
 
●御神木(榊の木)
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 縁結びの神の御神託によって2本の木が一本に結ばれたものといい、縁結び、安産子育、家内安全のご利益があるといわれる。
 
 なお、この神社は陶器祭り期間中には陶婚式(結婚20年目の夫婦の御祝)が行われる。
 
 
●樹齢400年といわれるクスノキ
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●境内社
・陶祖神社
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●祈願絵馬
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3 沿革
<説明板(駒札)>
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・創建は天喜元年(1053年)後冷泉天皇の勅願によって、源頼義が六条醒ヶ井の邸宅に創建した鎮守社がはじまり。
 
・六条八幡宮、左女牛八幡とも呼ばれ、源氏一族や多くの武士からの信仰が厚く、室町時代には足利歴代将軍からの崇敬を集め隆盛を極めた。
 
・しかし、応仁の乱により荒廃し、以後各地を転々とし、慶長10年(1605)現在地へ移転した。
 
・承応3年(1654)に後光明天皇により、現在の社殿が造営された。
 
・昭和24年に、陶器の街の五条坂の中心にあたることから、陶祖神椎根津彦命を合わせ祀られ、陶器神社とも呼ばれるようになり、陶磁器業者からの信仰も厚い。
 
・毎年87日から10日まで、五条坂で行われる陶器まつりは、この若宮八幡の大祭に基づいて行われる。
 
 
4 練習問題
(1)祭神 仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
 
(2)沿革
①天喜元年(1053)後冷泉天皇の勅願で、左女牛西洞院の( 1 )邸内に創建。源氏の崇敬が厚かったところから六条八幡とも佐女牛八幡とも称された。
 
②( 2 )に崇敬され興隆したが、応仁の乱で荒廃。
 
③慶長10年(1605)、現在地に移転。
 
(3)( 3 )
昭和24年、相殿に陶祖神の椎根津彦命を合祀。
 
【正解】
1
源頼義
2
足利歴代将軍
3
陶器神社
 
 

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