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明神川沿いの上賀茂伝統的建造物群保存地区から大田神社へ
上賀茂神社は正式には賀茂別雷神社といい、下鴨神社(賀茂御祖神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される、京都では最も古い神社の一つといわれています。
かつて、上賀茂神社の神職たちは明神川沿いに代々屋敷を構え、中世の頃から社家町を形成していたといわれ、この地区は、昭和63年に国の伝統的建造物群保存地区に選定され、町並みの保存が図られています。
上賀茂神社から明神川に沿って、趣のあるかつての社家町を見ながら歩くと、おおきなクスノキがある藤木社があります。
1 明神川に沿った社家の町並み(伝統的建造物群保存地区)
●藤木社
クスノキの巨樹は樹齢500年といわれる
この先をしばらく歩いたところに、北大路魯山人の生誕地の石碑があります。
●北大路魯山人の生誕地の石碑
その向かい側に大田神社の鳥居があり、奥に参道が続いています。
※場所↓
〈周辺案内図〉
2 大田神社
大田神社は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社です。
周辺の沼沢地を開墾して栄えた賀茂県主(かものあがたぬし)の崇敬を受けたといわれ、本殿に天鈿女命(あめのうずめのみこと)をまつり、古くは恩多社(おんたしゃ)と呼ばれ、寿命長久の守護神として、また、縁結び、芸能上達の神として信仰を集めてきました。
・参道
・拝殿
拝殿は「割拝殿」(わりはいでん、中央が吹き抜けて通れる拝殿)という古い形式です。
・本殿
3 沿革
<説明板>
・古くは恩多社(おんたしゃ)と呼ばれたこともあり、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社である。
・祭神には天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っており、延喜式にも載せられている古社で、この付近の沼沢地を開墾して栄えた賀茂県主(かものあがたぬし)の崇敬を受けた神社である。
・右方東側の沢地を「大田の沢」といい、野生のカキツバタが美しい。
・藤原俊成卿、文治6年(1190)五社百首に
「神山や大田の沢のカキツバタ
ふかきたのみは 色に見ゆらむ」 (大意:上賀茂神社の御降臨山である神山の近くにある大田神社のかきつばたに、
ふかくお願いする恋(いろ)は、かきつばたの色のように一途で美しく可憐なんだろう)
と詠われ、平安時代からこの付近の沢地にはカキツバタが咲き乱れて、名勝となっていたようである。
・今日でも5月中旬頃には、濃紫、鮮紫の花が美しく咲く、このカキツバタの群落は、国の天然記念物に指定されている。
・例祭は4月10日と11月10日である。
4 大田の沢
大田神社境内の参道脇に約2000㎡の広さのある「大田の沢」と呼ばれる湿地があり、ここはアヤメ科の植物で青紫の花を咲かせるカキツバタ約25000株の群落で有名です。
この花は藤原俊成の歌にもよまれ、すでに平安時代には有名だったといいます。
この群落は平安時代からの名所とされ、尾形光琳の『燕子花(かきつばた)図』のモチーフになったとの言い伝えがあります。
古代、深泥池と同様に沼地であったという「大田ノ沢」は、かつて京都盆地が湖であった頃の面影を残すものとして、このカキツバタ群落とともに、昭和14年(1939)に国の天然記念物に指定されています。
毎年ゴールデンウィークの頃に花が見頃になりますから、今年も忘れずに出かけたいものです。
5 練習問題
(1)祭神:( ① )(あめのうずめのみこと)。五穀豊穣を願ってこの地の地主神を祀ったのが始めという。後に、上賀茂神社の境外摂社、上賀茂八摂社となった。
(2)寿命長久、病気平癒、縁結び、( ② )の神。
(3)( ③ )群落:大田神社の境内東側。国の天然記念物
【正解】
①雨鈿女命
②芸事
③かきつばた
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京の社寺めぐり
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京都検定のため、必要最小限の重要事項の整理を加えました。
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六道の辻と六道珍皇寺にある小野篁の冥土通いの井戸
京都、鴨川の五条大橋の一つ上に松原橋があります。この橋から東山方向に伸びる松原通を500mほど歩いたところに六道珍皇寺という臨済宗建仁寺派の寺院があります。
このあたりは、かつて「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世との境といわれていました。
松原通から六波羅蜜寺方向への曲がり角にある西福寺の角に「六道の辻」と彫られた標石が立っています。
・「六道の辻」と書かれた標石
・六道の辻にある「幽霊子育飴」で有名な「みなとや」さん
かつては東山の阿弥陀が峰北麓にあたる五条坂から南麓の今熊野に至る丘陵地は「鳥辺野」と呼ばれ、死者を葬るところとされ、「六道の辻」は葬送する際の野辺送りの場所であったと伝えられています。
・六道珍皇寺にある説明板
六道とは、仏教ですべての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの冥界のことで、六道珍皇寺の本堂裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王に仕えた小野篁が冥土へ通った入口であったという伝説が残されています。
六道珍皇寺は松原通に面して山門があり、では毎年8月7日から10日まで「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世に呼び戻す「迎え鐘」を撞く多くの参拝者で賑わいます。
正月明けの境内ではおまいりに来る人もほとんどいませんでしたが、本堂に向って右側の格子戸越しに、縁側と庭園と小野篁が冥土へ通った入口であったと伝える「冥土通いの井戸」を拝観することができました。
1 場所↓
2 「六道の辻」
六道とは、仏教ですべての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの冥界を意味する。
この付近はかつて死者を鳥辺野へ葬送する際の野辺送りの場所で、この寺が鳥辺野の葬場の入り口にあったことから、ここが、現世と冥界の接点つまり六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。
・松原通と六道珍皇寺入口
3 六道珍皇寺の境内
●山門
・六道の辻の碑
●山門から見た境内
中央奥に本堂が見える。右側に薬師堂、小野篁の木像を安置する閻魔・篁堂、鐘楼が並ぶ。
●薬師堂、小野篁の木像を安置する閻魔・篁堂
《説明板》
閻魔・篁堂には、小野篁作と伝える閻魔大王坐像と等身大の小野篁像を安置。
夏の「六道まいり」の頃には戸が開かれ、これらの像を見ることができる。
・ポスターの閻魔大王坐像と小野篁の木像
●本堂
●「三界萬霊供養塔」
●迎え鐘(精霊迎えの鐘)
<鐘楼> 毎年8月7日〜10日に行われる「六道まいり」の期間は、精霊迎えの鐘(「迎え鐘」)を撞くための多くの参詣者でにぎわう。
●多数の石仏、お地蔵様
●本堂の庭園と小野篁の冥土通いの井戸
《説明板》
・庭園と冥土通いの井戸
※小野篁
平安時代のはじめ頃、嵯峨天皇に使えていた官人である小野篁が、夜になるとこの寺の本堂裏にある井戸をくぐってあの世に行き、閻魔大王に仕えていたとされ、本堂裏に残る井戸は小野篁の冥土通いの井戸と伝える。
4 沿革
・創建についての詳細は明らかではないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後衰退した。
・室町前期の正平年間(1346〜70)に建仁寺の僧良聡によって再興され臨済宗に改められた。
5 練習問題
①建仁寺の塔頭。山号:「大椿山」。本尊は薬師如来坐像(重文)。
②正式名「( 1 )」
③平安・鎌倉時代には( 2 )を本寺として隆盛。その後衰退し、室町時代に臨済宗に。
④( 3 )の冥土通いの伝説
この地が、葬送の地である鳥辺野の端にあたり、現世と冥界の境界と信じられてきたため。
⇒( 4 )(盂蘭盆会8月7日〜10日) この日につく鐘を「( 5 )」と呼ぶ。精霊を冥界から呼び戻すと信じられている。 【正解】
1 六道珍皇寺
2 東寺 3 小野篁 4 六道まいり 5 迎え鐘 |
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新熊野神社と後白河法皇お手植えのクスノキ
新熊野神社は、東大路通を今熊野交差点から南へ少し歩いたところ、今熊野商店街の北のはずれ近くにあります。
ここは境内から東大路通の上空にまで巨大なクスノキが枝を広げているので、遠くからもすぐわかるほどです。
●クスノキの巨樹
ここ、新熊野神社のクスノキは、今から840年ほど前に、後白河法皇が自らお手植えされたものと伝えられています。
もとは、和歌山県の熊野から移植されたもので、今でも樹勢は衰えず、京都市指定天然記念物に指定されています。
京都には今でも街なかを歩くと、あちこちに巨樹が残っているのを見ることができます。
たとえば、青蓮院では築地の上に親鸞上人の手植えと伝える大きなクスノキがあり、樹齢は700年以上といわれ、また、西大路八条近くにある若一神社には平清盛が太政大臣に任ぜられたのに感謝して自らお手植えされたと伝える樹齢800年を超すクスノキの大樹があります。さらに中京区の三条商店街近くには、幕末の竜馬とおりょうのエピソードが残る樹齢850年ともいわれるエノキが武信稲荷神社の境内にあったり、そのほか数え上げたらきりがないほどです。
さて、新熊野神社に話を戻すと、この神社の由来については、熊野信仰の盛んな平安時代の後期に、後白河法皇が自らの御所として造営した法住寺殿の領域内にその鎮守社として熊野権現を勧請して創建したのがはじまりと伝え、熊野神社、熊野若王子神社とならび京都三熊野社の一つと称されています。
ここはまた、観阿弥・世阿弥父子が室町幕府三代将軍・足利義満の面前で「猿楽」を演能し、感激した義満はこれを機に、以降絶大な庇護を観世父子に与えるようになったということから、能楽大成機縁の地とされています。
正月には、ここが京都十六社朱印めぐりの一つでもあることから、初詣に訪れる人も絶えないところです。
2 境内
●大樟(クスノキ)
永暦元年(1160)の創建時に和歌山県の熊野から運ばれ移植されたもので、後白河上皇のお手植えと伝わる。
熊野の神々が降り立つ「影向(ようごう)の大樟さん」とよばれる。
後白河上皇がわずらっていたお腹の病が治まったいわれがあることから、「お腹の神様」、「大樟大権現」と称され、信仰されている。
京都市指定天然記念物に指定。高さ約19m、周囲約6m。
●東大路通に面する石段と鳥居
●樟大権現、樟龍弁財天、さすり木
石段を上がってクスノキの根元に祀られている「樟大権現」、「樟龍弁財天」をお参りして、その前に置かれている「大樟さんのさすり木」をさすってみる。
「健康長寿」、「病魔退散」、「お腹の神様」としてとして信仰され、ご利益を求める人が多いという。
●拝殿・本殿
境内の中央に鎮座。本殿は拝殿の奥。
寛文13年(1673)聖護院道寛親王によって再建、天保6年(1835)に大改修が行われ、現在の本殿は、この時のもの。
構造形式、平面構成ともに「熊野造り」の代表的な社殿であり、熊野本宮証誠殿と同じという。
●「能楽大成機縁の地」の石碑
<説明板>
・当地は、能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中3年(1374)の頃、父の観世清次とともに、大和の猿楽結崎座を率いて勧進興行をおこなったところ。
・世に「今熊野勧進猿楽」とよばれ、見物していた室町幕府三代将軍義満が、その至芸に感激、二人を同朋衆に加え、父子をそれぞれ観阿弥、世阿弥と名乗らせた機縁の地である。
・時の将軍の援助を受けた世阿弥は、父の志を継ぎ、後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた。
●境内末社
《上社》
・祭神:向かって右に速玉之男大神(イザナギノミコト)、向かって左に熊野家津御子大神(スサノオノミコト)をまつる。
《中四社》
・祭神:天照大神から第一代神武天皇に至るまでのアメノオシホミミノミコト(天照大神の御子神)、ニニギノミコト(天孫降臨の神)、ヒコホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトを祀る。
《下四社》
・祭神:生活の源泉と産業を守護される神々である、ハニヤマヒメノカミ(土の神)、カグツチノカミ(火の神)、ミズハノメノカミ(水の神)、ワクムスビノカミ(五穀養蚕の神)が祀られている。
●手水舎
●祈願絵馬
※八咫烏(ヤタガラス)
日本神話の中で、神武天皇が熊野の山中で遭難をしかかった時に、導いたといわれる三本足の鳥。(日本サッカー協会のシンボルマークになっている)
3 沿革
・永暦元年(1160)、後白河上皇が、自らの御所(法住寺殿)の領域内に熊野権現を勧請したのが始まり。
・後白河上皇は平清盛に命じて、霊地熊野を再現した熊野の新宮を造営するため、熊野から土砂や材木等を運び社域を築き社殿を造営した。また、神域に那智の浜の青白の小石を敷いた。
・その後、応仁の乱により荒廃し、長い間、廃絶同様の状態であったという。
・江戸時代初期、後水尾上皇の中宮東福門院が復興を祈願、寛文13年(1663)、後水尾上皇の皇子の聖護院宮道寛親王によって本殿を再建し、現在に至る。
4 練習問題
(1)祭神「イザナギノミコト」。 (2)沿革
・永暦元年(1160)、( 1 )上皇が平清盛に命じ、紀州の熊野権現本宮の祭神を勧請。 ・( 2 )の鎮守としたことが始まり。 ・( 3 )が社殿を造営。 ・応仁の乱で荒廃後、聖護院の道寛親王により再建された。 (3)観阿弥・世阿弥の能
応安7年(1374)、観阿弥・世阿弥父子が足利三代将軍( 4 )の面前で有名な「新熊野神事猿楽」を演能した由緒地として知られる。 (4)境内の大きな( 5 )
当時、熊野より移植した( 6 )で、( 7 )上皇お手植えのものと伝えられる。 (5)京都三熊野社
「( 8 、9 、10 )」 1 後白河
2 法住寺殿 3 平清盛 4 義満 5 くすのき 6くすのき 7 後白河 8 熊野神社 9 熊野若王子神社 10 新熊野神社 |
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トビウオの絵が書かれた祈願絵馬のある剣神社
京都の東山、東大路通の今熊野椥ノ森交差点から東へ徒歩5分くらいのところに剣(つるぎ)神社があります。
創建の由来については、平安遷都の際に、王城鎮護として都の巽の地に剣を埋め、そこに神殿を建立したことにはじまるともいわれ、古くは「剣の宮」と称したと伝えています。また、古くはホトトギスの名所であったと言われています。
ここは地元に住んでいる人のほかは、あまりなじみのない神社のようですが、昔から疳封じの霊験あらかたといわれ、子供の守護神として篤く信仰されてきました。
全国の神社にはそれぞれ特色のある祈願絵馬がありますが、この神社の祈願絵馬には大きく「トビウオ」の絵が描かれています。拝殿の脇に、「トビウオ」の絵馬が沢山掛けられているのを見ると、ちょっとびっくりします。
「トビウオ」の絵馬というのは全国的に見ても大変に珍しいということで、絵馬の収集をしている人の間では人気があるそうです。
なお、剣神社の前の道を少し歩けば、かつて清少納言が仕えた中宮定子の鳥辺野陵があり、泉涌寺の即成院のわきに出る道も近いので、散策コースとしておすすめです。
2 境内のようす
●正面の石鳥居と拝殿
・鳥居の扁額
石段を上がると、正面に朱塗りの鳥居と拝殿があり、鳥居の右脇に「撫で石」がある。
●朱塗りの鳥居と拝殿
●撫で石
創建以来のご神石といわれ、石を撫でてから、その手で障りがある箇所を撫でさすると御霊験の加護があるという。
●拝殿・本殿
●手水鉢
●朝日神明宮
●トビウオの祈願絵馬
●境内西側の入口の鳥居
3 祭神とご利益
《案内板》
・子供の守護神として広く信仰を集めている。特に疳封じの霊験あらかたであるといわれ、広く近畿一円から参詣客が絶えないという。
・11月上旬には「三疳封じ」という行事があり、焼いた蜜柑が参詣者に授与される。風邪の予防という神徳を得ることが出来るという。
・土用の丑の日に、頭痛封じの豊楽灸封じという祭事が行われる。
●つるぎ御弓始祭の案内
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正月の大谷本廟から清水寺へ
清水寺は一年を通じて週末はいつも観光客が多く、清水坂や五条坂は大勢の観光客が歩いています。また交通量が多いわりに歩道が狭いので、特に、雨の日には危ない思いをすることもあります。
そこで、大勢の観光客と一緒に歩くのを避けて、時間的にも早く、楽に歩くことができるコースとして、大谷本廟から大谷墓地の脇の道を清水寺に向うコースをお勧めします。
正月の初もうでに、清水寺へ、五条坂にある大谷本廟(通称・西大谷)を通って行ってきました。
1 大谷本廟
大谷本廟は浄土真宗の宗祖親鸞の墓所であり、境内には御廟などがあり、境内を出ると本願寺派門信徒による多くの墓が建ち並ぶ大谷墓地(西大谷)があります。
また、境内の飛び地には、宗祖親鸞を荼毘に付したとされる「御荼毘所」があるので、時間があれば立ち寄りたいものです。
なお、大谷派は、大谷祖廟(東大谷)を宗祖親鸞の墓所としています。
●円通橋から総門への参道
大谷本廟の入口には江戸時代に架けられた円通橋という名の石橋が今でも使われています。
この石橋は、横から眺めてみると「めがね橋」という通称があるとおり、アーチ状の橋脚が池(皓月池)に映る姿は「めがね」のようです。
●総門
宝永7年(1710)宗祖親鸞聖人の450回忌法要を行うに当たって建立され、その後寛政8年(1796)に現在の四脚門に改築された。
・扁額
万延元年(1860)第20代広如宗主の筆。
●仏殿
第13代良如上人の時代、寛文元(1661)年に創建され、慶応3年(1867)に隣接する二天門からの出火で焼失し、現在の建物は、明治3年(1870)の再建。
●明著堂
親鸞聖人の墓所である祖壇の前に位置する拝堂。宝永6年(1709)、第14代寂如上人の時代に造営された。
●大谷墓地から清水寺へ向う道への出入口
●大谷墓地を通って清水寺へ向う道
●市街地方面の景観
2 清水寺
清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の一つです。また、千手観音を本尊とし、西国三十三所観音霊場の第16番札所となっていて、清水の観音として平安時代以来多くの人々が参拝し、日本でも有数の観音霊場といわれています。
創建は、奈良時代末期に僧延鎮が開山し、平安建都間もない頃に、坂上田村麻呂が仏殿を建立したと伝えています。
現在の建物の多くは、江戸時代初期に徳川家光の寄進によって再建されたものです。
清水寺は、春の桜と新緑、秋の紅葉と四季折々に美しく、懸崖造りの本堂(国宝)は、断崖の上にせりだし、市街地方面の眺望も素晴らしく、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れています。
1994年に、「古都京都の文化財」としてユネスコの世界遺産に登録されています。
●仁王門(室町時代の再建・重文)
清水寺の正門で西面する。応仁の乱後15世紀末の再建。“赤門”と呼ばれる。
・狛犬
・扁額
●三重塔(江戸時代の再建・重文)と西門
三重塔は高さ29.7mで日本最大級の塔。
●鐘楼(江戸時代の再建・重文)
梵鐘は室町時代、重文。
●西門
●経堂(手前)と奥に見える田村堂(開山堂)
※田村堂
・江戸時代初期、重文。 ・謡曲「田村」に謡われている。 ・清水寺創建の本願主・坂上田村麻呂夫妻の像を堂内中央、須弥壇上の厨子(重文)内に祀り、併せて清水寺元祖の行叡居士と開山の延鎮上人を奉祀。 ●本堂への入口「普門閣」
●本堂《舞台》(国宝)
清水の舞台とよばれ、檜板張りで、欅の柱は高さ約13m。
本堂の屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出しており、建物の前半部分は錦雲渓の急崖にせり出すようにして総桧板張りの「舞台」を懸造りにして張り出し、13mの欅の柱を立て並べて支えている。
139本もの長大な柱が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている(釘は使われていない)。「懸造」、あるいは「舞台造」と呼ばれている。
●奥の院から見た本堂と市街地方面
●音羽の滝
古来「黄金水」「延命水」とよばれる清水。
滝に向かって左が「学問成就の水」、中央が「恋愛成就の水」、右が「延命長寿の水」といわれている。
どれかひとつだけ選んで、一口だけ飲むというのがしきたりともいわれる。
●祈願絵馬
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