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素晴らしい国 日本!
日本は一切の戦時国際法に違反しておらず、日本にだけ一方的に戦争責任があるということはありません。東京裁判は全て事後法により裁かれ、日本は裁判の内容ではなく結果だけを認めたのではなく受け入れただけのことです。戦後条約化されたジュネーブ諸条約に照らし合わせても日本に違反行為はありません。
まず何故大東亜戦争と呼ぶかご存知ですか? 日本は戦争の目的を明確にするために大東亜新秩序建設を目的とすると、昭和16年12月10日内閣情報局(現在で言う内閣官房)により決定し記録として残されています。つまり日本は戦争の目的を明確にしています、侵略の意図は全くありません。侵略などといわれる筋合いは全くありません。
そして大東亜新秩序とは、支那事変での日本の目標でもあった「日本・中華民国(今の中共はまだ国はありません、蒋介石の国民党です)・満州国による、国際正義の確立、 共同防共、新文化創造、経済統合の実現、植民地解放と相互の平等互恵を理念とする大東亜共栄圏構想を指します。大東亜新秩序は公文書として記録され保存されています。
昭和17年2月には帝国議会で、東條首相はアジア諸国の独立を支援する方針を演説しています。当然議事録として記録され保存されています。そしてそれを裏付けるように、日本はアジアで昭和18年 1月 汪兆銘の中華民国南京政府に日本の全ての特殊権益を返還し大陸での政府と認めています。いわば日本は中華民国を独立国として大陸において認知したと言えます。
昭和18年 8月 ミャンマーが独立(日本の占領下から)
昭和18年10月 フィリピン独立(日本の占領下から)
自由インド仮政府樹立
昭和18年12月 大東亜会議が日本で開催されました(相互の自主独立と人種差別を謳った大東亜共同宣言を発表)実質インドの独立とインドシナ三国の独立容認を意味しました。
昭和20年 3月 ベトナムとカンボジアが独立
昭和20年 4月 ラオスが独立
昭和20年 7月 インドネシアが独立を決定
昭和20年 8月 終戦
日本の終戦までにマレーシアとシンガポール以外の国を独立に導き、一カ国も植民地にしてはいません。マレーシアとシンガポールの独立容認とまでは行きませんでしたが、興亜訓練所は設立し、国家運営の教育は施しています。その後マレーシアもシンガポールも独立を果たしています。日本の戦争の目的は明確であり、侵略などしていません。戦争の目的通りアジア各国を独立に導いています。そして前にも述べたようにアジア各国も日本のおかげで独立できたということを認めているのです。
昭和24年10月1日に国家が設立された中共だけが(朝鮮半島については後で述べます)日本の侵略戦争と主張しています。しかも日本の敗戦から四年も経過してから設立された国家の言葉です。中共が主張する日本の侵略などの根拠は全くどこにもなく中共の勝手な捏造の言いがかりなのです。日本の戦後から中共との国交回復される昭和42年まで、中共に侵略どころか国交もないため一部の日本人が訪れているだけです。
それでは日本が当時大陸に軍隊を送った理由は何かと言うと、清国と中華民国国民党の争いである義和団事件に原因があります。「義和団の乱」で、支那人が北京などに駐在していた外国人を大虐殺したのです。北京などで自国民が大虐殺された列国は、連合軍を派遣してようやく支那人による外国人大虐殺事件を鎮静することが出来たのです。そしてそのときに義和団事件後の処理として、各国が清国と結んだ講和議定書が「北京議定書」と言われるものです。
この「北京議定書」は、英・米・仏・露・独・墺・伊・白・西・蘭・日の11カ国と締結され、各国の軍隊が支那に駐屯し、支那の警察の役割を務めることになったのです。日本の軍隊だけが大陸に派遣というか出兵したわけではないのです、中共には11カ国の国がきちんと合意の上での国際協定により駐留したのです。いずれの国も侵略したのではありません。
当時の支那には取締りに従事するのに値する警察がなかったので、義和団事件のような支那人による在支那外国人大虐殺が起こったのであり、支那の警察の代わりに外国の軍隊が支那に駐屯して支那の治安と平和の維持を担うことになったのです。
北京議定書では、北京−山海関の12の要地における外国軍の駐屯が認められており、日本軍もそれにしたがっています。その後30年以上経っても、支那にまともな警察がなかった状況は改善されなかったので、各国の軍隊は第2次世界大戦まで駐屯し続けることになったのです。この事実をしっかり認識しなければ、1937年から始まった支那事変のことも全く理解できなくなります。日本軍は大陸に戦争をしに行ったわけでもましてや侵略などの目的で行ったのではありません。他国と同様に自国民の安全のために派遣されたのです。
支那事変から満州事変に至る経緯等は「紫禁城の黄昏」に詳しく書かれています。イギリスの中国学者で清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師レジナルド・ジョンストンの著書です。1934年3月ヴィクター・ゴランツ社から出版されました。清から中華民国そして日本の大陸での貴重な資料で、東京裁判に証拠として採用されていれば結果は違うとまで言われてます。祥伝社訳版がお薦めです、是非一読してください。中共の言い分も、日教組の教えも、左翼学者・識者の言う事は間違っていることがよくわかります。日本でも中共でもない公平な第三者による貴重な資料とも言える書です。
日本の侵略戦争であるとの中共の主張には全く根拠がないことがよくわかります。そして中共以外の国が日本の侵略戦争などとは一言も言っていないのです。支那事変のきっかけと言われる柳条湖事件は、1931年9月18日です。その頃の大陸は孫文・蒋介石の中華民国国民党です。日本との戦いは国民党であり、1949年に国が成立した中共は全く関係ありません。その後の満州国も満民族の為に日本が作ってあげたものです。漢民族は関係ないし支配した事もありません。日本は今現在大陸に存在している中共とは戦争も無ければ侵略もないのです。
それでは皆さんは世界の国々からどれだけ日本が評価され信頼され愛されているかご存知ですか?
日本はアジア各国からだけではなく、世界から感謝され賞賛されています。日本の大東亜戦争に対する評価は、このサイト「日本のために」の世界からの日本の評価V1からV8を掲載しています。
ここにはそのほかに
・ 誇り高き日本人達
・ 特攻隊員の遺書
・ 親日国シリーズ
等も掲載されています。是非とも一読されることをお願い申し上げます。アジアを始め世界の各国が日本を絶賛していることが理解できます。今後もこのコンテンツにどんどん記事を掲載していきます。
少し違った角度から欧米の植民地政策に目を向けると、イギリスだけですが、公開された英国外務省の公文書によると、英政府は「Operation Legacy」の名のもとに、ケニア、ウガンダ、マレーシア、タンザニア、ジャマイカ、その他の植民地の当局者に対し、「英政府を辱める恐れがある」文書の破棄方法を指示しています。英国の公文書には、シンガポールにある英国王室海軍の焼却炉で周辺地域から集められた数多くの文書が処分されたこと、沿岸部からできる限り離れた海流の穏やかな深海に文書が沈められたことについての記載もありました。
どういうことかというと、イギリスにとって恥ずかしかった植民地政策の記録を破棄していたということなのです。と言うことは日本の大東亜戦争は、白人からのアジア植民地解放だけではなく、欧米各国の恥ずかしい植民地政策からも解放してあげたと言うことになると思います。恥ずかしい政策を日本が止めさせてあげたと言うことにもなり、欧米からも感謝されてよいのではないでしょうか? 日本人の謙虚さは美徳です。しかし少しは世界に向けてこれくらいの気持ちをもったらどうか、と言うのが私の考えであり、堂々と世界に向っていって欲しいと思います。日本人として世界に一切恥じることは何もないのです。むしろ感謝されているのです。
一部だけこのサイトの大東亜戦争の日本への評価を紹介します。しかし出来るだけ全てを読んでいただきたいと切望します。
マレーシア・ャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の国語を普及させ青少年の教育をおこなってくれたのです。」
ガザリー・シャフィー(シャフェー)マレーシアの元外務大臣
「日本はどんな悪い事をしたと言うのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。
私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取り返すことができずマレーシアは独立したのだ。」
サイデマン・スリヨハデイブロジョ、インドネシア陸軍大学長、駐日大使、外務省上級大使などを歴任。
「かつて日本は我々に自信と敢闘精神を教えてくれました。日本軍政の最大の功績はぺタを創設したことですが、インドネシア語を普及したことも多種多様なインドネシアの団結に偉大な役割を果たしました。
日本に学べというのは、日露戦争以降今日まで続いているアジアの伝統的な姿勢です。
独立運動の指導者、スカルノとハッタが演説のなかで繰り返し言ったことは、一九〇五年の日露戦争における日本の勝利についてでした。これこそ我々が白人に勝てる証明だと。」
ケマル・イドリス、インドネシアの元中将。ぺタ出身。
「日本精神は我々にとって一番。なぜなら、日本精神で我々はオランダに向かったのです。我々はこの精神を独立戦争に持ち込み、その結果、独立を達成したのです。
我々に武器はなく、たとえ竹槍で戦っても、勇敢でした。だから我々は独立戦争の基本となった軍事能力を与えてくれたことに大変感謝しているのです。」
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