『武田二十四将論』保坂義照先生著 昭和十九年刊
十七、甲陽軍艦辨疑考(三)
此虞で愈々甲陽軍艦の辨疑に入るのであるが、様するに『甲陽軍鑑』には『似非甲陽軍艦』があると言ふ事である。この『似非甲陽軍艦』掴んだら最後、飛んでもない誤謬を胃すことゝなる。此れが『甲陽軍艦』を誤りし最大の原因であると考へられるのである。以下これに就いて些か,研究して見度いと思ふ。田中義成博士も、和田政雄氏も、或は幸田露伴博士も、此の『似非甲陽軍艦』を見られたのではなからうかと思はれる節があるのである。渡辺博士は、だから『武田流軍学全書』の序言に置いて何かしら奥歯に物のはさまった様言ひ方をしたのではなからうか。『武田流軍学全書』は、万治板(万治二年仲秋〉寛文版(寛文五年仲呂)元禄版(元禄十二年正月)に加へて宝永版等の各時代出版のものを綱羅して参照し、校訂したものであると言ふから、大体に於て、そのいきさつが解ると思はれる。
即ち『甲陽軍鑑』は「江戸時代の武家が軍学講習の教科書として用ひたるを以て印本多く流布し、其数實に十余種に及べり。就中万治版、元禄版を善書とし、最も世に行はれたり」 と言ふのであって 更にこれ祖述して 『甲陽合戦傳記』 『甲陽合戦日記』 『甲陽雑記』 『甲陽合戦覚書』 『甲陽発向記』 『甲陽軍艦評判」等々の如きもの迄簇出したと言ふのであるから、その正傳を掴む事は仲々困難の事と思はれる。万治版、元禄版にした處で「就中万治版、元禄版を善書とし」で完全なものではなかった事が知られるのである。斯様な状態であったから既に賓永年間に武陽長井庄の隠士某と言ふ人が、『甲陽軍艦辨疑』(三巻)を中川藤兵衛の開版で出版しているのである。これを試んで見ると、似非軍艦のある事は一層よく解るのである。 『甲陽軍艦辨疑』に就いて見ると、第一に「楯無の鐙」の事に関し、「本書、軍艦の始云く、楯無しは新羅三郎の鎧、旗は八幡太郎の旗にして武田代々の家宝と云々、(信虎追出之文中有之)此の説大成る誤と知るべし」 とあって其の誤謬を指摘してゐるのであるがこの軍艦辨疑の著書の見た本音なる軍艦がどんなものであったのか『武田流軍艦全書』にある、「甲陽軍艦」にはそんな事はないのである。只、「楯なしは、そのかみ新羅三郎の御具足、御旗は猶以、八幡太郎義家の御幡也、太刀、刀、脇差は御重代なれば」 としてあって、そのかみに於て新羅三郎の具足であり、八幡太郎の旗であっても楯無もも武田家重代の家宝などとは言って居らないのである。又次に松永弾正久秀の死に就て「按に、松永弾正久秀は三好家の老臣たり、大正五年十月十日、山城國志貴の城に於て滅亡す。所謂筒井順慶入道が謀略に依ってなり、本書に永禄十三庚巳滅亡すと云々、是古本に載する處、別本には天正七己卯戦死と言へり、共に妄説にしてん信用べきに非ず天正五年に死亡すること、国記山に明白なり、然るに本書軍艦は高坂霜台か自記と號し其の巻尾に年號を呈て曰く、天正乙亥六月高坂弾正記之と、可見松永が死亡本書の撰出するの月日、三年の後なり、高坂神人に非ず三年の前、久秀が戦死、行状とを知て記する事を可得や云々」 と、これも、甲陽軍艦傳解に依って見ると、松永弾正の死は天正五年であり、巻末に左記の如く、附記されて居るのを知るのである。
「此の巻末、より一、ニケ條は、天正五年の暮に弾正下書をせられしを春日惣二郎請取りてかきつく者なり」 と、次は「命期巻」でみるが、この處は賞めてある。次で原隼人佐を鎌倉へ下見に行かしめた處であるが、これは、軍鑑にはない。次いで、瀬沢、平沢、大門峠の合戦の條を論じ、此の間に未だ一戦があったとしている。そして又、それを載せざると載せたるものとある事を指摘し、「本書に戦の脱漏限之べからず、此の一戦加るとも別の脱漏を不知、増補して以て先人の過ち覆事を得ぺけんや、後人の御慮笑に堪へたり」と云っている。次いで山本勘助問答に及び、「天正十六年二月十五日、晴信、山本勘助晴辛を召して八幡の社頭に於て軍事を問答し玉へり、時に勘肋、大内大貳義降卿、家臣陶尾張守晴賢に□せらるゝ事を述て、信玄を諌諷す云々、考に大内義隆卿、陶尾尾張守が為に長門国深川の大寧寺に自殺し玉ふは天文二十年九月朔日なり、本書軍艦に、晴幸大内家滅亡の事跡を以て信玄に諫話する時日は、天文十六年二月十五日也、道鬼通達自在を得るとも五年以後義隆滅亡するを識て以て信玄に告げる事を得んや、彼道風が和漢朗詠を翫ふ属なるべし。
と言っている。軍艦の勘助問答の説には此の事もないのである。只信玄に軍事を問われた時、駿河に居た折信虎公が今川義元公によく話したと言ふが、当武田家には十二名の名臣があってその誰々はどう言ふ様に兵を用ひるとか言った事で、勘助如きが仲々申上げる可きではないと言ったと言ふのであって皆勘助の奥床しきに感心したと言ふのである。最も勘助申上る條々としては大内が陶に大半国をとられたとはしてある。
<写真は市川文書写しと山梨県史掲載の文書内容>
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