この著者の喝破せる通り、見る可し、他国隠謀の為、傳授が無くては知られざる様にこれを書いたのであって、事実高坂の手記であると、此の著者が折紙をつける軍法の巻などには至る處に口訣ありとか口傳ありとか記されてゐるのである。軍規保護が如何に重ぜられたかは、信玄が嫡子義信の隠謀発見、自裁後その館趾を取り壊して毘沙門堂を建立し、地下室を作って、便所の排水路迄工夫し、此の毘沙門堂の一室へは、馬場、山懸、高坂、内藤、土屋、武藤(喜)、曽根、三枝、原、小山田等の如き限られた諸将の外は絶対に入る事た許されなかったと云ふ一考えて見ても頷ける事であるし、甲州の反語と称し、事実と反対の如き表現をして話しを通ぜしめた事は、今日尚幾多の方言として残るものに依って見ても明らかに解るのである。
例へば、何処々々へ行かうと言ふ時に甲州では「行かず」と言ふのである。
「おいお湯へ行かうか」と言へば
「あゝ行かず」と答へるのである。
「さあ出掛けるとしょうか」
「うんいかずかな」
これでは他国の隠密などが入り込んでも居ても、こんな会話をされたのでは、さっぱり理由が解からなかったことであろうと思われるのである。赤穂四十七義士で有名な「相言葉」なども甲州流軍学の記する處である。乱戦のさ中とか夜戦などに於て、敵味方を判別する最良の方法であった。又は敵国のスパイに対して、一瞬これを判別せしむる為にも、この相言葉が使用された模様である。大石良雄の「山鹿流」軍学は山鹿甚五兵衛素行先生より出で、山鹿素行先生の山鹿流は、小幡勘兵衛景憲の所謂「武田流の軍学」から出ている事は史家の斉しく認める處で明かな事実である。
然らばこの武田流(甲州流とも云ふ)軍学は、何からでているかと云ふと、軍学の祖、小幡勘兵衛景憲の甲陽軍艦であり、それは又山本勘助の兵学であり、武田信玄の用兵から出発している事も明かなり事実である。
|