さぶやんの”山梨歴史ジャーナル"

山梨は歴史・伝説・民話のふるさとです。

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幸田露伴博士は「武田信玄」の中で次の様に述べられている。

「世の甲州流軍学と言ふものは、小幡勘兵衛景憲を祖とする。景憲は山本勘助を宗とする。併し、景憲は勘助に直接指導したのでも何でもない。勘兵衛景憲は甲州の宿将小幡虎盛の後で昌盛の二男だが、其の生れたのは元亀三年だから、僅に十一歳の時に武田勝頼は亡びたのである。で幼時から徳川氏に仕へて、関ケ原、大坂の前役にも出陣したが、大坂との和談が一旦成就した時に、大野治房の招に応じて大阪方へ入り、板倉伊賀守勝重や松平隠岐守定行と謀し合せて、関東方の為にスパイとなったのである。かゝる男が大阪に居たのであるから、大阪の様子は手に取る如く関東に知れ、随って容易に亡ぼされたわけで、大阪亡びて後は御使番となったのである。此の勘兵衛も一通りの者ではない。自分の所領の三分の一を村上荘次郎といふ者、他の三分の一を杉山八蔵といふ者に與へて、自分は残れる三分の一を得るに甘んじたといふ。斯様いふ男で、そして甲州の士早川三左衛門、広瀬景房、辻彌兵衛、小宮山八左街門、仁科肥前守、辻甚内等に就いて武田家の軍法学び、叉岡本半助、赤澤太郎衛門、益田民部等にも学び、又甲州北郡に隠居してみた岡本實貞入道をも招いて益を請ふたりして、終に甲州流軍学を以て、世に鳴り、列侯諸士の其門に入るもの二千余人に及んだといふことである。

 勘兵衛の弟子北條安房守氏長は北条流の祖となり、氏長の弟子山鹿甚五左徹門義矩は山鹿流を編立てたのだから、名高い山鹿素行も景憲の孫弟子の訳である。信玄及び武田家の事を記したものの中で古いものは甲陽軍艦である。軍艦は虚實混淆して確古の史料として取ることは難いものであり、且また高坂弾正の撰にかゝるゝいふことは断じて信ぜられれものであるが決して生新しい偽書ではない。古いことは古いものである。武田氏滅亡を距ること遠からぬ世に出来たものである。勘兵衛は甲陽軍艦の闕を補ひ誤りを正さんとしたやうに云はれている。然し夏目繁高は、勘兵衛が甲陽軍艦の闕文を補ひ、大に甲州武田の兵法を興起す、と記して居る。勘兵衛は非常に長命で寛文三年九月、九十二歳で死んでいるが、勘兵衛存命中、盖し勘兵衛の七十七の賀の頃、門人等が打寄って記したと見ゆる正保四年の誌文は、文章も朴拙で古さの思はるゝもので、其中に、景憲天性人の宇下に立つを欲ぜず、燕雀を睥睨するの知、鴻鵠を慕ふるの志有り、唯願ふところは先君信玄公創業垂統の規矩、殊に軍旅の制法は之を祥かにせんと、故に甲信領国の士普く其門に入り、故實を尋探し、委曲に之を記録し、悉く其語を綴集し、編して五十帖と為し、名づけて甲陽軍艦と號す、而も景憲心未だ満たずとして又、益々天下に遍歴し、其志を立てんことを願ふ、とあって、其の下には景憲が致仕して諸国修行を試み、兵法、軍学、禅宗に苦心した事を記してあり、其後関ケ原し大坂等の役に参じたことを記してある記して見れば甲陽軍鑑は勘兵衛が若い時、関ケ原役の前(関ケ原役の時は勘兵衛年二十九)即ち青年時代に、自分と同しく徳川氏に属した甲州諸士等に信玄盛時の事を聞きて、追慕憧憬の念、慷慨悲愴の情、研究心、批評心、何や彼やを取交ぜ、且又今は徳川氏に属している将士の感情や智識や意見をも取交ぜて記したるものと想はれる。央實の誤訛り砒や不足やは、もとより央家でも記録でもない諸将士の記憶談を其儘偉傳へたのであるから、自然生じ勝の事で、しかも勘兵衛に語った。諸人も亦一々実際に遭遇又、目撃した人のみではなく、傳聞に之を得たことを語ったらうから、後世の考證家に其失を攻撃されるやうな誤謬を含んだとて、それは無理も無いことであらう。で、事実聞編の巻十四に採録されて居る逸名氏の景憲門弟子の正保丁亥の文記を信ずれば、甲陽軍艦は勘兵衛の手から出たもので、其の成立の事情も大概は分明する」

と、此の場合、露伴博士の見られた甲陽軍艦が果してほんとうの甲陽軍鑑であるかどうかと云ふ事である。甚だこれは失礼な言ひ方ではあるけれどもb軍鑑の真偽を論ずる上から言ってどうしても青はなければならぬ破目に立ち至った理由で、幸田先生に封しては何んとも申訳ない事で此の点重々お詑を申上げて置く次第であります。要するに幸田半博士の説から見ても、和田政雄氏の説に於ても、甲陽軍艦に、山本勘助が八幡原の草むらの中で悲壮なる戦死た遂げた事が記載されて居る様に感ぜられるし、幸田博士は又、軍鑑に「文編巻十四」と云ふものが載ってある事を記されているのであるが、「武田流軍学全書」で見る軍鑑には「山本勘助」の八幡原の事項も、「文編巻十四」も載っていないのである。文編巻十四といふのは幸田博上の説に依っても知られる通り景憲門下の記述で、これが載っているものとすれば、景憲編輯の軍艦とは思はれるが、それが果してほんものか又は何時代に出版されたものであるかが問題であると思はれる。

 勿論筆者は、「武田流軍学全書」に納められている甲陽軍鑑が、絶封正しい甲陽軍鑑である等と思っているものでは断じてない。只、それが万治板、寛文版、元禄版:宝永版等の各時代出版のものを網羅して参照、校訂されたと言ふのであるから、比較的正しいものであると信ずるものである。然しながら幸田露伴博士の如きは流石に一世の碩学であつて、例令その見られた軍艦が似非軍鑑てあったとしても、大局に於て誤りの無い公平な立論をせられている事が充分に知り得られるのであって、此の点深甚なる敬意を表すベきであらうと思はれる。以上各方面より検討して見た場合、甲陽軍艦を論ずる場合、小幡勘兵衛景憲の編集した甲陽軍艦の原本を見なければ、ほんとうの立論を為すことは出来ないと言ふ結論に到達する事になる。

 そして大体に於ては、高坂弾正景憲の遺記と、それを書き継いだ、春日惣二郎及,小幡下野、外記孫八郎、西條沿郎等の手記、談話に小推勘兵徹景憲の加筆が軍艦、原本の成立過程ではなかったのではあるまいかと思はれるのである。それは、高坂、春日、小幡、西条、勘兵衛景憲等の縁戚駒係から見ても考へ得られるのである。以て一般の高教と仰ぎ度いと思うものである。

 尚軍艦に表現せられている合戦が、それは只表面的のものであると言ふ事は、「甲陽軍艦評判」と言ふ、兵学的見地から批評したものを見るとよく解る事を附記して置く。


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