さぶやんの”山梨歴史ジャーナル"

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山本勘助100話
引用史料 『武田・上杉軍配』 小林計一郎先生著
新人物往来社 昭和58年刊


 山本勘介、信玄の側近にあり

 信玄は容易に所在をあきらかにしない。謙信が川中島方面に気を奪われている間に、板
垣(信安か)らを遺わして小谷城(北安曇郡)を攻略させ、糸魚川口をおびやかす。謙
信は飯山城を根拠にし、野沢の湯に兵を出して市河氏を攻めようとした。
 信玄は六月二十三日付の手紙を山本管助に持たせて市河藤若の許へ送って、市河を励ま
した。この手紙は山本勘弁(正しくは勘助)に関する唯一の確実な史料であるから、次に
その全文を紹介する(口絵与真参照)。


 注進条披見。景虎至意至野沢之湯進陣、
 其地へ可取模様、又、雖入武略候、無同意、剩
 備堅固故、長尾景虎無功而飯山へ引退候哉、誠心地
 能候。何ニ今度其方擬頼母敗迄侯。就中、野沢
 布陣之砌、中野筋後詰め義、預飛脚候き、則倉
 賀野へ越、上原与三左衛門尉、又当手之事も、塩田
 在城之足軽為始、原与左衛門尉五百余人、真田に
 指遣侯処、既退散之上、不及是非候。全不可有
 無首尾候。向後者、兼存其旨、塩田之在城衆
 申付候間、従湯本注進次第ニ、当地へ不及申
 届、可出陣之趣、今日飯富兵部少輔所へ成下知候
 条、可有御心易候。猶可有山本菅助口上候。
  恐々謹言。
(弘冶三年)六月廿三日 晴信(花押)
  市河藤若殿

(訳)
 注進状を読んだ。景虎が野沢の湯(下高井郡野沢温泉)に陣を進め、その方(市河)の地へ攻めかかる様子を見せ、また、先遣隊などか攻撃をしかけたが、とりあわず、防備を堅固にしたので、長尾景虎は功なくして飯山へ退いたそうだか、誠に心地よいことである。景虎が野沢に在陣中、中野筋へ後詰するよう飛脚をもらった。そこで倉賀野にいる上原与三左衛門尉に応援を命じ塩田在城の足軽をはじめ、原与左衛門尉ら五百余人を真田幸隆の指揮下に入れ、後詰に差し遣わそうとしたが、すでに景虎が退散したので間にあわなかった。決して処置を怠ったわけではない。今後は塩田在城衆に申し付けておくから、湯本から注進かあり次第、私にことわらずに出陣せよと今日飯富兵部少輔に命じておいたから御安心願いたい。なお、山本菅助が口上で申し上げる。

 なお、この手紙に上州の食賀野や湯本(草津の地士)か出てくるのは、市河の根拠地奥信濃と上州が草津道で連絡されているからで、信玄が上野方面からも奥信濃へ圧力をかけていたことかわかる。
 武田家では、他の例でみても、使者は晴信直臣の相当な地位の者が勤めているから、山本菅助は当時晴信の側近で一応の地位を占めていたに違いない。
 その名は、唯一の確実な史料」に「菅助」とあるからには、それに従うべきであろう。
 山本菅助の名は「高白斎記」にみえない。たぶん天文二十二年以後の新規登用であろう。そして、おそらく永禄四年の川中島激戦で戦死したのであろう。
 菅助の子孫又は一族と思われる者が数人、信玄の近群衆・直参衆・小人頭などになっていた。江戸幕臣の山本氏で勘介の子孫と称する者(『寛政重修諸家譜』一三二一巻)かあったが、おそらく事実であろう。
 山本勘介は武田の軍師として『甲陽軍艦』では大活躍している。勘介小召抱えられる事情は、同書品第廿四に見えているが、それによると次のとおりである。

「天文十二年正月に、武田の重臣か晴信の前に集まって、その年の策戦をねった。信州の新占領地に城を築くに当って、うまく縄張りをすれば、千人の人数で守ることかできる。
どこかに縄張りのうまい者はいないかと相談していると、一人が言うよう「今川義元公の一族庵原(いおりばら)につかえている山本勘介という者がおります。今川家に奉公を希望したが義元公は召し抱えません。この男は三州牛窪の者で、四国・中国・関東までも歩き廻った男です」
 そこで晴信はその年三月知行百貫の約束で、駿河から勘介を召し寄せた。勘介を見て晴
信に言った。
「お前は一眼で、あちこちに負傷して手足も少し不自由らしい。おまけに色も黒い。かほどのぶ男で、しかも有名だというのは、よほど誉ある侍であろう。百貫では少ない。」
 と即座に二百貫の知行を下された。この年のうちに城九ツが晴信公の手に入ったのは、ひとえに山本勘介の武略である。

 さて、『甲陽軍鑑』によればこれ以後の掛介の「武略」はあげきれないが、山本勘介の名は確実な史料」にひとつもみえないので、その実在が疑われていた。古く田中義成氏は「山本勘介は山県昌景の一部卒に過きず」
 としている(『甲陽軍艦考』)。これは『武功雑記』の記事によったもので、この書 (肥前平戸城主松浦鎮信〈一五四九〜一六一四〉の筆記)には、次のようjに記されている。

 ……三河牛久保に牧野殿という三千石ほどの将があり、その家来に山本勘介という高慢な武芸者があった。ある時、上泉伊勢という旅の武芸者と牧野殿の前で仕合いをしたが、勘介は上泉の弟子に負けてしまった。そこで主家におれなくなり、甲州へ行った。そのころ甲州では、他国者の来るのを喜び、ことに三河者を歓迎した。勘介は山県昌景に召し抱えられた。しかし甲州者で勘弁の名知っている者はなかった。川中島合戦の時、山県か勘介を斥候に出したが、帰って来て山県に報告しているようすを信玄が見て、「あれは何者だ」 と尋ねた。
「あれは山本勘助といった三河の者です。口重な者(落ち着いた者の意か)というので、山県が扶持しております。」
 と申し上げた。勘介の子、関山派の僧で少々学問のある者が、信玄のことなど覚書した反古を取り集め、わが親の勘介のことを飾り立てて書いたのである。これを高坂弾正の作と偽って甲陽軍艦と名付けた……

この記事は、『甲陽軍艦』の成立事情を語る、わりに古い記事として注目され、またこの記事により、山本勘介は例え実在したとしても、ごく身分の低い者と考えられてきたわけである。
 しかし、前述のように信玄の使者は、その側近の信頼しうる人物が勤める例であり、山本管助が新採用ながら、その才能を信玄に認められ、奥信濃の経略に一役買っていたことは明白である。
 なお、この手紙は市河氏の子孫の市川良一氏(北海道釧路市松浦)の所蔵、同氏は米沢上杉藩士で明治二十三年に米沢から屯田兵として北海連に移住された。同氏夫人がテレビの『天と地と」を見ていて、そこに出て来た信玄の花押のある文書をみて、自宅に同じような文書のあることを思い出し、釧路博物館の人にそれを見せたのが、世に紹介されたはじまりである。  云々

<http://sky.geocities.jp/yamamotokannsuke2003/>


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