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11、身延山七面堂焼失 半日閑話(大田覃)
十月十一日の夜、甲州身延山七面堂炎上、参籠の者六十人程死すといふ。
一、惣領御番入書付 半日閑話(大田覃)
安永五年十二月十九日
町奉行 曲淵勝次郎 甲斐守惣領
12、甲州米 半日閑話(大田覃)
甲州米三斗俵は陣々え渡す兵糧三十人え壹俵宛にて、其後算用仕能積也。
古来諸国の米壹俵五斗入、甲州辺同断之所、信玄三斗俵に計り入取廻しよしとて改めらる。
13、角力上覧 半日閑話(大田覃)
寛政六年甲寅四月九日 甲ケ嶽 甲斐嶽 八ツ峰
雷電 谷風 (駒ヶ嶽
一、下御霊社司板垣民部談 遠碧軒記(黒川道祐)
(前略)さて社家は代々春原なり(中略)これが中絶の時に甲斐の板垣信方の子、(信方は病死、子の彌次郎者為二信玄一被レ害て跡絶ゆ)同彌次郎が遣腹の子が、母とも京に流れ落て後は丹波に閑居す。この子成長して南禅寺の少林寺へ遣し、出家して正寅と云。これを室町より肝煎してをとして社司とす。これが中比の社僧寿閑の親なり。云々
14、宝永二年二月常憲院将軍六十賀和歌 遠碧軒記(黒川道祐) この御賀に松平美濃守吉保御杖をまいらするとて、
君にいまさゝぐる杖のふしておもひ
あふぎていのる萬世の春
此美濃守甲斐国を給り、甲府の城へ初めてまかりまふでけるとき、
としを経て君につかふるかひがねや
雪のふる道ふみ分てみん
ふる道ふみ分るとよめるも、甲斐の武田餘流なるよしのあればなるべし。
15、馬場三郎兵衛 閑憲瑣談(佐々木高貞)
(前略)實は本国は三州、生国は甲斐にて、即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、幼名三郎次と申す者にて候、領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人、其上、大炒、長閑の両奸人、国の政道を乱し、諸氏一統疎み果候始末は、甲陽軍艦に書記(かきしるし)したる十双倍に御座候。されば□(長篠)の合戦の節も、先主以来
の侍大将ども、彼是の諫言を一向用られず、美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、甲州の住居も難レ叶、信州に母方の由緒有レ之故、玉本翫助が末子、八幡上総が甥等申合 、三人ともに、信州に引込、往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、年月を送り候所へに不レ慮難波鎌倉鉾楯にて、難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、千邑繁成が組与力となり、云々
16、高芙蓉 蒹葭堂雑録(木村孔恭)
煎茶に用ゆる「キビシヤウ」といへる器を、高芙蓉の検出(かんがへいだ)して大雅堂に語られしが、殊に歓びて是を同士の徒に知らしめんとて、其事を上木(じょうぼく)し弘められしとぞ。風流の親切といふべし。右次て丙子冬十月、大雅堂印施と有。この丙子(ひのえね)は宝暦六年にして、大雅山人三十四歳、高芙蓉は三十五歳の時なり。
芙蓉は名は孟彪、字は孺皮、芙蓉はその号なり。甲州高梨の人にして、高氏なり。父を尤軒(いうげん)といひて、かって徳本氏に従ひて醫を業とす。芙蓉醫を好まず。弱冠の頃より京師に遊び書画を愛す。好事の一奇人なり。篆刻の妙絶にいたり、海内に其名を知らざるものなし。俗称後に大島逸記といふ。天明四年四月二十四日東武に没す、行年六十三歳。〈芙蓉の生年は逆算すると、没年…天明四年(1784)、 生年…享保六年(1721)の生まれとなる〉
(図略)
17、名醫徳本の奇事 閑憲瑣談後編(佐々木高貞)
世に名高き甲斐の徳本は、和漢古今に珍らしき恬澹(かつだつ)の人なり。本性は長田氏、知足斎と号し、三河州大浜村の人、其先祖を知る者なく、不レ詳二所レ出一。勢利を欽(よろこば)ずして、四方に周遊し、去就任意(こころにまかせ)いさゝかも諛(へつらい)なし。
大永享禄の頃(1521〜1532)は甲斐の州に遊び、醫道を以て武田信虎の家に為客。抑々徳本翁の醫術は、即効を専らとし、其療治いさゝか烈(はげ)しきに似たり。然ば病に依って峻剤毒薬機宣不誤、攻撃瞑眩不避世諠、(これは病気の様體によっては、峻しき薬を用ひ、毒を服せ、病を強く攻撃、瞑眩てもかまわず、世の人々が諠しくいっても不避、存分に療治する事なり)富貴なる輩は、俗諺の如く古方家と忌恐れて信ぜず。却って山野僕質の民に尊信せられ、殊に貧しきを憐みて、療養を信切にし、居所の悪敷きを厭わず。 天文年中(1532〜1555)には甲州を去りて、信濃国諏訪郡東掘村に住し、天正の乱に武田氏亡て後、再び甲州に還り、自ら草廬を構、號て茅庵といふ。他に出る時、頸に薬袋を掲て、牛の背に跨り、彼薬入の表に一服十八銭と書付たり。富貴を顧みず、貧賤を嫌わず、偶々権家の招きに応じて、病を治し効ありても、薬の價を取事十八銭に過ぎず。盖世の中の醫の勢利に赴き、慾に務むる者を折く。於此翁の清情なる事、十方に聽へ、漸々に諸州の領主に召るゝ事すくなからず。其頃或諸侯何某の君病痾ましましけるが、其臣下兼て徳本の良醫なる事を知らるれば、則徳本翁の診治を伝達し奉らる。因って命じて翁を召さる。徳本翁此時に百十有餘才、例の如く頸に袋を掛、牛に踞(のり)、ゆふゆふと東都に到る。厳々廣々として尊むべき錦殿に、麁服を不耻登り、一診を許されて後、便(すなわち)峻(はげし)き劑(くすり)欲(ほっす)上(たてまつらんを)衆醫其麁忽を論じて不背(がてんせず)、時に徳本翁は少しも憚らず、衆醫に対して其可否も辨ず。其君又戦国を経玉ひし勇壮の仁君、聴明にして疑念ましますれば、決断速かに翁の良醫なる事を信じ玉ひ、薬を調進なさしめられ、御服薬数日ならずして、功を奏し、御全快ましましければ、賞を賜ふ事尤も厚し。されども徳本翁は、固く辞し奉り之を不レ受、帰るに及んで薬の價一服十八銭の定めを以て政府に乞請瓢然として立去ぬ。於レ是翁の聲名天下に高く、是を慕ふて門人となる者数十人、其中にしも馬場徳寛、今井徳山の二人、殊更に醫業を励み、翁の禁方を受たりとぞ。猶翁の醫療に付て、古今希代の妙説あり。ことごとく次編に記す。徳本傳の再記には、於竹大日如来の因縁等、希代の話ありて面白し。
18、つみの御牧
燕居雑誌(日尾荊山)
かげろふの日記、御堂道長の長歌に、
かひなきことは甲斐の国、つみの御牧あるゝ駒のいかでか 人は影とめむ、と思ふ者からたらちねの云々、坂仲文が解環には、かひの国みつの御牧と直して、さて其説に、みつの御牧原本「つみ」とあり、契本に「つ」を「へ」と直して、和名抄甲斐国巨摩郡逸見郷を引り。今は則原本の「つみ」を倒せしと見て、昔より歌に詠馴し、小笠原美豆の御牧の義にとれり。且は原のまゝを倒して「みつ」とよまるまれば也。そのうへ六帖の歌、
小笠原美豆のみ牧に荒る駒もとればぞ馴るゝ子等が袖はも とあり。今は其意をとりて可ならむか。され共藻鹽草を関するに、顕昭が説にも、忠岑が十體にも、小笠原は甲斐の国なり。「みつ御牧は山城国淀の渡り也」。しかれども證歌には、「小笠原へみのみまき」と侍り。能因歌枕に「へみの御牧」とは、蛇に似たる色の麻の生ずる故にと。然るを堀河院百首に、顕仲が春雨の歌に、「小笠原みつのみまき」と詠みたり。是僻事歟云々。
古よりこれらの説あるにより、契沖は且き本義を正さむ為に、「へみ」に直されたらむなり。又契本の内一本に、六帖の歌を引けるも「へみ」とあり。流布の六帖誤多きものなれば、今の印本をも直して引かれしにや、されど原本に依て再案ずるに、沖にしたがへば何れの僻字の、へに取ても點畫の形最遠し、
「つみ」を打かへせば「みつ」なり。且本義にあらず共、詠習ひたるままに、詠むことも、昔より其例なきにしも非るべければ、此長歌を公の詠れしをり。何れに付かれたるも、今には計りがたけむ。今原本を直すの少きにとり、又は本義には背くとも、詩の和順なるによりて、姑く余が思のまゝに直せし、今此二説を挙置きれば、読人の好む方にしたがひ給ひなむと云れたり。瑜案ずるに、仲文此「つみ」の僻字の「へ」に取ても、點畫の形いと遠しとて、契沖師の定めしをさへに疑ひて、顕昭が僻心得をし、歌を徴にして打ちかへしたるぞ可咲き。こは原来「へみのみまき」なる事、和名抄にいへる如く、疑ふべきことに非ず。又「つ」と「へ」まがふべきも、いちじろき僻字あるをば知らでや有けむ。こはまさしく倍の草體□により誤て□と成りたる者也。萬葉にしきたへを敷多倍、とこしへを常之倍などの類あぐるに暇なし。此僻字だに知らずして、契沖を疑ひしは、いと鳴呼ならずや。
19、目黒の餅花 骨董集(岩瀬京傳)
昔目黒不動尊の門前にて、ごふくの餅といふを売るもとはお福の餅なるを、呉服のもちとあやまれりと、云々
『江戸八百韻』延宝六年板
前句 ちゃうらかす風よりつの瀧の音 青雲
附句 目黒の原の犬がとびつく 来雪(山口素堂)
20、提灯 骨董集(岩瀬京傳)
『甲陽軍艦』巻之一、永禄元年の令に、
不断不レ可燃二挑灯一とあり。云々
一、赤染衛門の古墳 宮川舎漫筆(宮川政運)
爰に奥田某といえる者、天明年中(1781〜1789)甲州に勤ごとありし折、甲州韮崎、扨(さて)寺の名も忘れたり。右脇堂の所に苔むしたる古墳あり。其頃中門建立の、右の古墳を取拂わんとせし前夜、住僧の夢に、夫人来り、此塚を取こぼつ事を歎き、一ひらの短冊を置と夢見しが、目覚めて見れば、古きたんざき枕のもとに残れり。取り上げて見れば、
なき跡のしるしとなれば其儘に
とはれずとても有てしもかな
右ゆへ古墳は其儘にて中門をば塚の脇の方に寄せて建しといふ。右の短冊奥田方へ持参りしかば、奥田より古筆に出さし處、赤染衛門の筆よし。珍しき事共なり。この一條は奥田の一家のもの、予がむつみし長崎氏の物語なり。
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