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21、甲斐国都留郡の縫之丞のこと 閑田次集(伴 蒿蹊) 享和二年(1802)十二月の末つかた、甲斐国都留郡小明見村の民縫之丞なるもの、其隣人の黄疸に悩みけるを、両親ふかく悲しみ、又代るべき兄弟もなければ、いかにもして病を癒しめんとおもふに、蜆は此病の良薬ときけば、もとめて給はれとたのまれて、三十里を経て、駿河の原よし原まで来るしに、年の終りなれば、さしもの街道も往来まれなるに、さるべき武士共二三人計具したるが、遙先に見えたれば、追付んと急ぎ、尿(ゆり)しながら行けるを、彼士見咎て、いかなる者ぞととふ、農民なりしとこたへしに、いか農民ならば大路に尿すべからず、畑ならば麦を養ふべし。道の傍ならば草肥えて秣によからん、大路にて穢を人に及ぼすべしやといはれて恥入、唯大人に追付まゐらんといしぎての仕業なりと侘ぬ。さて背に負けたる薦包は何ぞととふに、しかじかのよしを答へて、此比海荒て、やうやう此ほとりまで一升を得て負たるなりといへば、さる病に一升ばかりにては足じ、江戸に行て求むべし。いざつれ行んといへれば、故郷よりここ迄遙なり。また是より江戸まで、四十里をへてはいかゞはせん、年せまりて帰ることを急よしいふ。さらばわれ江戸に帰らば、速におうるべしと、其郷里荘官の名まで委しくとひきく、こはいかなる御方ぞととへば、それはいふに及ばずとて、沼津駅にて別ぬ。
其年は暮てあくる正月、病者は病おもりて十日に終りぬれば、野辺に送り、翌日僧に請じ齋行ひける折から、所の長のもとへ薦に包たるもの、江戸芝よりと計記して、甲斐国都留郡小明見村庄屋仁兵衛といふ札をさし、谷村といふ所の官所より送り、其便は谷村より小明見までの賃をとりて帰りぬ。
開きて見れば 蜆(しじみ)なり一首の歌有り、
見もしらぬ山のおくへも心だに
とどかば病癒ぬべらなり
仁兵衛其故をしらず、親に付て縫之丞を呼て、そのよしを聞きゝ感に堪ず。彼齋の所へ持行、士の志を牌前へ供しぬ。夫より皆志をたうとがりて、江戸芝といふたよりに、尋けれどもそれぬば、せんかたなきに、あるもの此士歌を添られしかば、何にても歌を勧進して、芝明神の社に捧げ、せめて其志しに報ぜんとはかりけるとぞ。同国の一老僧、此ごろ語りき。
22、社中と云事 《文化三年板》 鳴呼矣草(田宮仲宜)
山口素堂
社中と云事、此頃俳諧者流の徒これをいえり。社中と云は、廬山の恵遠法師、庭際の盆地に白蓮を植て、その舎を白蓮社と云。劉遣民雷次宗宗炳等の十八人、集会して交をなす。これを十八蓮社といふ。謝靈運、その社に入んことを乞ふ。恵遠い謝靈運が心雑なるを以、交わりゆるさず。斯る潔白なる交友の集会をなさしより、蓮社の交と云。然るに芭蕉の友人山口素堂師、致仕の後深川の別荘に池を穿、白蓮を植て交友を集、蓮社に擬せられしより、俳諧道専ら社中と云事流行しぬ。夫遠師は、謝靈運をだに社に入る事許されず。然るに今の社中、旦(あした)にには断金をとなへて、夕に冠讐のごとく、反復常ならず。呉越と隔ることを梭をなぐる間のごときも嘆かはし。嗟々俳諧は狎て和せざるの道なり。
23、武野紹鴎(でうおう) 鳴呼矣草(田宮仲宜)
武田印旛守仲村は、武田信光の裔なり。退隠して武野紹鴎と云へり。家宅は戎の社に隣し故、大黒庵と自称す。其滑藝見つべし。
24、奇人(かたわ) 齋諧俗談(大朏東華)
相傳へて云、甲斐の武田信玄の家臣山形三郎兵衛は兎唇なり。山本勘助といふ人は眇(すがめ)なり。云々
25、孫子旗 昆陽漫談(青木昆陽)
甲州萩原村雲峯寺に、武田信玄の孫子の旗あり。その旗左の如し。
孫子の旗長さ壹丈壹尺六寸、幅二尺三寸。疾如レ風。徐如レ林。 侵掠如レ火。不レ動如レ山。と云ふ文字ありて、紺地文字金銀なり。
諏訪法性の旗、長さ壹丈三尺五寸、幅尺五寸、南無諏訪南宮法性上下大明神の文字あり。赤地文金銀なり。日丸花菱の旗もあり。赤地。紋黒。
26、賜一字 昆陽漫談(青木昆陽)
先年甲州よ出だせる書に、一字を賜ふときの書あり。其文左の如く。
實 名
君 好
天正四年丙子七月六日 信君 判
これは武田信君と云へり。
27、甲州金 昆陽漫談(青木昆陽)
老人曰く、古き甲州金に竹流し金、六角極印小判あり。
竹流し金長さ二十七八分、横八分ほど、厚さ中にて三分ほど、縁にて一分ほど、長きは幅狭く、短きは幅廣し。重さ四十目十両と云ひて通用す。形圖の如し。中の極印は極の字、上下の極印は見えがたし。
鳥目金重さ一匁一分と云ひて通用す。極印なし形図の如し。 極 極
極
印 印
六角極印小判重さ四匁。形圖の如し。
上の六角打ちに桐あり。下の六角の内に菊あり。裏極印なし。
甲州金、甲州略記に載すれども、其後此説を聞くゆへ、これらを記す。その三金いまだ見ず。
28、、川口湖 昆陽漫談(青木昆陽)
三代実録に云く、貞観六年七月、甲斐国言。駿河国富士大山忽有二暴火一。焼二碎崗巒一。草木焦熱。土鑠石流。埋二八代郡本栖并セ両水海。水熱如レ湯。魚鼈皆死。百姓居宅與レ海共埋。或有レ宅無レ人。其数難レ記。両海以亦有二水海一。火焔赴向二河口海本栖セ海一。未二焼埋一之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難レ辨。然後有二此災異一焉ト。
これにて見れば、富士山の焼くる時は、砂ありて人家を埋めきと見ゆ。さて今も川口村に湖水あり。古の河口海なるべし。元文元年(1736)敦書命を蒙りて、甲州を行り、古書を求むる時、勝山村より河口湖を舟にて、川口村へ渡る。一里ありと云ふ。此湖水水落なく、伏水にて一里ほど脇へ。水ふき出ずるなり。
29、石和 昆陽漫談(青木昆陽)
甲州の石和(いさわ)を倭名鈔に石禾(いさわ)と言ひがたきゆへ、古より石禾と云ふと見へたり。
30、甲斐之字義 南嶺遺稿(多田義俊)
かひがねといふは、山のするどく立て、諸山に勝れ目立たるみねをいふ。山のかひより見ゆる白雲などよむも、絶頂にあるしら雲なり。甲州はするどく高き山多き故、かひの国といへりとぞ。或人の仰られしにつきて、よくおもへば、俗語に甲斐甲斐敷といふ詞有。又かひなきといふ詞有。甲斐々々しきは、しかと其功の見えたるを、山の高く見えたるに准らへ、甲斐なきは功もなきといふ心なるべし。植松宗南といへるは、甲斐産れの人にて、此人の語に、甲斐の国は、諸国に勝れて木の實のよき国なりといふ。斐の字、このみとよます字なり。夫故、斐にかうたりといふ心にて、甲斐の国と號(なづく)。甲たるは第一たるの心なりとぞ。むかし斐(このみ)仲太といふものありし事、宇治拾遺に見えたりと覚し也。斐(ひ)たる君子ありと、詩経にあるも、其實有る君子也。論語に、斐然成レ一章(ひぜんとしてなすしょうを)をも、其實を備へて、しかと文章を成なりと心得べし。
山のかひといふも、此心得にてよむべきか。
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