さぶやんの”山梨歴史ジャーナル"

山梨は歴史・伝説・民話のふるさとです。

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  52、甲陽軍艦抄   一話一言(大田南畝)

 晴信公軍中にて御使の衆十二人はむかでの指物しないなり白地にては黒地に金にても面々覚悟次等此十二人はいくさの時の御使衆成り〔第二十九品〕加藤駿河末の子他名になり初鹿ノ傳右衛門指物に香車と云字を書たるに信玄公御無與なされ候〔第三十五品〕氏康公くしま上総子に相州玉縄の城を被下北条左衛門大夫武道のために八幡の縁日潔齋する故か武功の誉度々にをいてあり既に指物はきねりの四方に八幡大菩薩とかきて氏康公の先をいたす氏康河越夜軍の御手柄も此左衛門大夫河越の城にこもりゐて菅領八萬あまりの人数を引請城をおとされざる故氏康公利運にならさるに付北条左衛門大夫を関八州にて黄八幡と
申也云々〔第三十六品〕紺紙金泥の法華經の母衣を被成指物にて〔第三十八品〕此矢島久左衛門は蓑輪落城の時長野衆なるが白き練をもってわっこの梯(のぼりばし)を指物にして〔第三十七品 〕 一、武田信玄の事    一話一言(大田南畝) 武田信玄禅家の小僧に行あひて、地ごく極楽はいづくぞと問給へば、くそくらへと申ける。信玄色をちがへてにくき悪口のものかなといましめ給へば、是ぢごくとこたふ、信玄又刀をぬき小僧にさしつけいけるかも死せる物かと問給へば、死せるものと答、ふりあげてうたんとしたまへばにげさりていひけるは、めいわづかの内にありといへり。

 53、甲斐国山梨郡磬銘 一話一言(大田南畝)   遠山(按に鹽山の事歟)
  
  磬 銘
  紹與貳拾捌年四月十日經明州都税務刊字訖合於丙申淳熙参拾貳月拾五日重新才造幹置童祖顔祖義與合山童行等謹題

 54、八宮御文 一話一言(大田南畝) 

 甲州河浦村薬王寺八宮様御文
ゆうふべは御出これはさてなにと鳴海潟しだれ柳の葉の露おちて淵となるまで御身に添はで名残おしきはふじの山はたちばかりかぞへてもたらずかたるまもなつの夜山郭公はつねに戀しや    み や け
八兵衛
   はつもし様
 
 55、當時碁名人名   一話一言(大田南畝) 

 三段 渡辺多宮  三段 石原八十八
 
 56、勝頼滅亡記   一話一言(大田南畝)
 武田勝頼滅亡記一冊 甲州柏
尾山理慶比丘尼著〔柏尾山は勝沼に近き所あり〕
 右同人甲州より写来て示す。実録にして甲陽軍艦等にのする所異也。
 
 57、義士絶纓書〔再三考之〕   一話一言(大田南畝)

 惣而良雄(大石)ガ為レ人温寛ニシテ度量アリ、剛毅ニシテ沈勇ナリ、曾テ小幡景憲ノ流ヲクミテ武田ノ淵流源新羅公ノ兵法ニ通暁セリ、然而赤穂ノ城壘ハ、小幡景憲ノ門生混同三郎左衛門ガ築城ノ法ヲ用ヒ、山本道鬼ガ小圓ノ規矩ニ合テ築ル城ト云々。

 58、義光   一話一言(大田南畝)
 義光甲斐源氏之祖也。
佐竹・逸見・武田・小笠原・加々美・秋山・平賀・大内・南部等の源氏是より出。

 59、津金氏古文書   一話一言(大田南畝)

 新羅三郎三代佐竹信濃守昌義が後胤対馬守某甲斐国巨摩郡津金村に住せしより家号として津金也。
   武蔵国榛澤郡田中村四百三拾石壹斗勅使
   河原村百三拾石九斗以上五百六拾壹石此外
   〔百九十石両村開発地〕合七百五拾壹石事令扶助の畢
   全可知行者也
寛永二年
 七月廿七日○御朱印
  津金助之進とのへ
 甲州津金郷貳拾文  根羽樫山共五貫文 矢戸分八貫文
 蔵出八貫文    信州機郷百貫文 同市淵郷三拾貫文 上州下高田貳拾貫文 清水宮内右衛門分壹貫百文〔玄徳齋知行分〕 三蔵郷五拾貫文 同分比志郷拾三貫文〔玄徳齋知行分〕  以上新知行事
 右所充宛行不可相違然は預置足軽十人以此内可令扶持者也仍 如件
  天正十年  安 部 善 九
   九月九日  山 本 帯 刀
御朱印    奉之
   定 
 一、両三人と申組者共之妻子被官何方へ取候共可返付事
 一、津金之郷男女牛馬一切不可返付事
 一、境目之者共今度□付而者恩賞之地可宛行之事
   右何茂不可有相違状如件
  天正十年  安 部 善 九
   九月廿四日  山 本 帯 刀
   奉之
 小池筑前守殿  
 津金修理介殿
 中尾監物丞殿
 
 

 45、江島生島事件(秋元但馬守)  一話一言(大田南畝)

 松平保山〔大老・柳沢吉保〕御咄に荻生総右衛門申候由秋元但馬守様は御上御四代の御執政被成終に何の御しおちもなく名人と呼られし候に今度江島殿御詮議はおかどちがひと奉存候其子細は周禮と申天子の役筋を書候書に宮中の官女の姦犯の罪をさばきには物静なる物かげにてひそかに糺明するものと見へ申候其上女の科は天下へ掛りたる謀叛がましき事は先に希に候多は先に色情までの事にて候此年九月は秋元侯には御死去可被成候そのわけは年久しくあやまちなき御政事になれ給ひたる御事なれば此度の評定さはき(裁き)大造過たる事は必御後悔可有候さりながら夏のうちは陽分にて候へば人の気も淋しからぬ時なればさして御病気も出まじく候九月は肅殺の頃なれば此時に至りて数十年の勤労も出此度の御後悔も出會て御病気つかれ候はゝ御平癒有まじくといひたる総右衛門はじめ御はなし申たる時うらや算にては有まじとて果してその九月御死ありしを安藤仁右衛門かたりき候。云々

 46、喧嘩傘(武田信玄の冑)   一話一言(大田南畝)

 是は武田信玄の家にて號する冑(かぶと)の名なり、天草島原両日記は松平伊豆守信綱の嫡子甲斐守信綱の記されし記録也、予所持なす所也、其日記に
 四日大磯 小幡勘兵衛景憲遂行自江戸来賜ル冑一首於武田信玄號喧嘩笠。
 

 47、阿福傳   一話一言(大田南畝)
 阿福。甲州都留郡忍草村庶女也。家世仕於村民五郎右衛門者。有恩舊。不幸蚤喪夫。獨撫遣孤。事主癒謹。誓而不更志。以貞純稱焉。五郎右衛門。世業農桑。頗豪于閭里。中年患癩。資斧耗於巫醫。且亡妻。獨餘孩兒于襁褓。煢々形影相吊。於是世族奴卑。皆棄而不顧。唯阿福留而不去。竭力供給。一夕人定鐘。詣山神祠。號泣悲求資冥助而救主病。忽然風雨震雷。大木顛于側。阿福神色不撓。黙祷自若。須 天霽斗皎。 氛自消。邦俗毎月念三夜。香燭不寐。以祈天佑。阿福嘗當季冬廿三夜。候主就寝。竊出祓浴深渓。因端坐水心。以遅月出。寒水噛腋。霜雪襯肌。神色不撓。黙祷自若。凡所以祈以身代主。發於懇誠惻恒。無所不至。既而主病彌留不寐。加之遭歳不易。田園盡沒于息。宝如懸磬。莫所依頼。先是遺孤稍長。名六右衛門。鬻身於峡南八代郡末木村遂家焉。於是阿福背負病主。手挈幼主。艱苦跋渉。遠寄末木村。結一蝸慮寓之。毎晨夙炊。躬出傭作隣里。晝間少暇。電奔□存数次。至夜伏侍牀頭。以軟語慰愉其心。祁寒以躯煦其足。暑日負就美蔭清之。宵間以代竹 □。徹明不懈。以為常。會出得一食獲尺帛。持帰奉主。己則糟糠不厭。鵠衣不属。行年五十有八。未嘗稍老。動作自若也。主嘗欲使兒學書。而憂匱楮筆。阿福日夜倍緜。購而得之。須之主又自語曰。文房諸友粗具。獨奈缺几案何。阿福乃托工匠造一卓子。為之賃傭。以讎其價。凡所願欲。多方營辨。以適其志。皆類此。六右衛門性朴素廉直。非其力不食不衣。力養積年。以孝聞焉。其妻亦能事夫姑。是以雖貧擧家敦睦。无些間言。此来父老里正等。具状告官。懸尹武島氏遣吏驗覈。私領俸金。賞賚天明戊申春二月既望也。里人源子謙見余于櫻水藩邸。審語始末。且請余為著小傳以公世。余聞之慨然而嘆曰。鳴呼僻邑庶賎之女。目無丁宇。非有諷誦教訓之素。而秉彜良心。發於天眞。一失所天。不曰人皆夫。知有主而忘其可不請盛事哉。實風教之所関係。不可以不文而固辭。因敍梗慨。應需如此。
前肥佐喜後學鶴山石有撰
  甲州人志村禮助忠女傳を著す。

 48、蓬莱   一話一言(大田南畝)

 およそ日本にて蓬莱と稍する所多し。或熊野、日本僧傳の説、或曰富士、義楚六帖富士縁起の説。或曰熱田、曉月集瓊華集の説、或曰加賀白山、日本霊異記の説。或摂津住吉、六家抄注説。或曰伊予三島、椽樟記の説。むかし蓬莱方丈瀛洲の三島うかび出たる故に號す。或曰安芸厳島、源平盛衰記高倉帝願文の説。或曰在二丹後国一、丹後地志の説。云々

 49、鶴郡鶴羽記   一話一言(大田南畝)

 鶴郡属峡中。乃在富士嶽之北。當初人王第七世。孝霊帝七十二年。秦始皇遣徐福。發童男女数十人。入海求仙。其所謂蓬莱者。盖吾富士嶽是也。徐福既至。而知秦之将亂也。留而不帰。遂死于此矣。後有三鶴。盖福等魂之所化云。其鶴常在於郡。故名焉。郡分上下二郷。上者曰大原庄。下者曰羽置庄。又有九山八湖。皆仙境也。元禄十一年春三月二十九日。一鶴死於大原。吉田村之民以白官。官遣川井渡部二吏 看之。以其肉之両翼献東都。葬其骨於村之福源寺。謚曰浄鶴。客歳寛政甲寅春三月。雙鶴下吉田村。自以觜抜羽。翩翩乎如白蓮之墜落。犬群吠之。人集觀之。則聯翩沖天去。而不複下。後遍求諸九山八湖之間。遂失其所在。盖登仙去耳。今歳卯春正月。州之等力村萬福寺主得其一羽。以珍之。請之記。予聞晉太元中。武陵漁者入桃源。蓬避秦人。傳以為奇事也。然而重往。則遂迷不複得。亦蕉鹿之夢哉。今秦人之所化鶴。亦雖既登仙去。而不可複見。其羽依然而存。則實是奇事。實是奇物。豈可不珍焉乎。豈可不記焉乎。寛政乙卯夏六月甲辰 黒浦霊松龍菴義端撰
 右之記及甲州等力村萬福寺主三車上人携来
 
 50、甲府宰相殿御加増   一話一言(大田南畝)  

 寛文年中日帳写 寛文十戌年六月十日
 甲府宰相殿へ三千石づゝの御加増にて岡野長十郎戸田作右衛門両人被進候。

 51、白石書簡   一話一言(大田南畝) 

 大久保半五郎様  新井筑後守
 先日考被思食御芳訊忝奉存其後御近所過候事有之候へ共御約束に任せわざと不申入候き其後又満次郎様御出被下久々にて得御意候騒然その日は内容有之故に満々とも不申承千萬御残多次第候其節に御物語被成候閑家之系図御携御惜し被下熟覧候此方にて先年古文書のまゝにて見候時にうつしとめ候ものと考合候に系図の詞書符合候事もなく不審のものに候御心得のためにもと存候故に手前にうつしとめ候うち要文共少々うつし進し候御覧合せらるべく候甲州にて後閑の地を宛行はれ候よりして後閑と改めそのゝちまた上条とも稍せられ候事かと見へ候當時も後閑と申す地定めて可有之廐橋邊かいづれの郡に属し候やらむ此流はいかにも京兆家にて永禄の初年に本領を失はれしと見へ候彼本領は甲州より小幡に宛行られしと見へ候へば甲州の為に本領うしなひ降参の事に候ひしがまた北条家のために本領うしなひ候て甲州へ降参候又そのゝち北条へ属せられ候やらむ後閑の地までうしなはれ候はたしかに天正十八年北条亡ひ候時の事と見へ候本家にて古文書の終りと永禄の初年までとの間は三四代ほどの間にも可之候やらむよく御考御覧可被成候。
 御物語の西上野の寺尾の地の郡はいかに寺の名いかに候歟秋元鳴瀬と同返候月齋家譜はわすれ候いつにても御次手に御書付可被下候。
 満次郎殿いまだ御滞留に候はゞよろしく奉頼候桃井の家系の事被仰候き御帰郷之後御心がけ被下候様に申上度後閑系図即今返上候條御傳達可被下候此使は詰所へつかはし候故に御報を申請候に及ばず御取次にたしかに預置罷帰候へと申付候間不及御既報候以上
 正月十五日
  右得高橋氏所蔵写の府中
   寛政戊午年正月念八    杏花園叟
 

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 31、一、武田番匠   秉穂録(岡田挺之)
 通志に、今之庸俗以ク船輸善揄レ材。凡古屋壮麗ナル者、皆曰魯船造ルト。殊不レ知、船為二何代之人一と、此士にも、飛騨の工、武田番匠が建たるといふ事多し。似たる事なり。

 32、甲州升   秉穂録(岡田挺之)
 甲州にては、京ます三升をもて一升とす。金は一分判、二朱判、一朱判、しなか判、四種あり。其形圓なり。一分は銀十二、匁にあたる。今、諸国通用の金銀に比するに、銀一匁五分は、甲銀一匁にあたる。

 33、御茶壺  嘉良喜随筆(山口幸充)
 公儀の御茶壺は、宇治を出る晩か、社山一宿木曾路を御通、下諏訪より甲州に入、土用の二日ほど前に天目山下へゆき着を程にて直に山上に預ける。云々

 34、悪瘡解  嘉良喜随筆(山口幸充) (前略)
 右論弁甲斐国小笠原住人大醫法眼柿本之述作也、門弟親聴謹書二諸冊後一。

 35、近衛殿姫甲府へ御祝言の道具の内、  嘉良喜随筆(山口幸充)
  衣架、机帳、鏡、二階棚、二階、火取、□(ハンサウ)、 香辛、硯、料紙箱、筆持セ、亂箱モ木地、見臺
 (各説明、図有り)
  近衛殿姫君、甲府ヘ婚礼ノ時、品川ヘ御着ト、公方ヨリ乗
物並傘ヲ遣サル。江戸入ノ時、右ノ傘ヲ乗物ノ上ニサシカクル。云々

 36、穴山梅雪  嘉良喜随筆(山口幸充)
 (前略)扨穴山梅雪ハ、勝頼ヲ叛テ家康公ヘ與シ、甲府ヘノ手引ヲセント云、夫ヨヲ信長御聞、穴山ガ分ニテ無二覚束一トテ承引ナシ。モハヤ甲府ヘハ不レ被レ帰シテ、家康公ヲタノミツキ従ヒ、堺ヨリ牧方迄御出、横ニ御キレ、八幡ノ南海道ヘ御通ノ時、穴山コト家康公ヲ疑ヒ殺サンカト思ヒ、跡ニ下ル時ニ、庄屋モ子ヲ案内ニツルル。此子銀ツバヲサス。関東者ニテムゴキ者ドモニテ、穴山ガ下人是ヲ殺シテ鍔ヲトレリ。此子供ノデツチアリテ、主ヲ殺タヲミテ、イバラグロヲクゝリテ家ニ帰リ是ヲ告グ。一在所一揆ヲ起シテ穴山ヲ殺ス。此内ニ家康公ハ、ハヤ草内ノ渡ヲ御越也。此渡ヲ御越ナクバ、家康公モ危カラント也。 

 37、甲州判    嘉良喜随筆(山口幸充)
 扨甲州判ト云ハ、関東ハ古ヨリ金子ノトリカヒナリ、上古ハスナガネニテ、交易、コレヲ砂金ト云、信玄ノ時領内ニハ甲州判ト云ヲ拵ユ。云、是ハ金ヲ銀子ノ豆板ノ如ニシテ、二部三分一匁二匁マデ段々アリ。其後家康公駿河州判ニ御座ノ時、今ノ一歩出来テ、甲州判は止ヌ。

 38、新羅義光   烹雑の記(滝沢馬琴)
 鳥羽天皇の天仁元年戊子春二月、源ノ朝臣義綱を、佐渡国へ流す。舎弟義光に誣(しひ)られ、無実の罪を得たればなり。

 39、信玄碁石金   茅窓漫録(茅原定)
 (前略)甲州には信玄碁石金といふあり。一分金は碁石金に傚(ならう)にやあるべし云々。〔割注〕碁石金は甲陽軍艦に出たり。圖録に露金を出し、此ノ類なるべしといへり。圓形なり。 一、 古竹   耽奇漫録(瀧沢馬琴) 甲州八代郡上曽根村農家河野吉右衛門云々。
  図 録

 40、圓 鎖 
  図 録

 41、珍奇筐目録   一話一言(大田南畝)
 第一筐  甲州身延山七面山御池の土
  々   甲州地蔵嶽団子石
 第三筐  甲州石中玉

 42、松平西福寺   一話一言(大田南畝)
 浅草西福寺、此寺の本願良雲院殿を此所に葬し奉りぬ。その因縁にて公儀御由緒あつきよし色々申立剰太神君及台徳尊公良雲院尼の御影を拝させたり、予も四月三日かの寺へ参詣して拝せり、此良雲院殿は武田萬千代信吉君の御母堂にて、武田信玄の女たる様にかの寺僧ども本尊開帳の節靈寳の席にて申立る也。 予於心中甚不審をこるによりて、大久保忠寄にかたらひかの實否を分明せん事を欲す。忠寄諸録を引考左の一帖を授與あり、因て其所以分明を得たり。
  良雲院殿天譽壽清大姉
   寛永十四年丁丑三月十二日卒去葬浅草西福寺
 附札寫州葬所入口の門の上に浅野家の紋ありと覚え候今に浅野家の崇敬もある歟右良雲院殿と申すは大神君の御妾にて、市川十郎右衛門女也、此良雲院一女を産し給ふ、此姫君蒲生秀行の室とならせ給ひ、後に浅野但馬守長晟に嫁し給ひたりと云々、左あれば竹田萬千代は良雲院殿の参し給ひたるにあらず。
  長慶院殿〔或〕妙眞院日上
   天正十九辛仰年十月六日卒去
 水戸光国卿賜造建碑下総国葛飾郡小金邑今にあり、かの碑の文に、か下総国葛飾郡小金邑の采地にて病卒也、葬二于郡之本土教寺一 云々 日蓮宗身延山檀越也、法名號妙眞院日上とあり、且かの墳上に一松あり、土人呼曰日上松とみへたり。

 43、いぐち   一話一言(大田南畝)
 缺唇に勇士ありといふ事をかたる人の曰、(中略)武田信玄に山懸三郎兵衛昌景(中略)いぐちなり、いつれも大剛の士也。一、中世分銭の法   一話一言(大田南畝) 中世分銭の法何貫文といふは天正の石なをし、東国は一貫九石にあたる、天文の頃三州辺は一貫文十石にれたる、天文十九年天野賢景三州大浜にて五十貫文の采地総領納得五百石の地なり、其後東海道五貫文百石ならし也。甲州辺は少し漸一貫文四五石にあたると云々 甲陽軍艦などは千貫は一萬貫石なり、云々

 44、秋山源蔵   一話一言(大田南畝)
 秋山源蔵〔天正十年三月十二日〕甲州田野にて武田勝頼公の御供にて討死の時、辞世の句、 春散て秋山の實はなかりけり

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21、甲斐国都留郡の縫之丞のこと  閑田次集(伴 蒿蹊) 享和二年(1802)十二月の末つかた、甲斐国都留郡小明見村の民縫之丞なるもの、其隣人の黄疸に悩みけるを、両親ふかく悲しみ、又代るべき兄弟もなければ、いかにもして病を癒しめんとおもふに、蜆は此病の良薬ときけば、もとめて給はれとたのまれて、三十里を経て、駿河の原よし原まで来るしに、年の終りなれば、さしもの街道も往来まれなるに、さるべき武士共二三人計具したるが、遙先に見えたれば、追付んと急ぎ、尿(ゆり)しながら行けるを、彼士見咎て、いかなる者ぞととふ、農民なりしとこたへしに、いか農民ならば大路に尿すべからず、畑ならば麦を養ふべし。道の傍ならば草肥えて秣によからん、大路にて穢を人に及ぼすべしやといはれて恥入、唯大人に追付まゐらんといしぎての仕業なりと侘ぬ。さて背に負けたる薦包は何ぞととふに、しかじかのよしを答へて、此比海荒て、やうやう此ほとりまで一升を得て負たるなりといへば、さる病に一升ばかりにては足じ、江戸に行て求むべし。いざつれ行んといへれば、故郷よりここ迄遙なり。また是より江戸まで、四十里をへてはいかゞはせん、年せまりて帰ることを急よしいふ。さらばわれ江戸に帰らば、速におうるべしと、其郷里荘官の名まで委しくとひきく、こはいかなる御方ぞととへば、それはいふに及ばずとて、沼津駅にて別ぬ。
 其年は暮てあくる正月、病者は病おもりて十日に終りぬれば、野辺に送り、翌日僧に請じ齋行ひける折から、所の長のもとへ薦に包たるもの、江戸芝よりと計記して、甲斐国都留郡小明見村庄屋仁兵衛といふ札をさし、谷村といふ所の官所より送り、其便は谷村より小明見までの賃をとりて帰りぬ。
 開きて見れば 蜆(しじみ)なり一首の歌有り、
   見もしらぬ山のおくへも心だに
   とどかば病癒ぬべらなり
 仁兵衛其故をしらず、親に付て縫之丞を呼て、そのよしを聞きゝ感に堪ず。彼齋の所へ持行、士の志を牌前へ供しぬ。夫より皆志をたうとがりて、江戸芝といふたよりに、尋けれどもそれぬば、せんかたなきに、あるもの此士歌を添られしかば、何にても歌を勧進して、芝明神の社に捧げ、せめて其志しに報ぜんとはかりけるとぞ。同国の一老僧、此ごろ語りき。
 
22、社中と云事  《文化三年板》 鳴呼矣草(田宮仲宜)
  山口素堂
 社中と云事、此頃俳諧者流の徒これをいえり。社中と云は、廬山の恵遠法師、庭際の盆地に白蓮を植て、その舎を白蓮社と云。劉遣民雷次宗宗炳等の十八人、集会して交をなす。これを十八蓮社といふ。謝靈運、その社に入んことを乞ふ。恵遠い謝靈運が心雑なるを以、交わりゆるさず。斯る潔白なる交友の集会をなさしより、蓮社の交と云。然るに芭蕉の友人山口素堂師、致仕の後深川の別荘に池を穿、白蓮を植て交友を集、蓮社に擬せられしより、俳諧道専ら社中と云事流行しぬ。夫遠師は、謝靈運をだに社に入る事許されず。然るに今の社中、旦(あした)にには断金をとなへて、夕に冠讐のごとく、反復常ならず。呉越と隔ることを梭をなぐる間のごときも嘆かはし。嗟々俳諧は狎て和せざるの道なり。

 23、武野紹鴎(でうおう) 鳴呼矣草(田宮仲宜)
 武田印旛守仲村は、武田信光の裔なり。退隠して武野紹鴎と云へり。家宅は戎の社に隣し故、大黒庵と自称す。其滑藝見つべし。

 24、奇人(かたわ)   齋諧俗談(大朏東華)
 相傳へて云、甲斐の武田信玄の家臣山形三郎兵衛は兎唇なり。山本勘助といふ人は眇(すがめ)なり。云々

 25、孫子旗   昆陽漫談(青木昆陽)
 甲州萩原村雲峯寺に、武田信玄の孫子の旗あり。その旗左の如し。
 孫子の旗長さ壹丈壹尺六寸、幅二尺三寸。疾如レ風。徐如レ林。 侵掠如レ火。不レ動如レ山。と云ふ文字ありて、紺地文字金銀なり。   
 諏訪法性の旗、長さ壹丈三尺五寸、幅尺五寸、南無諏訪南宮法性上下大明神の文字あり。赤地文金銀なり。日丸花菱の旗もあり。赤地。紋黒。

 26、賜一字   昆陽漫談(青木昆陽)
 先年甲州よ出だせる書に、一字を賜ふときの書あり。其文左の如く。
   實 名
  君 好 
  天正四年丙子七月六日   信君 判
 これは武田信君と云へり。

 27、甲州金   昆陽漫談(青木昆陽)
 老人曰く、古き甲州金に竹流し金、六角極印小判あり。
 竹流し金長さ二十七八分、横八分ほど、厚さ中にて三分ほど、縁にて一分ほど、長きは幅狭く、短きは幅廣し。重さ四十目十両と云ひて通用す。形圖の如し。中の極印は極の字、上下の極印は見えがたし。
 鳥目金重さ一匁一分と云ひて通用す。極印なし形図の如し。  極 極
 極
  印 印
六角極印小判重さ四匁。形圖の如し。
上の六角打ちに桐あり。下の六角の内に菊あり。裏極印なし。
 甲州金、甲州略記に載すれども、其後此説を聞くゆへ、これらを記す。その三金いまだ見ず。

 28、、川口湖   昆陽漫談(青木昆陽)
 三代実録に云く、貞観六年七月、甲斐国言。駿河国富士大山忽有二暴火一。焼二碎崗巒一。草木焦熱。土鑠石流。埋二八代郡本栖并セ両水海。水熱如レ湯。魚鼈皆死。百姓居宅與レ海共埋。或有レ宅無レ人。其数難レ記。両海以亦有二水海一。火焔赴向二河口海本栖セ海一。未二焼埋一之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難レ辨。然後有二此災異一焉ト。
 これにて見れば、富士山の焼くる時は、砂ありて人家を埋めきと見ゆ。さて今も川口村に湖水あり。古の河口海なるべし。元文元年(1736)敦書命を蒙りて、甲州を行り、古書を求むる時、勝山村より河口湖を舟にて、川口村へ渡る。一里ありと云ふ。此湖水水落なく、伏水にて一里ほど脇へ。水ふき出ずるなり。

 29、石和   昆陽漫談(青木昆陽)
 甲州の石和(いさわ)を倭名鈔に石禾(いさわ)と言ひがたきゆへ、古より石禾と云ふと見へたり。

 30、甲斐之字義   南嶺遺稿(多田義俊)
 かひがねといふは、山のするどく立て、諸山に勝れ目立たるみねをいふ。山のかひより見ゆる白雲などよむも、絶頂にあるしら雲なり。甲州はするどく高き山多き故、かひの国といへりとぞ。或人の仰られしにつきて、よくおもへば、俗語に甲斐甲斐敷といふ詞有。又かひなきといふ詞有。甲斐々々しきは、しかと其功の見えたるを、山の高く見えたるに准らへ、甲斐なきは功もなきといふ心なるべし。植松宗南といへるは、甲斐産れの人にて、此人の語に、甲斐の国は、諸国に勝れて木の實のよき国なりといふ。斐の字、このみとよます字なり。夫故、斐にかうたりといふ心にて、甲斐の国と號(なづく)。甲たるは第一たるの心なりとぞ。むかし斐(このみ)仲太といふものありし事、宇治拾遺に見えたりと覚し也。斐(ひ)たる君子ありと、詩経にあるも、其實有る君子也。論語に、斐然成レ一章(ひぜんとしてなすしょうを)をも、其實を備へて、しかと文章を成なりと心得べし。
 山のかひといふも、此心得にてよむべきか。

 

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 11、身延山七面堂焼失 半日閑話(大田覃) 
十月十一日の夜、甲州身延山七面堂炎上、参籠の者六十人程死すといふ。
  一、惣領御番入書付 半日閑話(大田覃) 
   安永五年十二月十九日
町奉行 曲淵勝次郎 甲斐守惣領

 12、甲州米 半日閑話(大田覃) 
甲州米三斗俵は陣々え渡す兵糧三十人え壹俵宛にて、其後算用仕能積也。
 古来諸国の米壹俵五斗入、甲州辺同断之所、信玄三斗俵に計り入取廻しよしとて改めらる。

 13、角力上覧  半日閑話(大田覃)
  寛政六年甲寅四月九日   甲ケ嶽 甲斐嶽 八ツ峰
  雷電 谷風   (駒ヶ嶽

 一、下御霊社司板垣民部談  遠碧軒記(黒川道祐)
(前略)さて社家は代々春原なり(中略)これが中絶の時に甲斐の板垣信方の子、(信方は病死、子の彌次郎者為二信玄一被レ害て跡絶ゆ)同彌次郎が遣腹の子が、母とも京に流れ落て後は丹波に閑居す。この子成長して南禅寺の少林寺へ遣し、出家して正寅と云。これを室町より肝煎してをとして社司とす。これが中比の社僧寿閑の親なり。云々

 14、宝永二年二月常憲院将軍六十賀和歌 遠碧軒記(黒川道祐) この御賀に松平美濃守吉保御杖をまいらするとて、
君にいまさゝぐる杖のふしておもひ
  あふぎていのる萬世の春
 此美濃守甲斐国を給り、甲府の城へ初めてまかりまふでけるとき、
としを経て君につかふるかひがねや
  雪のふる道ふみ分てみん
 ふる道ふみ分るとよめるも、甲斐の武田餘流なるよしのあればなるべし。

 15、馬場三郎兵衛   閑憲瑣談(佐々木高貞)
 (前略)實は本国は三州、生国は甲斐にて、即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、幼名三郎次と申す者にて候、領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人、其上、大炒、長閑の両奸人、国の政道を乱し、諸氏一統疎み果候始末は、甲陽軍艦に書記(かきしるし)したる十双倍に御座候。されば□(長篠)の合戦の節も、先主以来
の侍大将ども、彼是の諫言を一向用られず、美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、甲州の住居も難レ叶、信州に母方の由緒有レ之故、玉本翫助が末子、八幡上総が甥等申合 、三人ともに、信州に引込、往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、年月を送り候所へに不レ慮難波鎌倉鉾楯にて、難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、千邑繁成が組与力となり、云々

 16、高芙蓉   蒹葭堂雑録(木村孔恭) 
煎茶に用ゆる「キビシヤウ」といへる器を、高芙蓉の検出(かんがへいだ)して大雅堂に語られしが、殊に歓びて是を同士の徒に知らしめんとて、其事を上木(じょうぼく)し弘められしとぞ。風流の親切といふべし。右次て丙子冬十月、大雅堂印施と有。この丙子(ひのえね)は宝暦六年にして、大雅山人三十四歳、高芙蓉は三十五歳の時なり。
 芙蓉は名は孟彪、字は孺皮、芙蓉はその号なり。甲州高梨の人にして、高氏なり。父を尤軒(いうげん)といひて、かって徳本氏に従ひて醫を業とす。芙蓉醫を好まず。弱冠の頃より京師に遊び書画を愛す。好事の一奇人なり。篆刻の妙絶にいたり、海内に其名を知らざるものなし。俗称後に大島逸記といふ。天明四年四月二十四日東武に没す、行年六十三歳。〈芙蓉の生年は逆算すると、没年…天明四年(1784)、  生年…享保六年(1721)の生まれとなる〉
 (図略)

 17、名醫徳本の奇事  閑憲瑣談後編(佐々木高貞)
 世に名高き甲斐の徳本は、和漢古今に珍らしき恬澹(かつだつ)の人なり。本性は長田氏、知足斎と号し、三河州大浜村の人、其先祖を知る者なく、不レ詳二所レ出一。勢利を欽(よろこば)ずして、四方に周遊し、去就任意(こころにまかせ)いさゝかも諛(へつらい)なし。
大永享禄の頃(1521〜1532)は甲斐の州に遊び、醫道を以て武田信虎の家に為客。抑々徳本翁の醫術は、即効を専らとし、其療治いさゝか烈(はげ)しきに似たり。然ば病に依って峻剤毒薬機宣不誤、攻撃瞑眩不避世諠、(これは病気の様體によっては、峻しき薬を用ひ、毒を服せ、病を強く攻撃、瞑眩てもかまわず、世の人々が諠しくいっても不避、存分に療治する事なり)富貴なる輩は、俗諺の如く古方家と忌恐れて信ぜず。却って山野僕質の民に尊信せられ、殊に貧しきを憐みて、療養を信切にし、居所の悪敷きを厭わず。 天文年中(1532〜1555)には甲州を去りて、信濃国諏訪郡東掘村に住し、天正の乱に武田氏亡て後、再び甲州に還り、自ら草廬を構、號て茅庵といふ。他に出る時、頸に薬袋を掲て、牛の背に跨り、彼薬入の表に一服十八銭と書付たり。富貴を顧みず、貧賤を嫌わず、偶々権家の招きに応じて、病を治し効ありても、薬の價を取事十八銭に過ぎず。盖世の中の醫の勢利に赴き、慾に務むる者を折く。於此翁の清情なる事、十方に聽へ、漸々に諸州の領主に召るゝ事すくなからず。其頃或諸侯何某の君病痾ましましけるが、其臣下兼て徳本の良醫なる事を知らるれば、則徳本翁の診治を伝達し奉らる。因って命じて翁を召さる。徳本翁此時に百十有餘才、例の如く頸に袋を掛、牛に踞(のり)、ゆふゆふと東都に到る。厳々廣々として尊むべき錦殿に、麁服を不耻登り、一診を許されて後、便(すなわち)峻(はげし)き劑(くすり)欲(ほっす)上(たてまつらんを)衆醫其麁忽を論じて不背(がてんせず)、時に徳本翁は少しも憚らず、衆醫に対して其可否も辨ず。其君又戦国を経玉ひし勇壮の仁君、聴明にして疑念ましますれば、決断速かに翁の良醫なる事を信じ玉ひ、薬を調進なさしめられ、御服薬数日ならずして、功を奏し、御全快ましましければ、賞を賜ふ事尤も厚し。されども徳本翁は、固く辞し奉り之を不レ受、帰るに及んで薬の價一服十八銭の定めを以て政府に乞請瓢然として立去ぬ。於レ是翁の聲名天下に高く、是を慕ふて門人となる者数十人、其中にしも馬場徳寛、今井徳山の二人、殊更に醫業を励み、翁の禁方を受たりとぞ。猶翁の醫療に付て、古今希代の妙説あり。ことごとく次編に記す。徳本傳の再記には、於竹大日如来の因縁等、希代の話ありて面白し。

 18、つみの御牧  
 燕居雑誌(日尾荊山)
 かげろふの日記、御堂道長の長歌に、
  かひなきことは甲斐の国、つみの御牧あるゝ駒のいかでか  人は影とめむ、と思ふ者からたらちねの云々、坂仲文が解環には、かひの国みつの御牧と直して、さて其説に、みつの御牧原本「つみ」とあり、契本に「つ」を「へ」と直して、和名抄甲斐国巨摩郡逸見郷を引り。今は則原本の「つみ」を倒せしと見て、昔より歌に詠馴し、小笠原美豆の御牧の義にとれり。且は原のまゝを倒して「みつ」とよまるまれば也。そのうへ六帖の歌、
 小笠原美豆のみ牧に荒る駒もとればぞ馴るゝ子等が袖はも とあり。今は其意をとりて可ならむか。され共藻鹽草を関するに、顕昭が説にも、忠岑が十體にも、小笠原は甲斐の国なり。「みつ御牧は山城国淀の渡り也」。しかれども證歌には、「小笠原へみのみまき」と侍り。能因歌枕に「へみの御牧」とは、蛇に似たる色の麻の生ずる故にと。然るを堀河院百首に、顕仲が春雨の歌に、「小笠原みつのみまき」と詠みたり。是僻事歟云々。
 古よりこれらの説あるにより、契沖は且き本義を正さむ為に、「へみ」に直されたらむなり。又契本の内一本に、六帖の歌を引けるも「へみ」とあり。流布の六帖誤多きものなれば、今の印本をも直して引かれしにや、されど原本に依て再案ずるに、沖にしたがへば何れの僻字の、へに取ても點畫の形最遠し、
「つみ」を打かへせば「みつ」なり。且本義にあらず共、詠習ひたるままに、詠むことも、昔より其例なきにしも非るべければ、此長歌を公の詠れしをり。何れに付かれたるも、今には計りがたけむ。今原本を直すの少きにとり、又は本義には背くとも、詩の和順なるによりて、姑く余が思のまゝに直せし、今此二説を挙置きれば、読人の好む方にしたがひ給ひなむと云れたり。瑜案ずるに、仲文此「つみ」の僻字の「へ」に取ても、點畫の形いと遠しとて、契沖師の定めしをさへに疑ひて、顕昭が僻心得をし、歌を徴にして打ちかへしたるぞ可咲き。こは原来「へみのみまき」なる事、和名抄にいへる如く、疑ふべきことに非ず。又「つ」と「へ」まがふべきも、いちじろき僻字あるをば知らでや有けむ。こはまさしく倍の草體□により誤て□と成りたる者也。萬葉にしきたへを敷多倍、とこしへを常之倍などの類あぐるに暇なし。此僻字だに知らずして、契沖を疑ひしは、いと鳴呼ならずや。

 19、目黒の餅花    骨董集(岩瀬京傳)
 昔目黒不動尊の門前にて、ごふくの餅といふを売るもとはお福の餅なるを、呉服のもちとあやまれりと、云々
   『江戸八百韻』延宝六年板
  前句 ちゃうらかす風よりつの瀧の音 青雲
  附句 目黒の原の犬がとびつく     来雪(山口素堂)
 

 20、提灯    骨董集(岩瀬京傳)
 『甲陽軍艦』巻之一、永禄元年の令に、
   不断不レ可燃二挑灯一とあり。云々
 一、赤染衛門の古墳  宮川舎漫筆(宮川政運)
 爰に奥田某といえる者、天明年中(1781〜1789)甲州に勤ごとありし折、甲州韮崎、扨(さて)寺の名も忘れたり。右脇堂の所に苔むしたる古墳あり。其頃中門建立の、右の古墳を取拂わんとせし前夜、住僧の夢に、夫人来り、此塚を取こぼつ事を歎き、一ひらの短冊を置と夢見しが、目覚めて見れば、古きたんざき枕のもとに残れり。取り上げて見れば、
  なき跡のしるしとなれば其儘に
  とはれずとても有てしもかな
 右ゆへ古墳は其儘にて中門をば塚の脇の方に寄せて建しといふ。右の短冊奥田方へ持参りしかば、奥田より古筆に出さし處、赤染衛門の筆よし。珍しき事共なり。この一條は奥田の一家のもの、予がむつみし長崎氏の物語なり。

 

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