さぶやんの”山梨歴史ジャーナル"

山梨は歴史・伝説・民話のふるさとです。

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  江戸で語られた甲斐の民話

 日本随筆大系四十三巻より抜粋

 1、遊女八千代が噂    羇旅漫録(瀧沢馬琴) 
 八の宮は、遊女八千代にふかく契りたまへり。日夜をかきらず、放蕩その度に過ぎたれば。その頃の所司台板倉侯。屡々諫言すといへども。もちひたわず。板倉止むことを得ず。若干金を以て八千代を身請けし。この八の宮の献じ。しかし後八の宮を配流せらる。則ち八千代もともに配所に至らしむ。こゝをもて八千代が名。吉野より高し。   
 註…直輔親王は、後陽成帝第八皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪、名を貞純と改め給ふ。寛永二十年、甲州天目山に配流せられしとき、   
  ふるゆきもこの山里はこゝろせよ
  竹の園生のすゑたわむ世に

 万治二年帰洛し給ひ、帰属して以心庵と號し、北野に住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして、薨し給ふ。      (橋本肥後守経亮話)
追考…甲州一円は夏ほとゝぎす啼ず。かの国の人の説に。八    の宮甲州にましましけるとき。
 なけばきくばきけは都のなつかしき
  此里すぎよ山ほとゝぎす
 これより杜鵑なかずといふ。   (実兄羅文の話)
 程へて八の宮帰洛したまひぬ。


 2、秉燭翁像 桂林漫録(桂川中良)
 近来、甲州酒折宮の(日本武尊を祭る)本社の傍らに祭る所の。秉燭翁の社の扉に刻する像なりとて。流布する図あり。
  秉燭翁像図(図略)
 深衣の如き服を左巻まきに著。
 (或人、続日本記養老三年の詔を引。上古は左まきなりし證  とす。笑う可し。左まきの詔。愚考あり。)
 幅広の如き物を頭に頂き。渡唐の天神と称する物の形に似たり。甲斐名勝志(甲州、萩原元克著)見に。彼像の説を載せさる故。彼邦より薬石を鬻に来る。阿蔵なる者に質(たた)せしに。果して跡形も無き譌物なり。此像を見んとて。好古の人間尋来る事侍りと語りき。全く奇に誇らんと欲る。好事者の所為と見ゆ。憎む可く冤(うら)む可し彼社。尊の燧袋(ひうちぶくろ)を神体とする由。是は虚説にあらず。阿像帰国の後。其図を送り越す可しと約しぬ。

 3、向火
 酒折宮の因みに記す。日本武尊。駿河国に至り給へる時、夷等尊を欺きて野中に出し奉り。枯草に火を着て。焼き失ひ奉らんとす。時に尊。御姨。倭比売命(やまとひめのみこと)の賜ひたる火打袋より。(是酒折宮の神体なり)燧(ひうち)を取出し。御剣を抜て草を薙拂ひ。火打ちにて火を打。向火を着て焼退け。還出て夷どもを切滅し給ふ事。云々  

 4、、近代俗書真偽 蘿月庵国書漫書(尾崎雅嘉) 
(前略)百年以後にかきたる印行の記録、諸家よりいでたるは、各自の事故連続せざるより、すたり行になろこそ残多けれ。甲陽軍艦あやまり多しといへども、質にして事実多し。しかし是は甲州流、北条流、山鹿流など、小幡氏の跡をふめば今にすたるに、是さへ武田三代記出るになりぬ。甲陽軍艦にあはすれば、通俗のもの見るやうにて、二度とは見るべくあらず、云々

 5、兼信秘蔵の太刀   煙霞綺談(西村白鳥)
 兼信秘蔵の太刀三腰あり。赤小豆粥といふは三尺壹寸、鎌倉行光が作なり。川中島にて信玄と太刀打の時の太刀なりとかや。(中略)二度目の川中島夜戦に、甲州方の輪形月とかやいふ者を二太刀切付たるに、鎧かけて切先はづれに切付、あまり太刀にて輪形が持たる鉄砲二見当の上をはすに切落したるも、竹股兼光なりしとかや。云々

 6、武田信玄    煙霞綺談(西村白鳥) 
(前略)往前元亀三年春、甲州武田信玄遠州に出張し所々を攻撃し、それより三州に打越、吉田の城を襲、此時吉田の城には酒井左衛門尉忠次守り居たるが、無勢にして 難レ拒城殆危 。ときに地士林
十右衛門景政といふ者あり。此者射術に達し、遠三の間に弓の弟子大勢あり。城危きによって彼弟子共大勢引き連れ、飽海口に出てふせぎ 放矢如雨脚(あめのごとし)依之甲兵隕命者居多(こうへい
めいをおとすものそこぼこ)にして辟易し、信玄遂に振旅して皈甲州、(こうしゅうにかえる)次甚感喜あり。此由来を以て射術を励むと云ふ。云々

 7、六郷の橋    柳亭筆記(柳亭種彦) 
(前略)『小田原記』永禄九年武田信玄小田原に人数少なき隙をうかゞひおもひよらざる方より小田原へ押し寄せるといふ條に、「橋を焼き落として甲州勢を通さず。信玄品川の宇多河石見守鈴木等を追散して六郷の橋落ちければ池上へかゝり」とあり、この時橋を焼き捨てし事のあれば、北条家の盛りなりし頃そめしにや。云々

 8、誰やらのはなし   八水随筆 著者未詳
 予がしれる大井佐太夫殿の申せし御方、甲州の族にて、花菱を紋とす。此家に勝頼の備前徳あり。先祖の器とては是ばかりなれども、用なしとてわらはれぬ。

 9、大磯小磯   金曾木 (大田南畝)
 相模刻の大磯小磯は人みな知る所なり。甲斐八代郡川内領に大磯小磯村と云うあり。山田茂右衛門御代官處なり。

 10、甲州古鐘銘    半日閑話(大田覃)  
 甲斐国牧庄法光寺 奉鑄施鐘一口
  建久二年辛亥八月廿七日 
  従五位下遠江守源朝臣義定
   又云建治元年乙亥十二月八日
   願主比丘尼新阿
  當修理大勧進沙彌性光
   建武三年丙子三月廿七日
  重修理大勧進僧都清尊
   定治五年丙午十二月廿七日
   大 工 道 全

 

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  「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」は素堂の句です。
<写真は素堂に最も近い姿です>


 私の渾身の「山口素堂」の調査報告です。これを仕上げるのに10数年かかりました。

 <http://homepage3.nifty.com/hakushu/perm-ex.htm

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甲斐の夜明け
 山梨の中心地の甲府は周囲を山に囲まれてています。国道でも電車でも、塩山を通過するあたりから、山が急に広がってきて、桃の花の時期には、花の中に甲府付近が遥か下に現れます。

 甲府盆地には全国各地ある湖水伝説があります。大昔は犬湖水であったといわれています。時代を少しだけさかのぼれば、現在の中央市付近には小さなため池がたくさんあり、地面を少しほれば水が溢れたものです。

 そのころは、甲斐の人びとは、湖水の周辺の山腹や小高い丘に住んでいました。人々は大きな湖水を眺めながら、湖水の水を払い、そのあとを田や畑にLたいと願っていました。

。そこで人びとは神の助けをかりて、下流の岩を切りひらいて、流水の道を広げ、少し筒田畑を増やしていきました。

 その内容にはいろいろな説がありますが、蹴裂明神(けさきみょうじん)という神があらわれ、湖水の水の出口をふさいでいた大岩(南巨摩郡鰍沢町付近)をやぶって富士川へ落したため、盆地にはじめて人が住めるようになったという。

 ある神社に伝わる話では、むかし甲斐の国は海国が一面湖水であったころ、二人の神が力を併せて岩石を取り除きました。溜まっていた水は水路を通Lてから、しだいに湖水のしたの部分が見えてきました。

 こうした神々に感謝した人々は神様に感謝して神様を神社に祀りました。大昔の人々は植物でも動物でもどんな小さい生き物にも神様がすんでいると信じていました。人々が困ったり悩んだりしていると、神様が救ってくれたのです。
 
 現在はこうしたこともなくなり、科学な判断が目立ち、ものに感謝するという気持ちが薄れてきています。

 湖水を平野にしたのは元正天皇の養老年間に行基(ぎょうき)が甲斐国に遊行したとき、南の山を切りひらいて水を富士川に流したので、国びとがその徳を感謝し、中国の萬王の徳にたぞらえて「兎の瀬(うのせ)」と命名したも伝わっています。

 こうした話とは別に、甲府盆地の周囲には、大昔の人々の住んだ跡がたくさんあって、中には全国でも有名な遺跡もあります。(これは「歴史さんぽ」でどうぞ。)

 上流にたくさんの雨が降り注ぎ、漏斗(じょうご・入り口が広く出口が狭い容器)の
ような状態を入り口と同じように出口を広くしたために、川の流れがよくなったことの伝説であり、これはその周辺に住む人たちが長い歴史の中で工事に携わった結果であり、人も神もひとつになって、成し遂げたものと考えます。

 皆さんの地方にも同じような話がありましたらお聞かせください。


写真は私の紹介です。普段は製材所を経営していて林業全体にかかわっています。

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山本勘助100話
引用史料 『武田・上杉軍配』 小林計一郎先生著
新人物往来社 昭和58年刊


 山本勘介、信玄の側近にあり

 信玄は容易に所在をあきらかにしない。謙信が川中島方面に気を奪われている間に、板
垣(信安か)らを遺わして小谷城(北安曇郡)を攻略させ、糸魚川口をおびやかす。謙
信は飯山城を根拠にし、野沢の湯に兵を出して市河氏を攻めようとした。
 信玄は六月二十三日付の手紙を山本管助に持たせて市河藤若の許へ送って、市河を励ま
した。この手紙は山本勘弁(正しくは勘助)に関する唯一の確実な史料であるから、次に
その全文を紹介する(口絵与真参照)。


 注進条披見。景虎至意至野沢之湯進陣、
 其地へ可取模様、又、雖入武略候、無同意、剩
 備堅固故、長尾景虎無功而飯山へ引退候哉、誠心地
 能候。何ニ今度其方擬頼母敗迄侯。就中、野沢
 布陣之砌、中野筋後詰め義、預飛脚候き、則倉
 賀野へ越、上原与三左衛門尉、又当手之事も、塩田
 在城之足軽為始、原与左衛門尉五百余人、真田に
 指遣侯処、既退散之上、不及是非候。全不可有
 無首尾候。向後者、兼存其旨、塩田之在城衆
 申付候間、従湯本注進次第ニ、当地へ不及申
 届、可出陣之趣、今日飯富兵部少輔所へ成下知候
 条、可有御心易候。猶可有山本菅助口上候。
  恐々謹言。
(弘冶三年)六月廿三日 晴信(花押)
  市河藤若殿

(訳)
 注進状を読んだ。景虎が野沢の湯(下高井郡野沢温泉)に陣を進め、その方(市河)の地へ攻めかかる様子を見せ、また、先遣隊などか攻撃をしかけたが、とりあわず、防備を堅固にしたので、長尾景虎は功なくして飯山へ退いたそうだか、誠に心地よいことである。景虎が野沢に在陣中、中野筋へ後詰するよう飛脚をもらった。そこで倉賀野にいる上原与三左衛門尉に応援を命じ塩田在城の足軽をはじめ、原与左衛門尉ら五百余人を真田幸隆の指揮下に入れ、後詰に差し遣わそうとしたが、すでに景虎が退散したので間にあわなかった。決して処置を怠ったわけではない。今後は塩田在城衆に申し付けておくから、湯本から注進かあり次第、私にことわらずに出陣せよと今日飯富兵部少輔に命じておいたから御安心願いたい。なお、山本菅助が口上で申し上げる。

 なお、この手紙に上州の食賀野や湯本(草津の地士)か出てくるのは、市河の根拠地奥信濃と上州が草津道で連絡されているからで、信玄が上野方面からも奥信濃へ圧力をかけていたことかわかる。
 武田家では、他の例でみても、使者は晴信直臣の相当な地位の者が勤めているから、山本菅助は当時晴信の側近で一応の地位を占めていたに違いない。
 その名は、唯一の確実な史料」に「菅助」とあるからには、それに従うべきであろう。
 山本菅助の名は「高白斎記」にみえない。たぶん天文二十二年以後の新規登用であろう。そして、おそらく永禄四年の川中島激戦で戦死したのであろう。
 菅助の子孫又は一族と思われる者が数人、信玄の近群衆・直参衆・小人頭などになっていた。江戸幕臣の山本氏で勘介の子孫と称する者(『寛政重修諸家譜』一三二一巻)かあったが、おそらく事実であろう。
 山本勘介は武田の軍師として『甲陽軍艦』では大活躍している。勘介小召抱えられる事情は、同書品第廿四に見えているが、それによると次のとおりである。

「天文十二年正月に、武田の重臣か晴信の前に集まって、その年の策戦をねった。信州の新占領地に城を築くに当って、うまく縄張りをすれば、千人の人数で守ることかできる。
どこかに縄張りのうまい者はいないかと相談していると、一人が言うよう「今川義元公の一族庵原(いおりばら)につかえている山本勘介という者がおります。今川家に奉公を希望したが義元公は召し抱えません。この男は三州牛窪の者で、四国・中国・関東までも歩き廻った男です」
 そこで晴信はその年三月知行百貫の約束で、駿河から勘介を召し寄せた。勘介を見て晴
信に言った。
「お前は一眼で、あちこちに負傷して手足も少し不自由らしい。おまけに色も黒い。かほどのぶ男で、しかも有名だというのは、よほど誉ある侍であろう。百貫では少ない。」
 と即座に二百貫の知行を下された。この年のうちに城九ツが晴信公の手に入ったのは、ひとえに山本勘介の武略である。

 さて、『甲陽軍鑑』によればこれ以後の掛介の「武略」はあげきれないが、山本勘介の名は確実な史料」にひとつもみえないので、その実在が疑われていた。古く田中義成氏は「山本勘介は山県昌景の一部卒に過きず」
 としている(『甲陽軍艦考』)。これは『武功雑記』の記事によったもので、この書 (肥前平戸城主松浦鎮信〈一五四九〜一六一四〉の筆記)には、次のようjに記されている。

 ……三河牛久保に牧野殿という三千石ほどの将があり、その家来に山本勘介という高慢な武芸者があった。ある時、上泉伊勢という旅の武芸者と牧野殿の前で仕合いをしたが、勘介は上泉の弟子に負けてしまった。そこで主家におれなくなり、甲州へ行った。そのころ甲州では、他国者の来るのを喜び、ことに三河者を歓迎した。勘介は山県昌景に召し抱えられた。しかし甲州者で勘弁の名知っている者はなかった。川中島合戦の時、山県か勘介を斥候に出したが、帰って来て山県に報告しているようすを信玄が見て、「あれは何者だ」 と尋ねた。
「あれは山本勘助といった三河の者です。口重な者(落ち着いた者の意か)というので、山県が扶持しております。」
 と申し上げた。勘介の子、関山派の僧で少々学問のある者が、信玄のことなど覚書した反古を取り集め、わが親の勘介のことを飾り立てて書いたのである。これを高坂弾正の作と偽って甲陽軍艦と名付けた……

この記事は、『甲陽軍艦』の成立事情を語る、わりに古い記事として注目され、またこの記事により、山本勘介は例え実在したとしても、ごく身分の低い者と考えられてきたわけである。
 しかし、前述のように信玄の使者は、その側近の信頼しうる人物が勤める例であり、山本管助が新採用ながら、その才能を信玄に認められ、奥信濃の経略に一役買っていたことは明白である。
 なお、この手紙は市河氏の子孫の市川良一氏(北海道釧路市松浦)の所蔵、同氏は米沢上杉藩士で明治二十三年に米沢から屯田兵として北海連に移住された。同氏夫人がテレビの『天と地と」を見ていて、そこに出て来た信玄の花押のある文書をみて、自宅に同じような文書のあることを思い出し、釧路博物館の人にそれを見せたのが、世に紹介されたはじまりである。  云々

<http://sky.geocities.jp/yamamotokannsuke2003/>

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幸田露伴博士は「武田信玄」の中で次の様に述べられている。

「世の甲州流軍学と言ふものは、小幡勘兵衛景憲を祖とする。景憲は山本勘助を宗とする。併し、景憲は勘助に直接指導したのでも何でもない。勘兵衛景憲は甲州の宿将小幡虎盛の後で昌盛の二男だが、其の生れたのは元亀三年だから、僅に十一歳の時に武田勝頼は亡びたのである。で幼時から徳川氏に仕へて、関ケ原、大坂の前役にも出陣したが、大坂との和談が一旦成就した時に、大野治房の招に応じて大阪方へ入り、板倉伊賀守勝重や松平隠岐守定行と謀し合せて、関東方の為にスパイとなったのである。かゝる男が大阪に居たのであるから、大阪の様子は手に取る如く関東に知れ、随って容易に亡ぼされたわけで、大阪亡びて後は御使番となったのである。此の勘兵衛も一通りの者ではない。自分の所領の三分の一を村上荘次郎といふ者、他の三分の一を杉山八蔵といふ者に與へて、自分は残れる三分の一を得るに甘んじたといふ。斯様いふ男で、そして甲州の士早川三左衛門、広瀬景房、辻彌兵衛、小宮山八左街門、仁科肥前守、辻甚内等に就いて武田家の軍法学び、叉岡本半助、赤澤太郎衛門、益田民部等にも学び、又甲州北郡に隠居してみた岡本實貞入道をも招いて益を請ふたりして、終に甲州流軍学を以て、世に鳴り、列侯諸士の其門に入るもの二千余人に及んだといふことである。

 勘兵衛の弟子北條安房守氏長は北条流の祖となり、氏長の弟子山鹿甚五左徹門義矩は山鹿流を編立てたのだから、名高い山鹿素行も景憲の孫弟子の訳である。信玄及び武田家の事を記したものの中で古いものは甲陽軍艦である。軍艦は虚實混淆して確古の史料として取ることは難いものであり、且また高坂弾正の撰にかゝるゝいふことは断じて信ぜられれものであるが決して生新しい偽書ではない。古いことは古いものである。武田氏滅亡を距ること遠からぬ世に出来たものである。勘兵衛は甲陽軍艦の闕を補ひ誤りを正さんとしたやうに云はれている。然し夏目繁高は、勘兵衛が甲陽軍艦の闕文を補ひ、大に甲州武田の兵法を興起す、と記して居る。勘兵衛は非常に長命で寛文三年九月、九十二歳で死んでいるが、勘兵衛存命中、盖し勘兵衛の七十七の賀の頃、門人等が打寄って記したと見ゆる正保四年の誌文は、文章も朴拙で古さの思はるゝもので、其中に、景憲天性人の宇下に立つを欲ぜず、燕雀を睥睨するの知、鴻鵠を慕ふるの志有り、唯願ふところは先君信玄公創業垂統の規矩、殊に軍旅の制法は之を祥かにせんと、故に甲信領国の士普く其門に入り、故實を尋探し、委曲に之を記録し、悉く其語を綴集し、編して五十帖と為し、名づけて甲陽軍艦と號す、而も景憲心未だ満たずとして又、益々天下に遍歴し、其志を立てんことを願ふ、とあって、其の下には景憲が致仕して諸国修行を試み、兵法、軍学、禅宗に苦心した事を記してあり、其後関ケ原し大坂等の役に参じたことを記してある記して見れば甲陽軍鑑は勘兵衛が若い時、関ケ原役の前(関ケ原役の時は勘兵衛年二十九)即ち青年時代に、自分と同しく徳川氏に属した甲州諸士等に信玄盛時の事を聞きて、追慕憧憬の念、慷慨悲愴の情、研究心、批評心、何や彼やを取交ぜ、且又今は徳川氏に属している将士の感情や智識や意見をも取交ぜて記したるものと想はれる。央實の誤訛り砒や不足やは、もとより央家でも記録でもない諸将士の記憶談を其儘偉傳へたのであるから、自然生じ勝の事で、しかも勘兵衛に語った。諸人も亦一々実際に遭遇又、目撃した人のみではなく、傳聞に之を得たことを語ったらうから、後世の考證家に其失を攻撃されるやうな誤謬を含んだとて、それは無理も無いことであらう。で、事実聞編の巻十四に採録されて居る逸名氏の景憲門弟子の正保丁亥の文記を信ずれば、甲陽軍艦は勘兵衛の手から出たもので、其の成立の事情も大概は分明する」

と、此の場合、露伴博士の見られた甲陽軍艦が果してほんとうの甲陽軍鑑であるかどうかと云ふ事である。甚だこれは失礼な言ひ方ではあるけれどもb軍鑑の真偽を論ずる上から言ってどうしても青はなければならぬ破目に立ち至った理由で、幸田先生に封しては何んとも申訳ない事で此の点重々お詑を申上げて置く次第であります。要するに幸田半博士の説から見ても、和田政雄氏の説に於ても、甲陽軍艦に、山本勘助が八幡原の草むらの中で悲壮なる戦死た遂げた事が記載されて居る様に感ぜられるし、幸田博士は又、軍鑑に「文編巻十四」と云ふものが載ってある事を記されているのであるが、「武田流軍学全書」で見る軍鑑には「山本勘助」の八幡原の事項も、「文編巻十四」も載っていないのである。文編巻十四といふのは幸田博上の説に依っても知られる通り景憲門下の記述で、これが載っているものとすれば、景憲編輯の軍艦とは思はれるが、それが果してほんものか又は何時代に出版されたものであるかが問題であると思はれる。

 勿論筆者は、「武田流軍学全書」に納められている甲陽軍鑑が、絶封正しい甲陽軍鑑である等と思っているものでは断じてない。只、それが万治板、寛文版、元禄版:宝永版等の各時代出版のものを網羅して参照、校訂されたと言ふのであるから、比較的正しいものであると信ずるものである。然しながら幸田露伴博士の如きは流石に一世の碩学であつて、例令その見られた軍艦が似非軍鑑てあったとしても、大局に於て誤りの無い公平な立論をせられている事が充分に知り得られるのであって、此の点深甚なる敬意を表すベきであらうと思はれる。以上各方面より検討して見た場合、甲陽軍艦を論ずる場合、小幡勘兵衛景憲の編集した甲陽軍艦の原本を見なければ、ほんとうの立論を為すことは出来ないと言ふ結論に到達する事になる。

 そして大体に於ては、高坂弾正景憲の遺記と、それを書き継いだ、春日惣二郎及,小幡下野、外記孫八郎、西條沿郎等の手記、談話に小推勘兵徹景憲の加筆が軍艦、原本の成立過程ではなかったのではあるまいかと思はれるのである。それは、高坂、春日、小幡、西条、勘兵衛景憲等の縁戚駒係から見ても考へ得られるのである。以て一般の高教と仰ぎ度いと思うものである。

 尚軍艦に表現せられている合戦が、それは只表面的のものであると言ふ事は、「甲陽軍艦評判」と言ふ、兵学的見地から批評したものを見るとよく解る事を附記して置く。

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