さぶやんの”山梨歴史ジャーナル"

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山本勘助100話
引用史料 『武田・上杉軍配』 小林計一郎先生著
新人物往来社 昭和58年刊


 山本勘介、信玄の側近にあり

 信玄は容易に所在をあきらかにしない。謙信が川中島方面に気を奪われている間に、板
垣(信安か)らを遺わして小谷城(北安曇郡)を攻略させ、糸魚川口をおびやかす。謙
信は飯山城を根拠にし、野沢の湯に兵を出して市河氏を攻めようとした。
 信玄は六月二十三日付の手紙を山本管助に持たせて市河藤若の許へ送って、市河を励ま
した。この手紙は山本勘弁(正しくは勘助)に関する唯一の確実な史料であるから、次に
その全文を紹介する(口絵与真参照)。


 注進条披見。景虎至意至野沢之湯進陣、
 其地へ可取模様、又、雖入武略候、無同意、剩
 備堅固故、長尾景虎無功而飯山へ引退候哉、誠心地
 能候。何ニ今度其方擬頼母敗迄侯。就中、野沢
 布陣之砌、中野筋後詰め義、預飛脚候き、則倉
 賀野へ越、上原与三左衛門尉、又当手之事も、塩田
 在城之足軽為始、原与左衛門尉五百余人、真田に
 指遣侯処、既退散之上、不及是非候。全不可有
 無首尾候。向後者、兼存其旨、塩田之在城衆
 申付候間、従湯本注進次第ニ、当地へ不及申
 届、可出陣之趣、今日飯富兵部少輔所へ成下知候
 条、可有御心易候。猶可有山本菅助口上候。
  恐々謹言。
(弘冶三年)六月廿三日 晴信(花押)
  市河藤若殿

(訳)
 注進状を読んだ。景虎が野沢の湯(下高井郡野沢温泉)に陣を進め、その方(市河)の地へ攻めかかる様子を見せ、また、先遣隊などか攻撃をしかけたが、とりあわず、防備を堅固にしたので、長尾景虎は功なくして飯山へ退いたそうだか、誠に心地よいことである。景虎が野沢に在陣中、中野筋へ後詰するよう飛脚をもらった。そこで倉賀野にいる上原与三左衛門尉に応援を命じ塩田在城の足軽をはじめ、原与左衛門尉ら五百余人を真田幸隆の指揮下に入れ、後詰に差し遣わそうとしたが、すでに景虎が退散したので間にあわなかった。決して処置を怠ったわけではない。今後は塩田在城衆に申し付けておくから、湯本から注進かあり次第、私にことわらずに出陣せよと今日飯富兵部少輔に命じておいたから御安心願いたい。なお、山本菅助が口上で申し上げる。

 なお、この手紙に上州の食賀野や湯本(草津の地士)か出てくるのは、市河の根拠地奥信濃と上州が草津道で連絡されているからで、信玄が上野方面からも奥信濃へ圧力をかけていたことかわかる。
 武田家では、他の例でみても、使者は晴信直臣の相当な地位の者が勤めているから、山本菅助は当時晴信の側近で一応の地位を占めていたに違いない。
 その名は、唯一の確実な史料」に「菅助」とあるからには、それに従うべきであろう。
 山本菅助の名は「高白斎記」にみえない。たぶん天文二十二年以後の新規登用であろう。そして、おそらく永禄四年の川中島激戦で戦死したのであろう。
 菅助の子孫又は一族と思われる者が数人、信玄の近群衆・直参衆・小人頭などになっていた。江戸幕臣の山本氏で勘介の子孫と称する者(『寛政重修諸家譜』一三二一巻)かあったが、おそらく事実であろう。
 山本勘介は武田の軍師として『甲陽軍艦』では大活躍している。勘介小召抱えられる事情は、同書品第廿四に見えているが、それによると次のとおりである。

「天文十二年正月に、武田の重臣か晴信の前に集まって、その年の策戦をねった。信州の新占領地に城を築くに当って、うまく縄張りをすれば、千人の人数で守ることかできる。
どこかに縄張りのうまい者はいないかと相談していると、一人が言うよう「今川義元公の一族庵原(いおりばら)につかえている山本勘介という者がおります。今川家に奉公を希望したが義元公は召し抱えません。この男は三州牛窪の者で、四国・中国・関東までも歩き廻った男です」
 そこで晴信はその年三月知行百貫の約束で、駿河から勘介を召し寄せた。勘介を見て晴
信に言った。
「お前は一眼で、あちこちに負傷して手足も少し不自由らしい。おまけに色も黒い。かほどのぶ男で、しかも有名だというのは、よほど誉ある侍であろう。百貫では少ない。」
 と即座に二百貫の知行を下された。この年のうちに城九ツが晴信公の手に入ったのは、ひとえに山本勘介の武略である。

 さて、『甲陽軍鑑』によればこれ以後の掛介の「武略」はあげきれないが、山本勘介の名は確実な史料」にひとつもみえないので、その実在が疑われていた。古く田中義成氏は「山本勘介は山県昌景の一部卒に過きず」
 としている(『甲陽軍艦考』)。これは『武功雑記』の記事によったもので、この書 (肥前平戸城主松浦鎮信〈一五四九〜一六一四〉の筆記)には、次のようjに記されている。

 ……三河牛久保に牧野殿という三千石ほどの将があり、その家来に山本勘介という高慢な武芸者があった。ある時、上泉伊勢という旅の武芸者と牧野殿の前で仕合いをしたが、勘介は上泉の弟子に負けてしまった。そこで主家におれなくなり、甲州へ行った。そのころ甲州では、他国者の来るのを喜び、ことに三河者を歓迎した。勘介は山県昌景に召し抱えられた。しかし甲州者で勘弁の名知っている者はなかった。川中島合戦の時、山県か勘介を斥候に出したが、帰って来て山県に報告しているようすを信玄が見て、「あれは何者だ」 と尋ねた。
「あれは山本勘助といった三河の者です。口重な者(落ち着いた者の意か)というので、山県が扶持しております。」
 と申し上げた。勘介の子、関山派の僧で少々学問のある者が、信玄のことなど覚書した反古を取り集め、わが親の勘介のことを飾り立てて書いたのである。これを高坂弾正の作と偽って甲陽軍艦と名付けた……

この記事は、『甲陽軍艦』の成立事情を語る、わりに古い記事として注目され、またこの記事により、山本勘介は例え実在したとしても、ごく身分の低い者と考えられてきたわけである。
 しかし、前述のように信玄の使者は、その側近の信頼しうる人物が勤める例であり、山本管助が新採用ながら、その才能を信玄に認められ、奥信濃の経略に一役買っていたことは明白である。
 なお、この手紙は市河氏の子孫の市川良一氏(北海道釧路市松浦)の所蔵、同氏は米沢上杉藩士で明治二十三年に米沢から屯田兵として北海連に移住された。同氏夫人がテレビの『天と地と」を見ていて、そこに出て来た信玄の花押のある文書をみて、自宅に同じような文書のあることを思い出し、釧路博物館の人にそれを見せたのが、世に紹介されたはじまりである。  云々

<http://sky.geocities.jp/yamamotokannsuke2003/>

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幸田露伴博士は「武田信玄」の中で次の様に述べられている。

「世の甲州流軍学と言ふものは、小幡勘兵衛景憲を祖とする。景憲は山本勘助を宗とする。併し、景憲は勘助に直接指導したのでも何でもない。勘兵衛景憲は甲州の宿将小幡虎盛の後で昌盛の二男だが、其の生れたのは元亀三年だから、僅に十一歳の時に武田勝頼は亡びたのである。で幼時から徳川氏に仕へて、関ケ原、大坂の前役にも出陣したが、大坂との和談が一旦成就した時に、大野治房の招に応じて大阪方へ入り、板倉伊賀守勝重や松平隠岐守定行と謀し合せて、関東方の為にスパイとなったのである。かゝる男が大阪に居たのであるから、大阪の様子は手に取る如く関東に知れ、随って容易に亡ぼされたわけで、大阪亡びて後は御使番となったのである。此の勘兵衛も一通りの者ではない。自分の所領の三分の一を村上荘次郎といふ者、他の三分の一を杉山八蔵といふ者に與へて、自分は残れる三分の一を得るに甘んじたといふ。斯様いふ男で、そして甲州の士早川三左衛門、広瀬景房、辻彌兵衛、小宮山八左街門、仁科肥前守、辻甚内等に就いて武田家の軍法学び、叉岡本半助、赤澤太郎衛門、益田民部等にも学び、又甲州北郡に隠居してみた岡本實貞入道をも招いて益を請ふたりして、終に甲州流軍学を以て、世に鳴り、列侯諸士の其門に入るもの二千余人に及んだといふことである。

 勘兵衛の弟子北條安房守氏長は北条流の祖となり、氏長の弟子山鹿甚五左徹門義矩は山鹿流を編立てたのだから、名高い山鹿素行も景憲の孫弟子の訳である。信玄及び武田家の事を記したものの中で古いものは甲陽軍艦である。軍艦は虚實混淆して確古の史料として取ることは難いものであり、且また高坂弾正の撰にかゝるゝいふことは断じて信ぜられれものであるが決して生新しい偽書ではない。古いことは古いものである。武田氏滅亡を距ること遠からぬ世に出来たものである。勘兵衛は甲陽軍艦の闕を補ひ誤りを正さんとしたやうに云はれている。然し夏目繁高は、勘兵衛が甲陽軍艦の闕文を補ひ、大に甲州武田の兵法を興起す、と記して居る。勘兵衛は非常に長命で寛文三年九月、九十二歳で死んでいるが、勘兵衛存命中、盖し勘兵衛の七十七の賀の頃、門人等が打寄って記したと見ゆる正保四年の誌文は、文章も朴拙で古さの思はるゝもので、其中に、景憲天性人の宇下に立つを欲ぜず、燕雀を睥睨するの知、鴻鵠を慕ふるの志有り、唯願ふところは先君信玄公創業垂統の規矩、殊に軍旅の制法は之を祥かにせんと、故に甲信領国の士普く其門に入り、故實を尋探し、委曲に之を記録し、悉く其語を綴集し、編して五十帖と為し、名づけて甲陽軍艦と號す、而も景憲心未だ満たずとして又、益々天下に遍歴し、其志を立てんことを願ふ、とあって、其の下には景憲が致仕して諸国修行を試み、兵法、軍学、禅宗に苦心した事を記してあり、其後関ケ原し大坂等の役に参じたことを記してある記して見れば甲陽軍鑑は勘兵衛が若い時、関ケ原役の前(関ケ原役の時は勘兵衛年二十九)即ち青年時代に、自分と同しく徳川氏に属した甲州諸士等に信玄盛時の事を聞きて、追慕憧憬の念、慷慨悲愴の情、研究心、批評心、何や彼やを取交ぜ、且又今は徳川氏に属している将士の感情や智識や意見をも取交ぜて記したるものと想はれる。央實の誤訛り砒や不足やは、もとより央家でも記録でもない諸将士の記憶談を其儘偉傳へたのであるから、自然生じ勝の事で、しかも勘兵衛に語った。諸人も亦一々実際に遭遇又、目撃した人のみではなく、傳聞に之を得たことを語ったらうから、後世の考證家に其失を攻撃されるやうな誤謬を含んだとて、それは無理も無いことであらう。で、事実聞編の巻十四に採録されて居る逸名氏の景憲門弟子の正保丁亥の文記を信ずれば、甲陽軍艦は勘兵衛の手から出たもので、其の成立の事情も大概は分明する」

と、此の場合、露伴博士の見られた甲陽軍艦が果してほんとうの甲陽軍鑑であるかどうかと云ふ事である。甚だこれは失礼な言ひ方ではあるけれどもb軍鑑の真偽を論ずる上から言ってどうしても青はなければならぬ破目に立ち至った理由で、幸田先生に封しては何んとも申訳ない事で此の点重々お詑を申上げて置く次第であります。要するに幸田半博士の説から見ても、和田政雄氏の説に於ても、甲陽軍艦に、山本勘助が八幡原の草むらの中で悲壮なる戦死た遂げた事が記載されて居る様に感ぜられるし、幸田博士は又、軍鑑に「文編巻十四」と云ふものが載ってある事を記されているのであるが、「武田流軍学全書」で見る軍鑑には「山本勘助」の八幡原の事項も、「文編巻十四」も載っていないのである。文編巻十四といふのは幸田博上の説に依っても知られる通り景憲門下の記述で、これが載っているものとすれば、景憲編輯の軍艦とは思はれるが、それが果してほんものか又は何時代に出版されたものであるかが問題であると思はれる。

 勿論筆者は、「武田流軍学全書」に納められている甲陽軍鑑が、絶封正しい甲陽軍鑑である等と思っているものでは断じてない。只、それが万治板、寛文版、元禄版:宝永版等の各時代出版のものを網羅して参照、校訂されたと言ふのであるから、比較的正しいものであると信ずるものである。然しながら幸田露伴博士の如きは流石に一世の碩学であつて、例令その見られた軍艦が似非軍鑑てあったとしても、大局に於て誤りの無い公平な立論をせられている事が充分に知り得られるのであって、此の点深甚なる敬意を表すベきであらうと思はれる。以上各方面より検討して見た場合、甲陽軍艦を論ずる場合、小幡勘兵衛景憲の編集した甲陽軍艦の原本を見なければ、ほんとうの立論を為すことは出来ないと言ふ結論に到達する事になる。

 そして大体に於ては、高坂弾正景憲の遺記と、それを書き継いだ、春日惣二郎及,小幡下野、外記孫八郎、西條沿郎等の手記、談話に小推勘兵徹景憲の加筆が軍艦、原本の成立過程ではなかったのではあるまいかと思はれるのである。それは、高坂、春日、小幡、西条、勘兵衛景憲等の縁戚駒係から見ても考へ得られるのである。以て一般の高教と仰ぎ度いと思うものである。

 尚軍艦に表現せられている合戦が、それは只表面的のものであると言ふ事は、「甲陽軍艦評判」と言ふ、兵学的見地から批評したものを見るとよく解る事を附記して置く。

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 この著者の喝破せる通り、見る可し、他国隠謀の為、傳授が無くては知られざる様にこれを書いたのであって、事実高坂の手記であると、此の著者が折紙をつける軍法の巻などには至る處に口訣ありとか口傳ありとか記されてゐるのである。軍規保護が如何に重ぜられたかは、信玄が嫡子義信の隠謀発見、自裁後その館趾を取り壊して毘沙門堂を建立し、地下室を作って、便所の排水路迄工夫し、此の毘沙門堂の一室へは、馬場、山懸、高坂、内藤、土屋、武藤(喜)、曽根、三枝、原、小山田等の如き限られた諸将の外は絶対に入る事た許されなかったと云ふ一考えて見ても頷ける事であるし、甲州の反語と称し、事実と反対の如き表現をして話しを通ぜしめた事は、今日尚幾多の方言として残るものに依って見ても明らかに解るのである。

 例へば、何処々々へ行かうと言ふ時に甲州では「行かず」と言ふのである。

「おいお湯へ行かうか」と言へば

「あゝ行かず」と答へるのである。

「さあ出掛けるとしょうか」

「うんいかずかな」

 これでは他国の隠密などが入り込んでも居ても、こんな会話をされたのでは、さっぱり理由が解からなかったことであろうと思われるのである。赤穂四十七義士で有名な「相言葉」なども甲州流軍学の記する處である。乱戦のさ中とか夜戦などに於て、敵味方を判別する最良の方法であった。又は敵国のスパイに対して、一瞬これを判別せしむる為にも、この相言葉が使用された模様である。大石良雄の「山鹿流」軍学は山鹿甚五兵衛素行先生より出で、山鹿素行先生の山鹿流は、小幡勘兵衛景憲の所謂「武田流の軍学」から出ている事は史家の斉しく認める處で明かな事実である。

 然らばこの武田流(甲州流とも云ふ)軍学は、何からでているかと云ふと、軍学の祖、小幡勘兵衛景憲の甲陽軍艦であり、それは又山本勘助の兵学であり、武田信玄の用兵から出発している事も明かなり事実である。

 

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「凡甲陽軍艦は景憲先生の編る所にして、實は高坂が著す非ず、雖然今世上に流布して云、景憲は文字に内疎、此の軍艦を清書するに曁て、其叔姪の親に禅僧ありて、或は古語を引、或は闕書を補て、軍艦を全部すといへり、景憲は文字を不知人に非ず、其の秀才を蔵して、以高坂に譲れり、(此説可有口訣)或記曰、高坂此書を編る期、春日と大蔵とに命じて、清書せしむと言へり。是も皆景憲先生の所為なりとかや、惣て本書より、結要本、末書中巻、及下巻、三韜本、彼巳巻、寒暑の両本に至る迄、悉く先生の著す所なり、独り軍法の券而巳、高坂霜台が遺書なり、先生晩年に曁って、追加して下巻を撰す、故に此書先生壮年に属従する門人等は不傳之耳順以後の弟子等は、皆得之たりとかや、景憲無文字なりと謂に傳あり」

 と、これで見と、当時に於ても何かこんな噂があったものと思はれるのである。田中義成博士の「甲陽軍艦考」は、こうしたものと『武功碓記』竿から立論されたものではなかろうか史家の御教示を願ひ度い處である。更にこの辨疑の著者に最初の誤謬指摘の攻撃より一転して、軍法の良幹に説き進んで軍巻の信憑すべき点と、その辯護さへ試みているのである。

「凡甲陽軍艦に歴代の違背と、誤詫と多しとて、必此書を放擲すべからず、亦景憲先生を誹すべからず、彼の文公の楚辞を注するを不視や、未疑を決し玉はず、雄才鴻学の人すら如此、况や本朝近世の人に於てをや、往昔准后源親房卿は宏才博学にして職原抄を撰し、萬代皇道の格式なれども、新書にも亦誤謬あり、唯故例のみに不限、官職の違背あり、といへども、含之に非ず、亦彼卿を以て短才薄知と称せず、当時亦此書を以て規模とする處なり、親房卿は南朝に奉佐して末代皇道の傾廢を慨撰之玉ふといへども(委曲職原抄大全に載之)時戦国の巷にあって、博く画策を考鑑する事、不能して闇に筆記之、故に粗、其誤謬なきに非ずといへども今に臻て猶用之、處なり。此の甲陽軍艦も亦然るが如し、景憲先生、大乱の後に出て撰之の持、家々の諸録、系傳處々に埋没し、或は兵燹の□(示に央)禍に罹って未だ世に流洋するに不遑、故に先生も廣く考ること不能なり、其證当に視つべし、信玄の戦記の外、他邦の事跡を談話するに至て多く此過失あり、しかりといへども全く斯の軍艦を謗誹すぺからず、凡先生の撰之の、本意は、故實を記録して史譜に類するに非ず、美談を編集して世人の耳を悦ばしめんとに非ず、彼我を建立して武田を責ばしめんとに非ず、抑揚與奪に事を寄せて、軍艦の真偽を辨じ難からしめんとに非ず、先生の本意とする處は俚言、姦語して世人の情を其の好む處に落さしめ以て兵道の玄々に誘引せんと欲する處なり。雖然世に不知之、唯、愚然と其の書を信じて其説に泥み終に自己の好む處に願て先生の本意を失却すること又嘆之ざらんや」 と烈々軍艦擁護の筆陣を張り、更に論じ去り、論じ来って、「夫、甲陽軍艦を読むもの麻の如しといへども或は妄説を愛し、或は誑詫を信ずる輩多くして、且我意を任せて種々の偽説をなし、剰へ其奥儀を辨ずる事、不能虧、愚哉惑哉、自ら好む處をば好之、自ら悪むところをば悪之、猶不厭して、遂に奮本を増減して先生の本意を減ずること、諺に猶謂欲克其角殺其牛是也、可視、先生の斯書を著すこと、信玄の戦時許多なりといへども其實儀を不記、譬ば十を以て一を挙げたり、然るに人不識之、其各我が賞す、處を以て、過不及の思をなし、剰へ其意を不辨、適其記の委きを視て種々の辟案をなせり、凡軍鑑に戦を記する事惣て譬を以て形容之、隠語なして以って誌之事、軍法の巻の始に謂ふ如し、(軍法の巻に云他國為隠謀、無傳受、而不知様に書之と云々)豈に軍法のみならんや、本書全体如斯、世に不知之、或は川中鳥の一戦を評し、或は戸石の戦を判ず、皆影を留て形とするが如しと言へり、ここにおいて秘傳あり、通之、則井玄奥を得、且ッ先生の軍艦を編るの本意を知るべきの者なり」 と。

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「此の巻末、より一、ニケ條は、天正五年の暮に弾正下書をせられしを春日惣二郎請取りてかきつく者なり」 と、次は「命期巻」でみるが、この處は賞めてある。次で原隼人佐を鎌倉へ下見に行かしめた處であるが、これは、軍鑑にはない。次いで、瀬沢、平沢、大門峠の合戦の條を論じ、此の間に未だ一戦があったとしている。そして又、それを載せざると載せたるものとある事を指摘し、「本書に戦の脱漏限之べからず、此の一戦加るとも別の脱漏を不知、増補して以て先人の過ち覆事を得ぺけんや、後人の御慮笑に堪へたり」と云っている。次いで山本勘助問答に及び、「天正十六年二月十五日、晴信、山本勘助晴辛を召して八幡の社頭に於て軍事を問答し玉へり、時に勘肋、大内大貳義降卿、家臣陶尾張守晴賢に□せらるゝ事を述て、信玄を諌諷す云々、考に大内義隆卿、陶尾尾張守が為に長門国深川の大寧寺に自殺し玉ふは天文二十年九月朔日なり、本書軍艦に、晴幸大内家滅亡の事跡を以て信玄に諫話する時日は、天文十六年二月十五日也、道鬼通達自在を得るとも五年以後義隆滅亡するを識て以て信玄に告げる事を得んや、彼道風が和漢朗詠を翫ふ属なるべし。

 と言っている。軍艦の勘助問答の説には此の事もないのである。只信玄に軍事を問われた時、駿河に居た折信虎公が今川義元公によく話したと言ふが、当武田家には十二名の名臣があってその誰々はどう言ふ様に兵を用ひるとか言った事で、勘助如きが仲々申上げる可きではないと言ったと言ふのであって皆勘助の奥床しきに感心したと言ふのである。最も勘助申上る條々としては大内が陶に大半国をとられたとはしてある。

 此の『甲陽軍艦辨疑」の著者も最初は勢ひ込んで「高坂神人に非ず」とか「後人の慮り笑ふに堪えたり」とか「道鬼通達自在なりと雖も五年以後の事を信玄に告事を得んや」と言った調子で、一々その誤謬を指摘して来たのであるが、段々研究して見てこの「本書軍艦」なるものが又信用すべきものでない事を気附いたのであらう、途中で誤謬を辨じ著といへども清書の時に及て故障ありて以て速に其編を終へん事を欲し粗略之、十を以て一を壓し、余は准して知らしめんとす、意を付で考覧るべし」とさじを投げ出しているのである。要するに、「此書、類本多くして、然も其の實なるものは希なり、甲陽箪鑑と題するといへども、文の増減有って、正偽辨じ難し、書毎に如若なる則は、何を以て真実の軍艦とせんや」で解らなくなってしまったのであらうと思はれるのである。筆者も又、「余は推して」知って貰ふ事とする。この「辨疑」を辯辞駁して見た處で、仕方がないし、そんな事を繰り返して見た處で始まらないから、一々例證はしないが、此虞でこの「辨疑」の著者は飛躍して居るのである。「清書の時に及んで故障あり」であったかどうか知らないが、攻撃から転じて辮護になっているのである。即ち「案するに軍法の巻は高坂霜台が自記にして間言する者なし、然るに世に流布の本。端書有之と無との異あり、亦巻尾に一章を記すると、不記との書あり、殊に本書軍艦巻の十五に至って所謂軍法の巻なり其章世に用る書に、比之則は甚だ繁多なり、将に此巻を以て正とせんか且つ世に流布する書を以て偽とせんか、如是毎書差異ある則は悉く後人の所為なるべき歟、或説に云、世上擴充の書は軍術に便ある要樞を此巻より抜粋する處なり、と云々、是誤れり。然るにはあらず、軍艦第十五巻は編輯の砌其巻尾に追加して以て第十五巻とするなり、世に学用する書は三ケ條試と云ふより及築城の傳に至る迄凡一百余箇の條数是霜台が自記、可疑ものなし、雖然世に堊亜と誤り、惑傳の邪甚だ多して、信用し難き者、十を以て八つに充る宜正傳を得て以って愛用すべし」 と、研究して居る内に解って来たのであろう。更に「案ずるに甲陽軍鑑と題する書、區なりといへども、古本は二十三巻、新本は二十巻とす。是後人本書の得意し難きに因て種々の説をなし、詫を演る者なり、勿用古本二十三巻是景憲先生の述作なり、此の書に據て其の正傳を得ば、猶水を飲て冷煖自知するが如くなるべし、慎んで新本を用ゆる事勿るべし」  と、此處に至って甲陽軍鑑の真偽は自ら判然するであろうと思はれる。 尚又山本勘助の子である関山派の僧が書いたと称される出所に就ての誤傳と思はれるものを此の著者は左の如く述べている。

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