さぶやんの”山梨歴史ジャーナル"

山梨は歴史・伝説・民話のふるさとです。

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  <山本勘助資料集>
 ◎http://sky.geocities.jp/yamamotokannsuke2003/



山本勘助が可哀想
  
 何故かというと

 今年で死ぬのです。
  

 NHK大河ドラマ

 「風林火山」とともに、

 しかし帰るところが

 無くなってしまいました。


 一年間で、墓や史跡が日本中に

 できてしまって。


 このページは、

 歴史家と家伝が結びついて

 行政の後押しで、
 創られた歴史の間違いを指摘する
 ものです。

 歴史家と行政で
 歴史を創っていく
 時代になってきたのです。

 勘助も、NHKドラマで 生き返り

 北畠 二番煎じの 風林火山

 歴史家 勝手に作る 戦国時代

 百もある 勘助画像 声再生

 何もない 大河ドラマで 首繋ぎ

 どう見ても 時代が合わない 市川文書

 歴史家も テレビに準じた 史実を創り

 屋敷墓 埋まった私は 赤の他人

 行政が 率先垂範 歴史創作


 <さてここからが本題です>


 山本姓と中村姓

 「山梨県姓氏歴史人物大辞典」

 北巨摩高根蔵原を探ぐって見ると
 そこには歴史家がみなっかた資料があり。
 これでU氏とE氏の歴史のいい加減さが
 わかります。




 山元・山下・山元都・山茂都・山許とも書く。
 全国人口110万。上賀茂姓山本氏、
 伊勢内宮に奉仕する荒木田姓山本氏、
 近江国山本発祥の清和源氏流のほか、
 武蔵・三河・駿河などのも族があり、
 甲斐には巨摩郡の清和源氏義定流の氏がある


(姓氏家系)。
『甲斐国志』に、

 武田家臣山本土佐守(忠玄)が巨摩郡武川南官(韮崎市)に住むとある。

 土佐守は『甲陽軍鑑』に小人頭十人衆・横目付衆とみえる。
 その子忠房(弥右衛門尉)は武田氏滅亡後徳川家に仕え、
 天正10年8月2日の徳川家印判状で
 巨摩郡甘利上条(韮崎市)などで四二貫余が与えられ(韮崎市誌)、
 同年9月5日の同家印判状では同郡若尾(韮崎市)・甘利上条などで45貫余、
 さらに同17年11月23日の伊奈忠次知行書立では同郡長塚郷(敷島町・竜王町)・長松寺郷(甲府市)・上条東割(韮崎市)・上条北割(韮崎市)などで七四九俵余を与えられている(甲州古文書)。

 関東入国後、忠玄・忠房は八王子千人頭となり、忠房の子忠告(弥右衛門)も同職をつとめた。天正10年12月2日の武川衆定置注文に山本内蔵助がみえる。

 天正起請文には、近習衆に山本源三・山本主殿助、小人頭衆に山本孫右衛門(弥右衛門)、原隼人衆に山本源三、一条衆に山本源三、直参之衆に山本十左衛門の名がみえる。

 また『甲陽軍鑑』は御伽衆に山本大琳を載せる。大琳は信玄の侍医であった。

 山本十左衛門尉は
 天正10年9月5日の徳川家印判状で巨摩郡下河原(甲府市)などで80貰余、同2年間正月14日の同家印判状では下河原などで36貫余を与えられている(甲州古文書)。

 天正7年6月1日の小山田倍茂適所のあて所に山本宗左衛門(義氏)が、
 同10年7月9日の小池筑前守あての徳川家康書状に山本帯刀成氏の名がみえる(同前)。      

また信玄の軍師と伝えられる山本勘助は、俗説では三河牛窪(牛久保)の出身で天文12年ごろ板垣信方の推挙で武田氏に仕え、足軽大将となって信玄の諸戦の軍議にあずかり、永禄4年の川中島の戦で戦死したという。

 従来、勘助は『甲陽軍鑑』によって創出された人物といわれることが多かったが、近年発見された市河家文書で実在が確認されている。ただし、その活躍や役割については、『甲陽軍鑑』による脚色が多いとみられる。


 『甲斐国志』には、
 巨摩郡蔵原村(高根町)の諏訪明神の江戸期の神主山本和泉、八代郡内船村(南部町)の八幡峯神社の江戸期の神主山本修理の名がみえる。


 慶応4年の書上では蔵原村諏訪明神の神主は山本敬之介、八幡峯神社の神主は山本肥後とある(甲斐国社記・寺記)。


『一蓮寺過去帳』には、

 文明16年に山本とみえるほか、慶長10年山本江雲ムスメ、同15年山本右近丞江雲斎、同4年山本三郎右内主、同21「年河尻町(甲府市)山本市衛門母とみえる。

 井伊家家臣山本元叙の曾祖父山本閑斎は山本勘助の末流で、武田氏滅亡後は医者として井伊家に仕えた(伊井家家士由緒書抄)。

 八代郡内船村(南部町)の八幡神社本殿の文政六年の棟札に、大工源姓山本政兵衛森久の名がみえる(山梨県の近世社寺建築)。

 『峡中家歴鑑』に載る西八代郡栄村内船組の山本儀陸家は、

 本姓が藤原で、藤原鎌足の後裔藤原丹波之接を祖とし、嘉祥2年山城より甲斐に来て河合(河内)郷内船に住んだと伝える。二四代与右衛門実賢は伊勢の北畠氏に仕えていたが、のちに浪人して同地に戻り、藤原を改め山本と称したとあり、同村八幡峯神主の山本家は同家より分家した藤原定光を祖とするという。

 <●ここからが重要>

 同書に載る北巨摩郡熱見村蔵原(高根町)の山本久稔家は武田義光の後胤山本七郎左衛門尉某氏を祖と伝え、

 某氏は三河牛久保の郷士で、甲斐に来て武田晴信に仕え、武道兼勤の祝となり、神官職を継いだという。慶応4年の書上にみえる内船村諏訪明神の神主山本敏之介は山本久稔のことで、明治7年解職ののち同村で帰農し、今の名に改めたという。


 また同書に載る同郡大草村上条東割(韮崎市)の山本伊之作家は、慶長年間同村に来て丸山(韮崎市大草町上条東割丸山東か)を拠点とした山本蔵之介に始まり、その子与三郎は帰農したという。


 なお同家は三河牛久保の浪人で甲斐に来て晴信に仕えた山本土佐守を元祖と伝える。

 さらに同書に載る中巨摩郡今諏訪村(白根町)の山本重太郎家の本姓は塚原で、永徳年間巨摩・山梨両郡に領地を有していた塚原讃岐守を祖とする。
 
 その子弥六右衛門高雄は天正年間武田家に仕えたが、
 その子五郎市は故あって信濃諏訪に転居し、同地に帰来したときに諏訪明神の名をとって諏訪村と命名し、数代を経て巨摩郡一之瀬村(市之瀬村、櫛形町)の山本又兵衛の子五左衛門が養子となって同家を継ぎ姓を山本と改めたという。


 『続峡中家歴鑑』に載る中巨摩郡睦沢村獅子平(敷島町)の山本文兵衛家は、豊臣秀吉の家臣で浪士となり、同地に来て寺院などを設立した山本某を祖と伝える。

 同書に載る北巨摩郡中田村中条上野(韮崎市)の山本又左衛門家は、
 三河中窪郷士山本又左衛門の子で天文年間より武田家に仕え永禄四年川中島の戦で戦死
した山本某を祖とし、その子帯刀は武田氏滅亡後同村にて帰農したという。

 また同書にみえる東八代郡黒駒村(御坂町)の山本幸左衛門家の本姓は高野で、諸国を遍歴して真影流の達人となった高野雅楽之介を祖とする。

 その子幸左衛門は開墾事業に専念し名主をつとめたが、男子なく山本家より智を迎え姓を山本に改めたという。 

 巨摩郡西条村(昭和町) の若宮八幡・義清神社の江戸期の神官山本忠告は山県大弐と親交があり『月鳴集』などを著した。義清神社の神官山本高城の次男として生まれた山本節(元治元年〜昭和13年)は早くから自由民権論を唱え、

 明治19年の 『甲陽日報』創刊に参与し、『山梨日日新聞』主筆をはじめ新聞界で活躍、のち甲府商業学校教諭をつとめ、また峡雨と号して詩文に優れ、昭和14年『山本峡雨遺稿』が発行された。

 なお作家の山本周五郎(明治36年〜昭和42年)は本名を清水三十六といい北都留郡初狩村(大月市) に生まれた。

 『山梨鑑』には西八代郡市川大門村(市川大門町)の製紙業山本松書が載る。県内に山本は2039戸、山元は2戸。甲府市に多い。

【三つ巴・割菱・丸に三つ柏・丸に違い鷹の羽・丸に桔梗】

 県内四三戸。甲府市に多い。【丸に違い矢】

北巨摩郡高根町蔵原 中村姓
 
『武田家過去帳』に

 弘治二年逸見蔵原(高根町)の中村右近丞がみえる。

『誠忠旧家録』によれば、

 孝安天皇の時代に山城国の砥仙太老司が甲斐に来て耕作を教えたといい、その子孫が巨摩王と号し、その後胤という巨摩郡小池村(高根町) の中村治兵衛正俊。

 また同書によれば、北巨摩郡熱見村(高根町)の中村与平の祖先は尾張の人といい、江戸期には長百姓をつとめたとある。


 <写真は、 その内容の再検討を迫られる二書>

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