さぶやんの”山梨歴史ジャーナル"

山梨は歴史・伝説・民話のふるさとです。

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 45、江島生島事件(秋元但馬守)  一話一言(大田南畝)

 松平保山〔大老・柳沢吉保〕御咄に荻生総右衛門申候由秋元但馬守様は御上御四代の御執政被成終に何の御しおちもなく名人と呼られし候に今度江島殿御詮議はおかどちがひと奉存候其子細は周禮と申天子の役筋を書候書に宮中の官女の姦犯の罪をさばきには物静なる物かげにてひそかに糺明するものと見へ申候其上女の科は天下へ掛りたる謀叛がましき事は先に希に候多は先に色情までの事にて候此年九月は秋元侯には御死去可被成候そのわけは年久しくあやまちなき御政事になれ給ひたる御事なれば此度の評定さはき(裁き)大造過たる事は必御後悔可有候さりながら夏のうちは陽分にて候へば人の気も淋しからぬ時なればさして御病気も出まじく候九月は肅殺の頃なれば此時に至りて数十年の勤労も出此度の御後悔も出會て御病気つかれ候はゝ御平癒有まじくといひたる総右衛門はじめ御はなし申たる時うらや算にては有まじとて果してその九月御死ありしを安藤仁右衛門かたりき候。云々

 46、喧嘩傘(武田信玄の冑)   一話一言(大田南畝)

 是は武田信玄の家にて號する冑(かぶと)の名なり、天草島原両日記は松平伊豆守信綱の嫡子甲斐守信綱の記されし記録也、予所持なす所也、其日記に
 四日大磯 小幡勘兵衛景憲遂行自江戸来賜ル冑一首於武田信玄號喧嘩笠。
 

 47、阿福傳   一話一言(大田南畝)
 阿福。甲州都留郡忍草村庶女也。家世仕於村民五郎右衛門者。有恩舊。不幸蚤喪夫。獨撫遣孤。事主癒謹。誓而不更志。以貞純稱焉。五郎右衛門。世業農桑。頗豪于閭里。中年患癩。資斧耗於巫醫。且亡妻。獨餘孩兒于襁褓。煢々形影相吊。於是世族奴卑。皆棄而不顧。唯阿福留而不去。竭力供給。一夕人定鐘。詣山神祠。號泣悲求資冥助而救主病。忽然風雨震雷。大木顛于側。阿福神色不撓。黙祷自若。須 天霽斗皎。 氛自消。邦俗毎月念三夜。香燭不寐。以祈天佑。阿福嘗當季冬廿三夜。候主就寝。竊出祓浴深渓。因端坐水心。以遅月出。寒水噛腋。霜雪襯肌。神色不撓。黙祷自若。凡所以祈以身代主。發於懇誠惻恒。無所不至。既而主病彌留不寐。加之遭歳不易。田園盡沒于息。宝如懸磬。莫所依頼。先是遺孤稍長。名六右衛門。鬻身於峡南八代郡末木村遂家焉。於是阿福背負病主。手挈幼主。艱苦跋渉。遠寄末木村。結一蝸慮寓之。毎晨夙炊。躬出傭作隣里。晝間少暇。電奔□存数次。至夜伏侍牀頭。以軟語慰愉其心。祁寒以躯煦其足。暑日負就美蔭清之。宵間以代竹 □。徹明不懈。以為常。會出得一食獲尺帛。持帰奉主。己則糟糠不厭。鵠衣不属。行年五十有八。未嘗稍老。動作自若也。主嘗欲使兒學書。而憂匱楮筆。阿福日夜倍緜。購而得之。須之主又自語曰。文房諸友粗具。獨奈缺几案何。阿福乃托工匠造一卓子。為之賃傭。以讎其價。凡所願欲。多方營辨。以適其志。皆類此。六右衛門性朴素廉直。非其力不食不衣。力養積年。以孝聞焉。其妻亦能事夫姑。是以雖貧擧家敦睦。无些間言。此来父老里正等。具状告官。懸尹武島氏遣吏驗覈。私領俸金。賞賚天明戊申春二月既望也。里人源子謙見余于櫻水藩邸。審語始末。且請余為著小傳以公世。余聞之慨然而嘆曰。鳴呼僻邑庶賎之女。目無丁宇。非有諷誦教訓之素。而秉彜良心。發於天眞。一失所天。不曰人皆夫。知有主而忘其可不請盛事哉。實風教之所関係。不可以不文而固辭。因敍梗慨。應需如此。
前肥佐喜後學鶴山石有撰
  甲州人志村禮助忠女傳を著す。

 48、蓬莱   一話一言(大田南畝)

 およそ日本にて蓬莱と稍する所多し。或熊野、日本僧傳の説、或曰富士、義楚六帖富士縁起の説。或曰熱田、曉月集瓊華集の説、或曰加賀白山、日本霊異記の説。或摂津住吉、六家抄注説。或曰伊予三島、椽樟記の説。むかし蓬莱方丈瀛洲の三島うかび出たる故に號す。或曰安芸厳島、源平盛衰記高倉帝願文の説。或曰在二丹後国一、丹後地志の説。云々

 49、鶴郡鶴羽記   一話一言(大田南畝)

 鶴郡属峡中。乃在富士嶽之北。當初人王第七世。孝霊帝七十二年。秦始皇遣徐福。發童男女数十人。入海求仙。其所謂蓬莱者。盖吾富士嶽是也。徐福既至。而知秦之将亂也。留而不帰。遂死于此矣。後有三鶴。盖福等魂之所化云。其鶴常在於郡。故名焉。郡分上下二郷。上者曰大原庄。下者曰羽置庄。又有九山八湖。皆仙境也。元禄十一年春三月二十九日。一鶴死於大原。吉田村之民以白官。官遣川井渡部二吏 看之。以其肉之両翼献東都。葬其骨於村之福源寺。謚曰浄鶴。客歳寛政甲寅春三月。雙鶴下吉田村。自以觜抜羽。翩翩乎如白蓮之墜落。犬群吠之。人集觀之。則聯翩沖天去。而不複下。後遍求諸九山八湖之間。遂失其所在。盖登仙去耳。今歳卯春正月。州之等力村萬福寺主得其一羽。以珍之。請之記。予聞晉太元中。武陵漁者入桃源。蓬避秦人。傳以為奇事也。然而重往。則遂迷不複得。亦蕉鹿之夢哉。今秦人之所化鶴。亦雖既登仙去。而不可複見。其羽依然而存。則實是奇事。實是奇物。豈可不珍焉乎。豈可不記焉乎。寛政乙卯夏六月甲辰 黒浦霊松龍菴義端撰
 右之記及甲州等力村萬福寺主三車上人携来
 
 50、甲府宰相殿御加増   一話一言(大田南畝)  

 寛文年中日帳写 寛文十戌年六月十日
 甲府宰相殿へ三千石づゝの御加増にて岡野長十郎戸田作右衛門両人被進候。

 51、白石書簡   一話一言(大田南畝) 

 大久保半五郎様  新井筑後守
 先日考被思食御芳訊忝奉存其後御近所過候事有之候へ共御約束に任せわざと不申入候き其後又満次郎様御出被下久々にて得御意候騒然その日は内容有之故に満々とも不申承千萬御残多次第候其節に御物語被成候閑家之系図御携御惜し被下熟覧候此方にて先年古文書のまゝにて見候時にうつしとめ候ものと考合候に系図の詞書符合候事もなく不審のものに候御心得のためにもと存候故に手前にうつしとめ候うち要文共少々うつし進し候御覧合せらるべく候甲州にて後閑の地を宛行はれ候よりして後閑と改めそのゝちまた上条とも稍せられ候事かと見へ候當時も後閑と申す地定めて可有之廐橋邊かいづれの郡に属し候やらむ此流はいかにも京兆家にて永禄の初年に本領を失はれしと見へ候彼本領は甲州より小幡に宛行られしと見へ候へば甲州の為に本領うしなひ降参の事に候ひしがまた北条家のために本領うしなひ候て甲州へ降参候又そのゝち北条へ属せられ候やらむ後閑の地までうしなはれ候はたしかに天正十八年北条亡ひ候時の事と見へ候本家にて古文書の終りと永禄の初年までとの間は三四代ほどの間にも可之候やらむよく御考御覧可被成候。
 御物語の西上野の寺尾の地の郡はいかに寺の名いかに候歟秋元鳴瀬と同返候月齋家譜はわすれ候いつにても御次手に御書付可被下候。
 満次郎殿いまだ御滞留に候はゞよろしく奉頼候桃井の家系の事被仰候き御帰郷之後御心がけ被下候様に申上度後閑系図即今返上候條御傳達可被下候此使は詰所へつかはし候故に御報を申請候に及ばず御取次にたしかに預置罷帰候へと申付候間不及御既報候以上
 正月十五日
  右得高橋氏所蔵写の府中
   寛政戊午年正月念八    杏花園叟
 

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  「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」は素堂の句です。
<写真は素堂に最も近い姿です>


 私の渾身の「山口素堂」の調査報告です。これを仕上げるのに10数年かかりました。

 <http://homepage3.nifty.com/hakushu/perm-ex.htm

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甲斐の夜明け
 山梨の中心地の甲府は周囲を山に囲まれてています。国道でも電車でも、塩山を通過するあたりから、山が急に広がってきて、桃の花の時期には、花の中に甲府付近が遥か下に現れます。

 甲府盆地には全国各地ある湖水伝説があります。大昔は犬湖水であったといわれています。時代を少しだけさかのぼれば、現在の中央市付近には小さなため池がたくさんあり、地面を少しほれば水が溢れたものです。

 そのころは、甲斐の人びとは、湖水の周辺の山腹や小高い丘に住んでいました。人々は大きな湖水を眺めながら、湖水の水を払い、そのあとを田や畑にLたいと願っていました。

。そこで人びとは神の助けをかりて、下流の岩を切りひらいて、流水の道を広げ、少し筒田畑を増やしていきました。

 その内容にはいろいろな説がありますが、蹴裂明神(けさきみょうじん)という神があらわれ、湖水の水の出口をふさいでいた大岩(南巨摩郡鰍沢町付近)をやぶって富士川へ落したため、盆地にはじめて人が住めるようになったという。

 ある神社に伝わる話では、むかし甲斐の国は海国が一面湖水であったころ、二人の神が力を併せて岩石を取り除きました。溜まっていた水は水路を通Lてから、しだいに湖水のしたの部分が見えてきました。

 こうした神々に感謝した人々は神様に感謝して神様を神社に祀りました。大昔の人々は植物でも動物でもどんな小さい生き物にも神様がすんでいると信じていました。人々が困ったり悩んだりしていると、神様が救ってくれたのです。
 
 現在はこうしたこともなくなり、科学な判断が目立ち、ものに感謝するという気持ちが薄れてきています。

 湖水を平野にしたのは元正天皇の養老年間に行基(ぎょうき)が甲斐国に遊行したとき、南の山を切りひらいて水を富士川に流したので、国びとがその徳を感謝し、中国の萬王の徳にたぞらえて「兎の瀬(うのせ)」と命名したも伝わっています。

 こうした話とは別に、甲府盆地の周囲には、大昔の人々の住んだ跡がたくさんあって、中には全国でも有名な遺跡もあります。(これは「歴史さんぽ」でどうぞ。)

 上流にたくさんの雨が降り注ぎ、漏斗(じょうご・入り口が広く出口が狭い容器)の
ような状態を入り口と同じように出口を広くしたために、川の流れがよくなったことの伝説であり、これはその周辺に住む人たちが長い歴史の中で工事に携わった結果であり、人も神もひとつになって、成し遂げたものと考えます。

 皆さんの地方にも同じような話がありましたらお聞かせください。


写真は私の紹介です。普段は製材所を経営していて林業全体にかかわっています。

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「吉野家祖先累代略歴」

  弾正貞辛廿七歳ノ時、兄貞宗子ナキ
  タメ長男ヲ古野家ノ相続者トナシ、諸
  所ヲ遍歴山木浪人ト称シテ参州牛飼ニ  (牛窪)
  住ス。時ニ大林勘左衛門ノ媒介ニテ大
  橋入道ノ娘安女ヲ妻ニ迎へ軍学ノ師範
  ヲナス。貞幸他所ニ住セシ故、吉野ヲ
  変へ山本ト林ス。駿州山本ニ帰り住ス。
  (中略)
  貞幸四十八歳ノ時父貞久夢枕ニ立チ
  男子ヲ生ム。即チ明応八己未正月九日
  寅刻ナリ。之ヲ源助ト名ズク。幼少ノ
  時ヨリ軍学ヲ学バセ剣道馬術鑓術其他
  諸芸ニ達セリ。廿歳ノ時召サレテ武田
  氏ニ仕フ。源助大林勘左衛門ニ深キ縁
  アルニ由リ勘ノ字ヲ貰ヒ勘助ト改名ス
  (小字ニテ)
  勘助大林勘左衛門ノ養子トナリシガ、
  廿歳ノ時政有リテ養父ノ許ヲ去リ
  武田信玄公ニ仕へ其名ヲ著ハス。大将
  ノ列ニ加ハル。五十二歳剃髪シ山木勘  (助)
  入道ト号ス。永禄四年辛酉九月十日信
  州河中島ニ於テ戦死ス。享年六十三歳。

勘助の生活信条(3)

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41、
 海川に臨て渡賃をかれこれ惜み時剋をうつすは悪し。一寸の間に風雨の大変
有は不得止事逗留して用向後れ迷惑するもの也。

42、
 駅馬に荷物を付下す時、下人計りに任せず自分能く見分すべし。馬借は正直
にても道中は灰賊之廻り心切に見せて手傳掠取同類江手早く渡し隠るゝ也。

43、
 道中泊宿を取るに心得あり。心安きを取得として宿外れの小家に泊るべから
ず。極めて悪當の落今集る處と知べし。駅の真中の宿を泊とすべし。

44、
 泊りの宿につかば其旅装束のまゝにて立廻り見所は束西南北より庭口雪隠裏
庭等抜道座敷間取萬事胸に心得べし。是火事地震盗賊の為也。

45、
 何れ泊宿にて床の間の懸物あらば立寄掛物をまくり楊後ろを能く改め見るべ
し。又押入等も襖を明て見るべし。板壁に切抜の穴ひよわき板壁等いぶかしと
見ば少も驚かず扨急用を思い出したりとて食事を急ぎしたゝめ駅馬に荷物を付
させ夜に入ても立出二宿も行過て泊るべし。
 此あやしき一事は手前家来にも語るべからず。宿にて推量する時は却て災の
発る事有也。往還の横道又山家の旅宿には如是場所有事也。

46、
 旅行の前に用心鈴(四つ・五つ)又竹(釘十本程)用意すべし。泊布我寝所
入口々へ右の竹釘を打鈴を糸もて釣し置べし。目さとき人にても旅の労に神心
たよわく成也。

47、
 泊宿大家にて座敷穂広くとも壁際戸障子襖際江は寝べからず。外より殺害の
災有もの也。宿のもの寝床を敷取とも跡にて自分取直すべし。座歎の広くとも
先は眞中へ寝べし。働き自由也。

48、
 宿より燈を消へざる様にさし置とも自他の輩寝しづまりて後燈火を吹消すべ
し。是は利有て害なし

49、
 何程急用の旅行なりとも上下三人迄は余り未明に立べからず。灰賊強盗共朝
立小人数の旅人を待伏する事あり。たとへ切抜るにもせよ。此方に手負之者出
来る時は引合に相成又関所番所に而引留られ用辮のさまたげに成也。とかく旅
宿屋にてはいか程早くとも旅人を立せさへすれば、用向済事故不実の宿屋多
し。横道は猶東也。東の白むを待べき也。

50、
 念を入るゝには朝出立の食事争調る砌旅籠代を拂説宿へ申付昨夕宿着の刻限等手形立を書出さずべし。道中前後の場所刃傷の事変れる珍事有時往来を止めて旅人を改る時には右の手形を出して證據を云述通るに益有。

51、
 旅行は勿論常々宮寺へ参詣し茶屋等へ立寄り休息の折から不知人と馴々敷物語して長居すべからず。いか様の事出来し見捨がたき事あり慎べし。

52、
 下女下男を召抱に分別あり。男は尋常の手形にて宜し。下女の證文は念を入
べし。左の文言を入させべし。此女未縁邊々之約束無之何方より、茂搆無之御
安心可被召仕候勤仕候中懐妊致候共親類より、御主人江六ケ敷義不可申掛相手同志の相封に可仕候。

53、
 下人を召抱るに第一生国を尋べし。寒国の生の者の暖國にて仕よし。暖国に
て生の者は寒國にては仕難し。是等の心得あるべし。

54、
 数年召仕譜代恩顧の男女たりとも寝床へ呼付まじ不得止事用事有ば老女か少女へ用事申付べし。取分金銀出し入の所を見せまじ。下人は有信無義目にふれ己が一念発起の欲心より邪の悪事仕出す事あり。

55、
 召仕の男女若密曾の不埒あらば双方とも斬罪と古今とも武家の重き定法也と
云共色情は富貴の名主も下賤の者も陰陽合体の道人たる者にかわりなし。右様の事あらば主人勘弁して双方召出し当座のたわむれ歟夫帰の契約歟聞届べし。

 死生とも申合契りたりとの事ならば宥免し罪の程をゆるし所帯を持すべし。
 左候へば男女共心魂に徹し忝き事に思ひ込事有時先途の用に立事有べし。□今川了俊の條目に為恩死者は少く為情死者は多しと書れし也。

56、
 下人を召仕ふに心得あり。大寒大暑風雨の砌遠方へ使に遣し帰宅遅しとて呵
べからず。天気柑別而太義也食事して休候へと賞すべし。左すれば下人疲れの
心なく追々重る用事有りても進んで勤るなり。下の忠不忠は主たる者の心中心
にあり考へ見るべし。

57、
 上たる者時に応じ遊興酒宴せば下々の者共へ相応に何成共手当すべし。
   兵書云上下哀楽供ニスレバ無不成

58、
 主人不行跡か了簡違非義有時家人諌る推参也、と以の外に呵れ主従にほこるべからず。自分恥かしとて勘弁ぜず怒るべからず。諌言の始終を聞屈べし。不及とも聖代の諌皷を思ひ合すべし。

59、
 召仕の家人多少ともに心得あり。夫々得手不得手を見分け役前用事を可申付
其者不得手の用向不行届とて心に怒り立腹するは気随主人まゝ有もの他。何成り共人に勝れたる業有者は常不益たり共、不可拾既に楠正成常に不用の泣男を扶持して一戦に大功を立たり。
   良将ハ不棄人良匠不拾木

60、
 主人より家人江物を給ひ褒賞する時いか程気に入たり新参たり共先にすま
じ。古参の者を先に賞すべし。下の者己より目上主を敬ふよふに成也。

61、
 其家に奮功ある家人の子孫法度を背く事有とも吟味の筋卒爾にすべからず可
成丈助命捌勘考すべし。不得止事を罪なり共密々能く喩し迯すべし。

62、
 我手鎗持ものゝ指料又馬の口取し者の腰の物を吟味したしか成業物を指さす
べし。軽き者にても主人の側にはなれざれば也。
    
63、
 無是非次第出来我家来を手打にせんとする時先實儀の家人壹人呼次の間へ扣させて一方を明ケ置手討せん者を呼出し、しかじかの訳を申聞せ得とくさせ聲
をかけ討果すべし。我が怒りに乗じせき込ば打損じ取迯す時は水神汚名々得て
人前の交り後ち指をさゝるべし。又強勇の家人は却て主人を討て立退く事あ
り。然る時は子孫永々の恥たるべし。

64、
 山林を通る時夜中は猶更持鎗を心付べし。木の枝に鞘を引かけ抜る時は白刃
にては持せかたし。何にても常に替鞘を用意心懸べき事也。

65、
 夜道には必銘々着たる羽織を脱べし。若理不尽に切かけらるゝ有時持たる羽
織を曲者の面へ打かけ目隠として先を討べし。

66、
 夜中は手拭を腰に巻くべし(以下読み難し。文の終わりに三の徳有と也)
 (一本「寒夜は惣面をまき悪党を縛る時又ものを持つによし」とあり)

67、
 主人独り寝の所へ下人出るに間近く来る用向有らば四方々初め萬事眼を配る
べし。腰物を指て来らば猶更野心の程油断有べからず。不意の事有は笑種也。

68、
 朝タ馬の飼料は主人倶に世話ぬけめなく、下人江差圖可申付厩の下人は物毎手荒く不行届也。毎朝乗責前に飼料厚く行届いたわり遣は畜類とても自然と人の面を見覚え歓ぶ也。此恩を知て先途の用に立ちたる古来より例し有也。
   
69、
 紙縷(こより)を壹尺計り澁にていため所持すべし。白刃を交る時の柄へ巻
結びべし。血手のうちへ傳りても手心よし。

70、
 藁を和らかに打って二筋三筋懐中すべし。下人無き時はき物の緒切れ困る時
用意の藁にて緒をいか様にもすげベし。凡そ壹里程は用立也。

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