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31、一、武田番匠 秉穂録(岡田挺之) |

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31、一、武田番匠 秉穂録(岡田挺之) |
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21、甲斐国都留郡の縫之丞のこと 閑田次集(伴 蒿蹊) 享和二年(1802)十二月の末つかた、甲斐国都留郡小明見村の民縫之丞なるもの、其隣人の黄疸に悩みけるを、両親ふかく悲しみ、又代るべき兄弟もなければ、いかにもして病を癒しめんとおもふに、蜆は此病の良薬ときけば、もとめて給はれとたのまれて、三十里を経て、駿河の原よし原まで来るしに、年の終りなれば、さしもの街道も往来まれなるに、さるべき武士共二三人計具したるが、遙先に見えたれば、追付んと急ぎ、尿(ゆり)しながら行けるを、彼士見咎て、いかなる者ぞととふ、農民なりしとこたへしに、いか農民ならば大路に尿すべからず、畑ならば麦を養ふべし。道の傍ならば草肥えて秣によからん、大路にて穢を人に及ぼすべしやといはれて恥入、唯大人に追付まゐらんといしぎての仕業なりと侘ぬ。さて背に負けたる薦包は何ぞととふに、しかじかのよしを答へて、此比海荒て、やうやう此ほとりまで一升を得て負たるなりといへば、さる病に一升ばかりにては足じ、江戸に行て求むべし。いざつれ行んといへれば、故郷よりここ迄遙なり。また是より江戸まで、四十里をへてはいかゞはせん、年せまりて帰ることを急よしいふ。さらばわれ江戸に帰らば、速におうるべしと、其郷里荘官の名まで委しくとひきく、こはいかなる御方ぞととへば、それはいふに及ばずとて、沼津駅にて別ぬ。 |
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11、身延山七面堂焼失 半日閑話(大田覃) |
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江戸で語られた甲斐の民話
日本随筆大系四十三巻より抜粋
1、遊女八千代が噂 羇旅漫録(瀧沢馬琴) 八の宮は、遊女八千代にふかく契りたまへり。日夜をかきらず、放蕩その度に過ぎたれば。その頃の所司台板倉侯。屡々諫言すといへども。もちひたわず。板倉止むことを得ず。若干金を以て八千代を身請けし。この八の宮の献じ。しかし後八の宮を配流せらる。則ち八千代もともに配所に至らしむ。こゝをもて八千代が名。吉野より高し。 註…直輔親王は、後陽成帝第八皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪、名を貞純と改め給ふ。寛永二十年、甲州天目山に配流せられしとき、 ふるゆきもこの山里はこゝろせよ
竹の園生のすゑたわむ世に
万治二年帰洛し給ひ、帰属して以心庵と號し、北野に住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして、薨し給ふ。 (橋本肥後守経亮話) 追考…甲州一円は夏ほとゝぎす啼ず。かの国の人の説に。八 の宮甲州にましましけるとき。
なけばきくばきけは都のなつかしき
これより杜鵑なかずといふ。 (実兄羅文の話)
此里すぎよ山ほとゝぎす
程へて八の宮帰洛したまひぬ。 2、秉燭翁像 桂林漫録(桂川中良) 近来、甲州酒折宮の(日本武尊を祭る)本社の傍らに祭る所の。秉燭翁の社の扉に刻する像なりとて。流布する図あり。 秉燭翁像図(図略) 深衣の如き服を左巻まきに著。 (或人、続日本記養老三年の詔を引。上古は左まきなりし證 とす。笑う可し。左まきの詔。愚考あり。) 幅広の如き物を頭に頂き。渡唐の天神と称する物の形に似たり。甲斐名勝志(甲州、萩原元克著)見に。彼像の説を載せさる故。彼邦より薬石を鬻に来る。阿蔵なる者に質(たた)せしに。果して跡形も無き譌物なり。此像を見んとて。好古の人間尋来る事侍りと語りき。全く奇に誇らんと欲る。好事者の所為と見ゆ。憎む可く冤(うら)む可し彼社。尊の燧袋(ひうちぶくろ)を神体とする由。是は虚説にあらず。阿像帰国の後。其図を送り越す可しと約しぬ。 3、向火 酒折宮の因みに記す。日本武尊。駿河国に至り給へる時、夷等尊を欺きて野中に出し奉り。枯草に火を着て。焼き失ひ奉らんとす。時に尊。御姨。倭比売命(やまとひめのみこと)の賜ひたる火打袋より。(是酒折宮の神体なり)燧(ひうち)を取出し。御剣を抜て草を薙拂ひ。火打ちにて火を打。向火を着て焼退け。還出て夷どもを切滅し給ふ事。云々 4、、近代俗書真偽 蘿月庵国書漫書(尾崎雅嘉) (前略)百年以後にかきたる印行の記録、諸家よりいでたるは、各自の事故連続せざるより、すたり行になろこそ残多けれ。甲陽軍艦あやまり多しといへども、質にして事実多し。しかし是は甲州流、北条流、山鹿流など、小幡氏の跡をふめば今にすたるに、是さへ武田三代記出るになりぬ。甲陽軍艦にあはすれば、通俗のもの見るやうにて、二度とは見るべくあらず、云々 5、兼信秘蔵の太刀 煙霞綺談(西村白鳥) 兼信秘蔵の太刀三腰あり。赤小豆粥といふは三尺壹寸、鎌倉行光が作なり。川中島にて信玄と太刀打の時の太刀なりとかや。(中略)二度目の川中島夜戦に、甲州方の輪形月とかやいふ者を二太刀切付たるに、鎧かけて切先はづれに切付、あまり太刀にて輪形が持たる鉄砲二見当の上をはすに切落したるも、竹股兼光なりしとかや。云々 6、武田信玄 煙霞綺談(西村白鳥) (前略)往前元亀三年春、甲州武田信玄遠州に出張し所々を攻撃し、それより三州に打越、吉田の城を襲、此時吉田の城には酒井左衛門尉忠次守り居たるが、無勢にして 難レ拒城殆危 。ときに地士林 十右衛門景政といふ者あり。此者射術に達し、遠三の間に弓の弟子大勢あり。城危きによって彼弟子共大勢引き連れ、飽海口に出てふせぎ 放矢如雨脚(あめのごとし)依之甲兵隕命者居多(こうへい めいをおとすものそこぼこ)にして辟易し、信玄遂に振旅して皈甲州、(こうしゅうにかえる)次甚感喜あり。此由来を以て射術を励むと云ふ。云々 7、六郷の橋 柳亭筆記(柳亭種彦) (前略)『小田原記』永禄九年武田信玄小田原に人数少なき隙をうかゞひおもひよらざる方より小田原へ押し寄せるといふ條に、「橋を焼き落として甲州勢を通さず。信玄品川の宇多河石見守鈴木等を追散して六郷の橋落ちければ池上へかゝり」とあり、この時橋を焼き捨てし事のあれば、北条家の盛りなりし頃そめしにや。云々 8、誰やらのはなし 八水随筆 著者未詳 予がしれる大井佐太夫殿の申せし御方、甲州の族にて、花菱を紋とす。此家に勝頼の備前徳あり。先祖の器とては是ばかりなれども、用なしとてわらはれぬ。 9、大磯小磯 金曾木 (大田南畝) 相模刻の大磯小磯は人みな知る所なり。甲斐八代郡川内領に大磯小磯村と云うあり。山田茂右衛門御代官處なり。 10、甲州古鐘銘 半日閑話(大田覃)
甲斐国牧庄法光寺 奉鑄施鐘一口 建久二年辛亥八月廿七日 従五位下遠江守源朝臣義定 又云建治元年乙亥十二月八日 願主比丘尼新阿 當修理大勧進沙彌性光 建武三年丙子三月廿七日 重修理大勧進僧都清尊 定治五年丙午十二月廿七日
大 工 道 全
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