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創作歴史の代表者ー山本勘助 その実在を確認できたと絶賛され、お墨付きを与えられた 「市河文書」
この文書には複数の指紋らしきものがある。これは勘助が市河氏の家で書状を広げ読み上げた時についたものであり、照合することはできないが勘助の指紋とほぼ断定できる。
などとどこかで報道されたり、歴史学者が軽率な見解を述べると、次には 「・・先生がそう言っているから間違いない」 「間違いない」 「史実である」 と展開されていく。 事実は、最初に紐解いた御仁の手が汚れていたからかも知れないのに? <勘助(菅助)の名が見える武田信玄書状。参考資料「山梨県史」所収> 北海道 市河藤若殿 [本紙] 二七・七×四〇・九。 板井家文書(釧路市) 一、武田晴信書状 (竪紙) (長尾) (長野県) 注進状披見、仇景虎至千野沢之湯進陣、其地へ可取懸模 (景虎)(長野県) 様、又雄大武略侯、無同意、剰備堅固故、長尾無功而飯 山へ引退候哉、誠心地能候、何二今度其方擬頼母敷迄侯、 (長野県) 就中野沢在陣候勅、中野筋後詰之義、預飛脚候き、則倉 (群馬県) (長野県) 賀野へ越上原与三左衛門尉、又当手之事も塩田在城之足 軽、為始原与左衛門尉五百余人、真田江指遣候処、既退 散之上、不及是非候、全不可有無首尾侯、向後者兼存其 旨、塩田之在城衆二申付候間、従湯本注進次第こ、当地へ (虎昌) 不及申届可出陣之趣、今日飯富兵部少輔所へ成下知候条、 可有御心易候、猶可有山本菅助口上侯、恐々謹言、 六月廿三日 晴信 (花押) 市河藤若殿 勘助の戒名(法号) 1、 神山道鬼居士 (長野県 杵淵村典厩寺位牌) 2、 山本入道鬼居士 (芝村大宝寺阿弥陀堂傍ら) 3、 鉄岩道一禅定門 (富士郡山本村宗持禅院) 4、 天徳院武山道鬼居士(吉野家位牌) 5、 天徳院武山道鬼居士(高根町蔵原山本家) 勘助母の法号 本覚院智証日 (甲府) |

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