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流浪する武田家 ここでひとまず、武田家の系譜をたどってみると、二世竜芳は信玄の二男で名を信親(の ぶちか)といい、母は信玄の正室三条左大臣公頼の息女てある。長子義信の死亡後、竜芳 が後を継ぐべきところ、眼疾を患ったので、永録四年(1561)信州海野の家を継いで て海野二郎と名乗った。通称を聖道(しょうとう)様といわれた。 武田家滅亡の際 勝頼が新府城を去って東進する時、法流山入明寺山主の栄順師(信虎を諫めて自殺した 内藤相模守の子)は竜芳の身を案じて寺へ迎えいれたが、勝頼が天目山に滅ぶの報が入る と、竜芳はその夜、寺内に於て南自刃した。この時、竜芳のこ信道は、武田の血筋の絶え るのを心配した入明寺の栄順および長延寺(甲府市)の実了のはからいによって、長延寺 領の信州伊那犬飼村に難を避け、織田方の虎口を脱することができた。 その後、徳川家康が甲州へ入国し、長延寺の再興を詐したので信道は実了の後をついで 長延寺第二世となり、法名を顕了道快と称した。ところが、信道が長延寺に住すること三 十年に及んだ時、突然思わぬ災難がふりかかって来る。 信道・信正親子、伊豆大島に流される。 それは、当時関東郡代であった大久保長安が武田家遺族を保護し、それを利用して大名 になろうという野心をもっていたことが、彼の死後判明し、信道もこれに連坐することに なったのである。大久保家に、武田家の花菱紋があったことがその証拠とされ、信道はそ の子の信正とともに上州笠間の城主松平丹波守康長の下に預けられることになった。 次いで元和元年(1615)、入明寺の栄順や旧縁の人達の弁護にも拘らず、幕府は信道 父子を伊豆大島配流(はいる)してしまった。 この遠流には信道の妻「ままの局」をはじめ、譜代の臣九名が随従している。 大島での一行の生活の、辛苦はば申すまでもなく、信道は憂悶のうちに寛永二十年(1 643)三月五日に、七十歳で他界され、次いで局も後を迫われた。この間の断腸の思い いを書き連ねて入明寺ヘ寄せられた局の玉章(たまずさ)は入明寺の寺宝となっている。 なお、信道の大島での館や墓は戦後発見され、東京都史蹟となっている。 この後も、御子信正は,なおもゆるされず、さびしい月日を大島で過していたところ、 信道の旧臣臣の奔走により、寛文二年(2663)、幕府から晴れて赦免の沙汰があっ た。四十九年の歳月を寂しい孤島で難苦をなめた信正主従は喜び勇んで江戸へ帰ってき た。ところが、もと国事に関する犯罪の嫌疑者であるので、幕府に気兼ねして、唯一人進 んで彼等を世話するものがない。 |

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