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 助けてくれた内藤忠興夫人

 そこへただひとり奥州岩城平の城主内藤忠興夫人が手をさしのべてきた。この夫人こそ
天正十年三月、武田勝頼にに反して天目山に款を織田信長に通じ、勝頼をして天目山に最
期を遂げさせた、武田一族の小山田信茂の養女である。

 実は信玄の孫と伝えられ、早くから家康に侍って、女ながら戦陣の間に従い、その寵を蒙っていたが、後に家康が忠興に嫁せしめたものである。この後、信正は忠興の女を妻とした。時に信正七十歳、その妻は十七歳であった。そこに生まれたのが五世信興である。 この五世信興の時、重ねて幸運がやってきた。

 筆註
不思議な因縁である。子の内藤忠興の子風流大名内藤風虎は、「目には青葉」の山口素堂が江戸藩邸に出入りし、松尾芭蕉との出会いもこの藩邸であったとする書もある。


  柳沢家との関係

 当時、将軍綱吉に登用せられて威権並ぶものがない柳沢吉保の斡旋により元禄十三年
(1700)甲斐八代郡に武田家が新知五百石を以て封ぜられたのである。しかも、表高
家たることを命ぜられ、幸橋門外に新たに宅地を与えられた。以後、明治維新まで幕臣で
あった。
 柳沢吉保と武田家との因縁は、吉保の祖父信俊が武田家の庶流で、武田家滅亡と共に、
家康に仕えたのである。さきの内藤家の夫人といい、柳沢吉保といい、まことに不思議な
因縁である。特に柳沢家と武田家はこれ以後も相互に、養子縁組をとり交し、深いにしえ
を結んでいる。


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