全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 2

 山梨県の勘助伝説はそのほとんどが後世のものである。山本姓と何か所縁のものw持ったり作ったりして、何代か続くと、時代を経るとそれが伝承になり、やがて報道の手を借りて歴史に昇格していく。最近の歴史学者は史実と伝承や伝説との差もなく記して歴史を混乱させている。由々しき時代である。
 山本勘助とはとは違って、ここにあげる山本姓は正確なもので、こうした家系からも勘助伝承が生まれている。

 山梨姓氏録
山寺和夫氏著
山本姓
全国の各地に山本という地名があり、この地から数多い流派の山本氏が発祥した。全国の山本姓は、大別すると賀茂姓・藤原姓・清和源氏流・泉族・菅原姓・平姓・三枝姓の七流派に分類される。

中巨摩那田富町花輪の山本氏について、「誠忠旧家録」は次のように、その由緒を記している。
「左大臣藤原魚名の末孫山本勘助晴幸の裔にして九代後胤、山本式右衛門尚良、同八郎右衛門長建・同伊左衛門幸建」。さらに誠忠旧家録は「相州津久井境鶴川上野原通警備役、山本土佐守忠玄後胤山本金右衛門篤敬」と載せている。

「姓氏家系大辞典」によると、山梨県下の山本氏は、巨摩郡(北巨摩・中巨摩・南巨摩の三郡)の豪族で、山本土佐守は甲州武河(韮崎市大草町)の南宮に住んでいたという。
また昭和町西条の山本氏は、
山本土佐守の妻の実家で、清和源氏新羅三郎義光の後孫であるという。
寛政重修諸家譜に「山本冠者義重の十七代の後孫右衛門忠恒(九郎左衛門、武田信玄の家臣〉−弥右衛門忠玄(土佐、徳川家康に仕えた)−弥右衛門忠房(千人頭)」と載せている。松本次郎三郎の子七左衛門(法名了存といい、府中の検断役を勤めたが、故あって松木.の姓を山本に改めた。また五郎兵衛は甲金極印を賜ったと甲斐国志は載せている。尚前記山本金左衛門についての記事は、一部重複の点がある。

◎山本勘助
 甲陽軍鑑によると、天文十二年三月、板垣信方の推挙で、駿河から勘助を武田家臣に招いたところ、武田信玄は非常に喜び、最初は知行百貫の契約だったが、倍に加増のうえ、二十五人の足軽隊将に取り立てた。
その後五百貫の知行を与え、五十人の足軽隊将に格を上げた。これは武田家の宿埠である原・小幡氏と同列で、五人衆といった。後除髪して入遺し道鬼斉といったが、永禄四年九月十日川中島の戦に戦死した。行年六十九歳で身体に八十六を数える創傷があったといわれている。結局知行は八百貫にのぼる大身であった。
愛知県牛窪の人で勘助の墓碑は芝村大宝寺の弥陀堂の傍に建てられ、法名を山本人道道鬼居士という。
 また山本一本系図によると次のように記している。勘助の先祖、駿州源氏吉野冠者の後胤吉野浄雲入道貞倫は、累世山本村に住み、八幡宮の神官であった。貞倫の二男弾正貞久は今川家に仕えて武功をたて、氏を山本に改めた。兜の前立に八幡の神号を彫り、家紋に三巴を用いた。その頃の所領は山本村の内、三沢・看官・三河国(愛知県)加茂の内等合せて三百貫だったが、文明十年七月十二日、三河での戦に戦死した。法名を鉄開直入禅定門という。醸正貞久の子図書某は後に弾正と名を改めた。弾正に数人の男子があったが、四男源助貞幸は十二歳の時、三河国牛窪の牧野右馬允の家令大林勘左衛門の養子となり、名を勘助に改めたが、二十歳の時、故あって養子先の大林家を去りへ諸国を遍暦した。そして遍遊三十余年後、武田家に仕え、武田晴信の晴の字を賜り、時事に改めた。この時五十二歳で、法名を鉄若造一禅定門といい、静岡県富士郡山本村の宗持禅院に位碑が安置されている。しかし、勘助の経歴については別説もある。

◎山本某
山本勘助晴幸の子で、名は詳らかにされていないが、一本系図によると勘蔵信供といい、長篠の戦に戦死した。また饗場越前利長の次男で十左衛門頼元という者は、勘助の娘を妻に迎えて姓を山本に改めたという。
その子権平は永井信濃守に仕、え、山本勘助といった。甲府市の妙音寺の過去帳に、寛文十一亥正月二日本覚院智鐙日意(山本勘助母)とある。

◎山本土佐守
祖先の事については詳らかにされていないが、山梨県に昔から伝わる家柄と思われ、韮崎市大草町の南宮神社に住んでいたという。甲陽軍鑑は土佐守は小人頭十人のうちの一人で、横目付衆であると甲斐凰志は載せている。戦場へ出陣の回数十一度という武篇の勇士で、山本氏一本系図によると、土佐守の子に弥右衛門・弥三左衛門二二右衛門の三男子がある。長男弥右衛門の娘は、石坂金左衛門の妻になり、その子が山本家の継脱になったという。この後孫は東京都の八王子に居住している。また土佐守政道の子山本与次左衛門政法の後孫も系を伝えており、今も栄えていると甲斐国志は記している。

◎山本帯刀成行
 永禄十二年三月、帯刀は城郭の修築をしたと甲斐国志は載せ、三河風土記は帯刀の初名は新四郎といい、越後国に住居していたと記し、山本勘助の弟にあたる人で、兵学に達し、その後徳川幕府に仕えて、五千石を領知し、名を頼重といったという。

◎山本大琳
 甲陽軍鑑は武田信玄の侍医で、その後徳川幕府に勤任した事が編年集成等に載せてある。

◎山本金左衛門(甲府市柳町)
 町年寄の役を坂田という者と二人で勤めた。五人扶持を支給され、侍屋敷の明地六百坪宛預けられたという。金左衛門の家記によると、祖先は松木次郎三郎という。

山梨市・塩山市・北都留郡・南都留郡・東山梨郡・西八代郡の調査対象中に山本姓は含まれていない。

◎山本内蔵助正秀・同新八郎昌書・同左近丞秀次
 宝暦年中二七五一〜六三)、山本宮内丞という人が浪人して、韮崎市大草町の地に住んだが、後孫は東京都八王子市にあると甲斐国志は載せている。

開く トラックバック(17)

イメージ 1

イメージ 1

 助けてくれた内藤忠興夫人

 そこへただひとり奥州岩城平の城主内藤忠興夫人が手をさしのべてきた。この夫人こそ
天正十年三月、武田勝頼にに反して天目山に款を織田信長に通じ、勝頼をして天目山に最
期を遂げさせた、武田一族の小山田信茂の養女である。

 実は信玄の孫と伝えられ、早くから家康に侍って、女ながら戦陣の間に従い、その寵を蒙っていたが、後に家康が忠興に嫁せしめたものである。この後、信正は忠興の女を妻とした。時に信正七十歳、その妻は十七歳であった。そこに生まれたのが五世信興である。 この五世信興の時、重ねて幸運がやってきた。

 筆註
不思議な因縁である。子の内藤忠興の子風流大名内藤風虎は、「目には青葉」の山口素堂が江戸藩邸に出入りし、松尾芭蕉との出会いもこの藩邸であったとする書もある。


  柳沢家との関係

 当時、将軍綱吉に登用せられて威権並ぶものがない柳沢吉保の斡旋により元禄十三年
(1700)甲斐八代郡に武田家が新知五百石を以て封ぜられたのである。しかも、表高
家たることを命ぜられ、幸橋門外に新たに宅地を与えられた。以後、明治維新まで幕臣で
あった。
 柳沢吉保と武田家との因縁は、吉保の祖父信俊が武田家の庶流で、武田家滅亡と共に、
家康に仕えたのである。さきの内藤家の夫人といい、柳沢吉保といい、まことに不思議な
因縁である。特に柳沢家と武田家はこれ以後も相互に、養子縁組をとり交し、深いにしえ
を結んでいる。

イメージ 1

イメージ 2

   流浪する武田家

ここでひとまず、武田家の系譜をたどってみると、二世竜芳は信玄の二男で名を信親(の
ぶちか)といい、母は信玄の正室三条左大臣公頼の息女てある。長子義信の死亡後、竜芳
が後を継ぐべきところ、眼疾を患ったので、永録四年(1561)信州海野の家を継いで
て海野二郎と名乗った。通称を聖道(しょうとう)様といわれた。



 武田家滅亡の際

 勝頼が新府城を去って東進する時、法流山入明寺山主の栄順師(信虎を諫めて自殺した
内藤相模守の子)は竜芳の身を案じて寺へ迎えいれたが、勝頼が天目山に滅ぶの報が入る
と、竜芳はその夜、寺内に於て南自刃した。この時、竜芳のこ信道は、武田の血筋の絶え
るのを心配した入明寺の栄順および長延寺(甲府市)の実了のはからいによって、長延寺
領の信州伊那犬飼村に難を避け、織田方の虎口を脱することができた。

 その後、徳川家康が甲州へ入国し、長延寺の再興を詐したので信道は実了の後をついで
長延寺第二世となり、法名を顕了道快と称した。ところが、信道が長延寺に住すること三
十年に及んだ時、突然思わぬ災難がふりかかって来る。

 信道・信正親子、伊豆大島に流される。

 それは、当時関東郡代であった大久保長安が武田家遺族を保護し、それを利用して大名
になろうという野心をもっていたことが、彼の死後判明し、信道もこれに連坐することに
なったのである。大久保家に、武田家の花菱紋があったことがその証拠とされ、信道はそ
の子の信正とともに上州笠間の城主松平丹波守康長の下に預けられることになった。
次いで元和元年(1615)、入明寺の栄順や旧縁の人達の弁護にも拘らず、幕府は信道
父子を伊豆大島配流(はいる)してしまった。
 この遠流には信道の妻「ままの局」をはじめ、譜代の臣九名が随従している。
 大島での一行の生活の、辛苦はば申すまでもなく、信道は憂悶のうちに寛永二十年(1
643)三月五日に、七十歳で他界され、次いで局も後を迫われた。この間の断腸の思い
いを書き連ねて入明寺ヘ寄せられた局の玉章(たまずさ)は入明寺の寺宝となっている。
 なお、信道の大島での館や墓は戦後発見され、東京都史蹟となっている。
 この後も、御子信正は,なおもゆるされず、さびしい月日を大島で過していたところ、
信道の旧臣臣の奔走により、寛文二年(2663)、幕府から晴れて赦免の沙汰があっ
た。四十九年の歳月を寂しい孤島で難苦をなめた信正主従は喜び勇んで江戸へ帰ってき
た。ところが、もと国事に関する犯罪の嫌疑者であるので、幕府に気兼ねして、唯一人進
んで彼等を世話するものがない。

 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

武田信玄正系(末裔)について

 今もつながる武田信玄( 武田家十五代、武田昌信(たけだまさのぶ)氏
 苦難の道を乗り越えて辿り着いた十五代
 以外なことにそれは柳沢吉保の配慮が大きかったのだ。
   

 引用資料、『歴史読本』五月号<昭和44年(1969)>


 武田田家十五代、武田昌信の紹介(筆者紹介より 昭和44年当時)
 大正十四年(1925)十四世信保嫡子として生まれる。大学卒業後特応召。後法務省官房人事課に奉職。 現在は浦和地方法務局越谷支局長。               現住所、東京都世田谷区官坂 3−17−3

 信玄贈位と武田の正系

 天正元年(1573)信玄公が没してより、今年で二百九十六年めになる。
 今年は戦国ブームとかで、映画・テレビの「風林火山」、テレビ・演劇の「天と地と」など信玄公の活躍を画いた作品があいついで競作・上演されている。
 
 また、公の本拠地、甲府では、武田信玄奉賛会によって甲府駅前に公の銅像が作られ、その命日にあたる四月十二日に除幕されることになっている。

 このように、信玄公の事蹟が顕彰され、その活躍ぶりがブームを呼ぶ程に歓迎されるの
は、これまでで、今回が最高だと思われるが、大正のはじめにも、今回とは違った意味で
「武田信玄とその一族」が問題になったことがあった。

 即ち、大正二年(1913) に大正天皇の御即位式の大典に際して、従四位下大膳大
夫であった武田信玄が従三位に贈位されることになったのである。

 これは、信玄が甲斐で行なった治水、土木、税法等にわたり、当時まれに見る民治上の
功績が認められたものである。
こうして信玄公に従三位の位記・宣命(いきせんみょう)を賜わったものの、これを受けるべき正統の子孫は何人であるかが問題となった。

 信玄の子孫といえば、「天正十年(1582)、信玄の四男勝頼がその子信勝と共に天
目山で自刃して武田家は滅亡した筈」といわれる方も多いだろう。

たしかに、天目山以後、戦国武将としての武田家は日本歴史の上から姿を消すことになるが、これによって「武田家」までも滅び去ったわけではない。

 信玄公の多数の子女のうち、いくつかの系統は天目山の悲劇後も生き延び、その家系を今日にまで伝えているのである。

しかし、大正二年のその当時、信玄公が没してより既に三百四十年も経過しており、この間にそれらの各流は各地に散り、また各々の間で浮き沈みもあったりして、「信玄の正系」は公認されてない状態であった。

 このため、宮内省から発せられた位記・宣命が信玄の正統なる子孫に伝達されるという
ことを聞いて、支流・庶流を含めた大勢の武田末孫が「自分こそ信玄の末裔なり」と名乗
りでることになった(三十六家が立候補)。

この位記・宣命の伝達を取扱う山梨県庁で、その選択に困って、東京定刻大学史料編纂所
にその調査決定を依頼した。しかし、ここでも容易にその判断を下しかね、そのため位記
はとりあえず、信玄公の菩提寺恵林寺(山梨県塩山市)ヘ預けられた。

 ここで信玄公の子女のうち、女女子除き、男子の系統だけをみてみると、
まず
○第一男の義信は
 永禄八年(1565)に信玄に背いたとので幽閉せられ、
   十年(1567)十月に逝去した。
 その夫人は今川義元の女で女子が二人いたと伝えられている。

○次が竜芳(龍宝)で、当家はこの系統をひくものてみる(後述)。

○その次が信之で、これは十歳で夭折。

○その次が天目山の四郎勝頼。

○次に仁科五郎盛信

○葛山十郎信貞があるが、これらは、織田信長が天正十年(1582)三月に甲信両国を
攻めた時、仁科は信濃高遠城に戦死し、葛山は甲府で殺され、共にその裔は伝わらない。

このほかに末子の信清がある。これは勝頼歿後、越後に下って上杉景勝を頼り、以後景勝につき従って越後から会津、会津から沢へと移り、その子孫が米沢にあって今日に至っている。

結局、信玄公の男系として今日まで続いているのは、竜芳系のという当家と米沢の信清系だけである。

そこで、竜芳の血をひく武田信保(系譜参照)が正系であるか、あるいは、信清系統の山形の武田茂氏が正系であるか、二者選一の問題となった。

 そこで山梨県庁ではこの間題を再び東大史料料綿纂所へその調査を依頼した。
 編纂所では武田研究の権威渡辺世祐博士(故人)がその任にあたり、当家伝来の系図に
基いて、竜方の子孫を正統なりと確認するに至った。

ここに至るまでには、山梨県市川大門の武田研究家村松蘆洲翁の御尽力を忘れることはてきない。山梨県下に武田の正系なしということで、位記宜命の下付が米沢の武田家へ決りかけた時、翁は米沢の武田家も信玄の子孫にはちがいないが、系統の順位からして、信玄の二男竜芳の血をひく後裔こそ正系ではないかと、当家が正系であることを大いに主張して下さったのである。

 かくして、贈位問題が起こってから十二年を経た昭和十二年(1937)に、従三位の
公式書状が私の父信保に下附されたのである。


これと同時に、当家を子爵に叙爵する旨の沙汰があったか、父、信保はこれを拝辞してしまった。その理由は、川中島の好敵手である上杉家が伯爵であるのに、武田家が子爵というのは釈然としないというのである。ところが、この叙爵の決定を下した、時の宮内大臣・松平恒雄氏(現秩父宮妃殿下の父君)の奥様は鍋島侯爵家の長女の方で、その妹の方
が私の父の兄の柳沢保承伯爵の妻であったから、当家と松平安とは縁がつながることにな
り、そのため子爵を拝辞することは相当の心労であったと、よく母(母・綱は柳生子爵の
出身)はいっている。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 創作歴史の代表者ー山本勘助

 その実在を確認できたと絶賛され、お墨付きを与えられた

 「市河文書」

この文書には複数の指紋らしきものがある。これは勘助が市河氏の家で書状を広げ読み上げた時についたものであり、照合することはできないが勘助の指紋とほぼ断定できる。

 などとどこかで報道されたり、歴史学者が軽率な見解を述べると、次には

 「・・先生がそう言っているから間違いない」

 「間違いない」

 「史実である」

 と展開されていく。

 事実は、最初に紐解いた御仁の手が汚れていたからかも知れないのに?

 <勘助(菅助)の名が見える武田信玄書状。参考資料「山梨県史」所収>


北海道
   市河藤若殿

[本紙] 二七・七×四〇・九。
 板井家文書(釧路市)
 一、武田晴信書状
(竪紙)
          (長尾)   (長野県)
注進状披見、仇景虎至千野沢之湯進陣、其地へ可取懸模
                  (景虎)(長野県)
様、又雄大武略侯、無同意、剰備堅固故、長尾無功而飯

山へ引退候哉、誠心地能候、何二今度其方擬頼母敷迄侯、
          (長野県)                  
就中野沢在陣候勅、中野筋後詰之義、預飛脚候き、則倉
(群馬県)              (長野県)
賀野へ越上原与三左衛門尉、又当手之事も塩田在城之足
                        
軽、為始原与左衛門尉五百余人、真田江指遣候処、既退
散之上、不及是非候、全不可有無首尾侯、向後者兼存其
旨、塩田之在城衆二申付候間、従湯本注進次第こ、当地へ
             (虎昌)
不及申届可出陣之趣、今日飯富兵部少輔所へ成下知候条、

可有御心易候、猶可有山本菅助口上侯、恐々謹言、
                 
     六月廿三日 晴信 (花押)
                  
 市河藤若殿


 勘助の戒名(法号)
1、 神山道鬼居士   (長野県 杵淵村典厩寺位牌)
2、 山本入道鬼居士  (芝村大宝寺阿弥陀堂傍ら)
3、 鉄岩道一禅定門  (富士郡山本村宗持禅院)
4、 天徳院武山道鬼居士(吉野家位牌)
5、 天徳院武山道鬼居士(高根町蔵原山本家)
 勘助母の法号
     本覚院智証日   (甲府)

 
 

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事