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天正三年長篠の戦 その時馬場美濃守信房は
長篠城は、三方を豊川の本流・支流の河谷で囲まれた要害の地に築かれ、今も残る殿井と呼ぶ泉の水は豊富で、水道を断たれる心配は絶対にない城である。
天正三年二月、徳川家康は奥平貞昌(後の信昌)を城主とし、急ぎ防備を固 一万五千は、長篠城を包囲した。この時の馬場信房は、城に一番近い大通寺山に陣取った。 武田軍は、五月八日から攻撃をはじめた。連日連夜の猛攻に、城兵は堪えぎれず、遂に外堀の線まで追いつめられた。 残るのは本丸・帯郭・野牛郭だけで、周囲は五百メートルに過ぎない。兵糧も大分取られ、援軍は何時来るともわからない。そこで鳥居強右衛門が、救援の使命を帯んで城を脱出する。五月十四日の夜半であった。 強右衛門は、武田勢が城兵の脱出防止のためにつくった網を切り破って、約四キロほど川を下り、寒峰山に登って脱出成功の合図の狼煙(のろし)をあげて岡崎に走り、城内の頷様を報告した。 信長は既に岡崎に着いていた。 救援の大任を果した強右衛門は、直ちに引き返して、再び寒峰山で、援軍来るの合図ののろしをあげた。 寒狭川べりまで来た強右衛門は、人夫にまぎれて城内に入ろうとして捕えられ、利を以て誘われ、援軍は来ぬと呼ばれと強要されたが、彼は城に向って、「援軍は来るぞ」と、ほんとうのことを叫んだので遂に磔(はりつけ)にされてしまった。 この時「強右衛門は雑兵とは言え立派な人物である。彼一人を殺すよりも、寧ろ城に帰してやった方が、御家の為にもなりましょう」と、馬場信房が主張したと書いたものもある程、信房という人物を尊敬する人が多かった。 五月十八日、織田・徳川連合軍は設楽原の連吾川に沿って三重の柵を結い、陣地を築ぎはじめた。 五月十九日、武田軍は医王寺山で軍議を開いた。 信房を始め、信玄以来の宿将遠は、敵は大軍であるから、決戦は避けるべきであると主張したが、勝頼は跡部勝資等の主戦論を正しいとし、遂に設楽原で 雌雄を決することに踏み切ってしまった。 『目本職史長篠役』の本文では、宿将遠の意見に反対して設楽原で決戦する事を主張したのは跡部勝資になっている。 (注)西軍=織田・徳川連合軍。東軍=武田軍 五月十九日勝頼諸将士を会し、両軍を攻撃する方略を示して曰く、敵兵方さに設楽原の両に陣す。宜しく往て之を掃蕩すべし。長篠城の監視は鳶ケ巣以下諸塁の兵にして足れり。其他は悉く川(滝川)を超え進み、一大決戦を為すべしと。 馬場信房・内藤昌豊・山県昌景・小山田信茂・原昌胤等之を不可とし、諌めて曰く、織田・徳川各々全力を挙げて来る。衆寡敵し難し。兵を収めて帰るに如かず。敵若し追躡(ついしょう)せば、之を信濃の険に要して鏖殺(おうさつ・みなごろし)すべきのみ。 嬖臣、跡部勝資曰く、武田氏は新諸公以来未だ嘗て敵を避けず。今戦はずして軍を班へし、敵に冑後を見せしむるは祖先を忝かしむる者なり。 信房曰く、然らは先づ疾く攻て城を陥れ、而して後退く可し。顧ふに城中所有の銃は五百に過ぎす。縦ひ其第一の射撃悉く命中するも、我兵の死傷五百を越ゆ可からず。第二発以後の乱射に叉五百人を損ずるも前後一千人を失はむの み。城を屠りて而して去らば、我武維れ揚るに非ずや。 勝資之を非として曰く、前に大敵を控へ徒らに千人を攻城に失ふ、不利焉(これ)より甚しきは無し。 信房叉曰く、若し退却を好まざれば城を築くの後、主将及公族之に拠り、山県・内藤・及某等川を渡り、敵軍と対峙すべし。然るときは我は糧運の便あり。以て持久す可く、敵は江濃及畿内の兵多し。必ず嚝日弥久(こうじつびきゅう)に耐へず、自ら退却せんこと疑なし。是れ深根因帯の策なり。 勝資曰く、信長英武敏捷を以て聞こゆ。何ぞ空く軍を班さん。彼若し急に来り戦はば則ち如何ん。 信房曰く殊死決戦せんのみ。 勝資冷笑して曰く、己かを得ずして戦ふと、我より進んで戦うと戦ふは則ちIなり。寧ろ先んじて人を制するに如か ずと。 勝頼大に之を善とし、宝器(義光以来嫡々相伝ふる白旗と無楯の鎧)に誓ひ(武田の家法一たび此誓を為すときは、復た非議を改めず)進撃に決す。 (『日本戦史』長篠役第二編第二章其一) 信房以下の宿将は御旗標無に誓った以上、命令に従う外はなかった。寒狭川を渡って文字通り背水の陣を布き、前面に織田・徳川の大軍をひかえては、武田家の運命も最早是までと、馬場・山県・内藤・土屋の諸将は大通寺山の泉に集まって、今生の暇乞いに、馬柄杓を以て別れの水盃を交わした。 翌二十日、各部将思い思いに寒狭川を渡り、設楽原の連吾川の敵陣に向って軍を進めた。 織田行長は、武田軍が河を渡って進撃するのを見とどけて、五月二十日の夜、極楽寺山に将士を集めて軍議を開いた。 明くれば五月二十一日(太陽暦七月九日)の未明、酒井恵次の一隊が、舟遊山を迂回して、武田軍の鳶ケ巣山砦を背後から衝いたのを合図に、設楽原の戦闘がはじまった。 東軍右翼隊の馬場信房隊は、西軍左溜桶外の佐久間隊を衝く。佐久間隊佯(いつわ)り敗れて走る。馬場隊追ふて之を破り、其屯せし岡阜(俗に丸山と称す)を奪ふや、其隊を勒して此に停止し、敢て柵前に進まず。織田兵大に望を失ふ。 馬場信房人をして真田信綱・土屋昌次等に告げしめて曰く、予思ふ所あり。暫く此に駐止せんとす。卿等且つ前進して功を建てよと。真田隊・土屋隊等乃ち交互奮進し木柵に逼る。織田兵の銃火斉しく発し死傷算なし。 東軍屈せず将さに柵を破らんとす。西軍柴田隊・羽柴隊等、其北(森長村)より迂回して之を側撃す。信綱兄弟(弟は昌輝)及目次苦戦退却し、相先後して死す。 東軍総予備隊武田信友父子、望月信雅及勝頼麾下の士も中央及両翼の諸隊に腫き進み奮闘したりと雖も大勢已に支へ難く、皆後方に退却す。 是より先き、東軍の左翼隊に於ては、山県昌景飛丸斃れ、其他の諸隊も過半死傷し、足に至りて跡部隊先づ走る。 足跡西軍佐々成敗、信長に告げて曰く、敵の旅旗漸く勤揺す。宜しく全軍をして之に乗ぜしむべしと。 信長之に従ひ総攻撃を命ず。足に於て西軍悉く柵を出、織田兵は正面より、徳川兵は敵の左側より一斉に進撃す。(日本戦史長篠役第二編第四章其二) 武田軍の左翼山県隊は、連吾川の下流を渡って、西京の柵の背後に廻ろうとしたが、下流は谷が深くて渡りにくい上に、大久保隊にねばられて、山県昌景は遂に戦死した。武田軍の敗色が濃くなると、西軍は一斉に柵を出て攻勢に移った。 <信房の最期> 信房は人を遣わして勝頓に退却をすすめ、自らは織田徳川の大軍が潮のように押しよせるのを一手に引き受け、勝頼の退却を援護して約四キロ、最も困難な殿戦をつとめ、勝頼の姿が、寒狭川の左岸に消え去るのを見とどけて、猿橋附近より引きかえし、織田方に首を授け、六十二歳の最期を閉じた。 川井三十郎槍ヲ持向フ。我ハ美濃ナリ介錯セヨト、ジットシテ居テ首ヲ取ラスル。美濃ハ(此跡六十二才、一生手疵 不負体神君ト美濃許リト申候)一生兎ノ毛ヲ突タ程ノ手疵ヲモ不負也(『柏崎物語』引用、『日本戦史』「長篠役、補伝」) 馬場をば信長衆原田備中守(当時は塙九郎左衛門真政)内河井三十郎と申者討取けると聞えし(『松平記』引用、『日本戦史』「長篠役、補伝」) 武家雲箋ニ収ムル感状ニ拠レハ、馬場ノ首ヲ獲シハ岡三郎左衛門ナリ。其文二曰ク、今度於長篠表武田一家一戦之砌、馬場美濃守討捕之事無比順働也。為ニ褒美一太刀一腰(国主)馬一匹(鹿毛)遺之。訖尚可加恩賞之状如件七月廿日信長 岡三郎左衛門とのへ(『日本戦史』「長篠役、補伝」) このように、馬場信房の首級を得た人が、二人もあったかの如く書かれているのは、何故だろうか。その原因について、次の通りの推定をしてみた。 長篠の戦の戦死者名の中にヽ馬場姓は馬場美濃守信春と馬場彦五郎勝行の二人である。(『日本戦史』「長篠役」) 信春は信房のことで、注記に更級郡牧ノ島城主六十二才とあるが、勝行には注記がない。所が『参州長篠戦記』(四戦紀聞)には彦五郎勝行を「美濃が伯父」としてある。逗子の馬場氏の系図には、信房の四男と五男が討死したと記してあるが、その事実があったとしても、親子だから識別は容易であろう。 従って、二説が生れた原因は、美濃守信春(信房)と彦五郎勝行との、人物の混同によるものではなかろうか。 |
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馬場美濃守信房
『甲州の名将 馬場美濃守信房とその子孫』長篠戦史資料その2 丸山彰氏著) 『甲斐国志巻之九十六人物部第五』に、
永禄二年加騎馬七拾合為百弐拾騎、此内ニ小幡弥三右衛門(小幡山城ノ庶男)金丸弥左衛門・早川弥三左衛門・平林藤右衛門・鳴牧伊勢守・鶏大弐(モト根来法師也長篠ニテ飯崎助兵衛ト名乗り討死セシト云共弟八二位)是等皆ナ腕勇ノ神将ナリ。 同八年授美濃守、武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ令、外人避其称最モ規模トスル所ナリ。明年十月信州牧ノ島城代トナル。 また『甲陽軍艦』(伝解本)には、
永線八年乙丑三月三日の晩、信玄公原隼人・駒井右京両便を以て仰出さるゝ。原美濃守・信虎公より信玄まで二代の間、数度武辺の忠功不浅故、皆人遠慮するか、信玄覚へて此比、原美濃より外、武田の家に美濃と名乗者なし。其原美濃は去年病死仕候。美濃守といふは、何とやらん、じゅりょう(受領)の中にも、宜くきこえ候と有て、民部を美濃になされ、馬場美濃守と申候也。その上晴信の一字を与えて、馬場美濃守信房とぞ改められける。 とあって、足軽大将原美濃守虎胤の死後、馬場信房が、美濃守を称するようになった。 <原美濃守虎胤> 原美濃守虎胤について、戦国人名辞典には、武家事紀を引用して次の通りに述べてある。 原虎胤(美濃守、清岩)は友胤の子、下総千葉氏の臣、甲斐に行き武田信虎、信玄に仕え、大永元年甲斐飯田川原の戦で、今川氏の将福島正成(北条網成の父)を討とった。信玄が剃髪したとき彼も剃髪して清岩。天文二十二与国法に背き脱走、北条氏康に投じた。翌年信玄から氏康へ懇望して、彼は再び信玄に仕えた。 <永禄九年> 寅の十月二十八日に、信玄公馬場美濃守をめし、信州まきの島(に普請の儀被二伸付一、即ち)城代に被仰付候。 <永禄十年丁卯> 五月十八日に、信玄公甲府を御立あり、越中へ御馬をむけられ、飛騨の江間、越中椎名、此両人に彼筋、御仕置(の)様子被仰付、六月半に、信州川中島へ御馬をよせられ、越後・信州境目の御仕置あそばし、馬場美濃守に被仰付、あたらしく要害とり立らるべき、堅固の地を見定給ひ、八月初に御帰陣あり。(甲陽軍艦品第冊三) 信州牧之島城代となり、更に北方長野市長沼の要害の地を見定める任務など、幅広い活動であった。 馬場信房の機略は信玄が常に賞讃する所であった。永禄十二年、小田原攻めの時の信房の活動。 さるほどに小田原町屋の事は不及申、侍衆の家皆焼つるに、松田尾張守屋宿許残りたるを、信玄公きこしめし、我屋敷ばかり焼かせざると、松田尾張ゐんげん申べき事必定也。是をやき残したるを機にかけて、信玄公被仰。 そこにて馬場申(上)は、此度某は信州御留主居にさだめらるれ共、御法度をそむき、小田原御陣見物に参り候へば、御旗本前備に罷有、何事にも構申さず、客人にて候。客人に松田屋敷をわれら焼申べく候と被申上。信玄公きこしめし、馬場美濃此度はただ五十騎召つれ候に、跡によき者をあまた置、若き者ども四五十騎にてはいかゞと被仰。 馬場左様には候へども、ならずはもとの物と思食候て、被仰付涙ば、惣手より萱木を侍一人に一把づゝ、馬場美濃かたへ持てより、馬場にわたせと御意なされ涙へと申に付、むかでの衆或は廿人衆頭・御中間頭にふれさせ(なされ候へば)、即時に萱木を持よる。 小田原町焼はらひたる道筋、ことに城より出る所を勘弁し、今の萱木をつませ、貝をならし涙声をきゝ候はゞ、火を付よと、奉行に置者共を一所へよび、其理屈を申訓、馬場美濃守は馬乗十騎・足軽三十つれ候て、松田屋敷のきはへ ゆき、鉄砲をうち(懸)候へ共、屋敷に人声なければ、そこにて貝を吹立て、口々の萱木に火付させ、少しありて後松田屋敷を悉く火をかけ焼払ひ申候。馬場美濃が行を、信玄公御悦喜被し成候也(『甲陽軍鑑品第三十五』) 元亀二年武田信玄は、兵を東三河北部に進め、田峯の菅沼・長篠の菅沼・作手の奥平(山家三方衆)を味方に引き入れた。武田氏は作手の奥平を監視するために、その居城亀山城の近くに古宮城を築いた。 <馬場美濃守の築城> この城の縄張りをしたのは馬場信房であった。 |
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馬場民部少輔
(『甲州の名将 馬場美濃守信房とその子孫』長篠戦史資料その2 丸山彰氏著) 軍艦に云う天文十五年武河衆教来石民部を擢て五十騎の士隊将とし、改め馬場氏、民部少輔ト称ス。(『三代記』に云う馬場伊豆守虎貞と云う者直諌為に信虎所戮無嗣晴信立ちチ令教え来石民部景政為、紹馬場氏之祀云云、虎貞ノ未知明拠故不□教来石は武河筋の村名なり。彼の地は馬場氏の本領なれば時の人称之か。為に氏族者本州に所見なし。)(甲斐国吉巻之九十六人物部第五)
信房が教来石民部を改めて、馬場民部少輔と称するようになったのは、右のような経緯からで、父信虎の代に滅びた馬場虎貞の名跡を、同族の教来石民部に継がせようという信玄の意図であった。この時馬場信房は三十三歳であった。 『日本戦史長篠役補伝』では、『武林名誉録』を引用して「天文十二年、三十歳で馬場俗縁の跡目と成り馬場と更む」と『甲斐国志』とは異なった記述になっている。 天文十九年七月十九日深志城を収め、是日玄公入城し廿三日より塁墉を修理し、馬場民部信春を置く。 また「二本家記」に 長時公林の城を被成御退候後、武田晴信公林の城を破却し坂西が罷在供深志の城を取立普請被成、城代に馬場民部をお置被成、長時公領分之御仕置被成候 とある通り、馬場民部信房が、天文十九年(1550)深志城代になった。(広瀬広一著『武田信玄伝』、第一編第五章第三部) 天文廿辛亥年の三月、四月、五月まで、信州伊奈・木曽・松本へ、植田のこね働被成、また八月より九月、十月まで、かつ田(苅田)の働被成供。春秋の御働に、何れも度々せりあひあり。信濃侍、強敵の故、合戦にまけ候ても、其の色少も弱見えず、但せりあひに、いづれも手柄(の)中に、馬場民部其の歳三十八歳、甘利左衛門尉其の歳十八歳、此両人侍大将の中に武篇仕りすぐれたり。……(甲陽軍艦品第三十)とあるように、馬場民部の名声は高かった。 |
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名将馬場信房
(『甲州の名将 馬場美濃守信房とその子孫』長篠戦史資料その2 丸山彰氏著) 馬場美濃守信房は信虎・信玄・勝頼の三代に仕え、武田氏興隆のために精魂を傾けた。 『甲陽軍艦』「品第十七巻」第八武田法性院信玄公御代惣人数の部、御親類衆の次の、御譜代家老衆の部に十七人の名があり、その筆頭に、馬場美濃守、旗白地黒山道、百甘騎とあり、内藤修理正・山県三郎兵衛・高坂弾正が書かれている通り、武田家の重臣中の重臣であった。 戦闘に参加すること二十幾度、モのうち抜群の功績を称えられたもの九度に及び、それでいて身に一創も受けなかったという。敵も味方も敬仰する勇将であり、智将であり、而もその身辺には、どこか人間的な暖かさが漂っている名将であった。 <信玄逝去> 信玄という巨星が墜ちてからの信房は、武田王国を支える柱として、苦しい立場に置かれたであろう。 三年間、喪を秘して、軍を動かすことなく、国力の充実を計れ、と言い残した信玄の言葉には、誠に重大な意味があった。戦に明け暮れた甲州並びに分国の、人民の経済力は既に底が見えていたことと思う。 血気にはやる勝頼にはそれが読めなかったのではなかろうか。功をあせって、高天神城をおとし、明智城を手に収めて自信を高めた。最早、老臣遠の忠言も耳に入らず、一万五千の大軍を長篠に進めた。 天正三年五月十九日、医王寺山に於ける武田軍最後の軍議でも、勝頼は、信房をはじめ老将達の意見を押えて、設楽原に陣を布いた織田・徳川連合軍の三千挺の鉄砲の前に身をさらした。 五月二十一日の昼頃、勝敗の数は既に明らかになった。信房は、勝頓に退却をすすめ、自らは勝頼を擁護して殿戦をつとめ、勝頓が寒狭川を渡って、甲州に逃れ行く姿を見送って、従容として敵に首級を与えた。 寸分の隙もない程充実した生涯であったが、特に人心に強い感銘を与えるものは、六十二年の生涯をかけて育てた武田氏の、余りにもいたましい敗戦を、眼のあたりに見て、散っていった信房の最後の姿であろう。 |
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