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ぱっしょん・ぱっしょん・ぱっしょん。

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 先崎の文は面白い。度々書いてきたが、読み直してみると、やはり面白い。
 彼の書く文には、大きく分けて3つの型がある。と、私は思っている。

 1.一般向けのノーマル型。(いつものフツーに面白い先崎の型)

 2.自身の内を曝け出す自虐的・メランコリー型。(私が最も好きな型、先崎の結晶)

 3.羽生を題材にした時に現れる特殊型。(意識・虚勢・曲がった彼がもろに現れる)

どれも紛れもない彼であり、全てひっくるめて、彼の文が存在する。
態度がデカいとか、腹立つとか、そんな風に思ったことは一度もない。

 今日は、今読んだ彼の代表的な著書『世界は右に回る』から「ここ数年のこと」
を写書してみようと思う。写しは、大変な作業になるが、得るものもある。感情の整理、忘れぬ為、など理由は様々。
 不屈の記事、とおもって来て頂いた方にも、箸休めにはなると思う。
 書いてある全てが、本当のことかは、先崎本人にしかわからない。
しかし、嘘が大半とも、とても思えない。彼の典型的2型が、色濃く写る文だ。


   ここ数年のこと
 
 三月某日ーこの日はハレの日である。順位戦C級2組の最終戦。何年このクラスにいたことだろうか。
 すいぶん前に、九戦目で、森内君と七勝一敗同士で決戦をしたことがあった。二月の寒い日の朝、何故か窓がかすかに開いていて、すき間風が絶え間なく流れてきたが、2人とも閉めることを忘れていた。
 彼は、今年名人挑戦者として檜舞台に立つ。あの時の結果が逆だったら今頃……とは思わないが、忸怩たる感情、たまりたまった憤懣は胃の下から右奥の肝臓にかけて伸縮を繰り返しつづけた。
 時にはそれが、胃を越えて、喉のところまで押し戻してくることもあった。すなわち、声に出そうなことがー。しかしそれは詮無いことだった。叫べば、必ず叫んだだけ蔑まれる。口惜しいと言える人間は仕合わせである。僕に出来ることは、常に声なき声を出しつづけることだけだった。
 それから数年、僕はいつもあと一歩で昇級を逸した。その度に、順位戦だけが棋戦ではないと分かっていながらも、軽く、やめちゃおうかなあ、と考えることがあった。棋士をというよりも、将棋を勝つことが喜びであるとする自分の心をやめてしまおうかと考えた。悩んで、いや悩んだつもりになって、保守的な傾向を持つようになったら、その場において、どれだけ楽なことだろう。僕は若い。まだ二十代である。若い棋士が、考え方を保守的にするということは、精神が自殺するようなものだ。願望こそあったが、実際に首を吊る勇気はなかった。
 僕は映画が大好きで、だいたいの男子がそうであるように、戦争物も好きでよく観る。前線に出て、弾に当たるのは、必ず若い男達である。たかだか五十年前、若者は、お国のために命を捨てた。アメリカ兵だって、ベトナムでは自由主義万歳と叫び死んでいった。上層部の権力者と呼ばれる者たちのくだらない意地のために屍の山が築かれた。運良く帰れたとしても大変である。『ディア・ハンター』という映画では、主人公の青年達が、ベトナムの後遺症に悩み、ある者は言葉を忘れ発狂する。
 二年前に佐瀬勇次先生が亡くなった。佐瀬先生は、若い頃、十年近く兵隊に行った。それから考えると、自分が、たとえ十年C2にいたとしても、戦争に行くことを思えば鼻クソみたいなものじゃないか、五年無駄を積んだなら、リタイヤするのをー 守りに入るのを五年遅くすればいい。ある日突然ではない。少しずつ、本当に少しずつそう思うようになった。佐瀬先生は、棋士としては弱かったが、仕合わせな一生だった。葬式の日に弟子の米長先生が泣いたからである。米長先生は、若い頃、佐瀬先生によくぶん殴られたそうである。多分、人には言えない感情もあったろう。でも泣いた。僕も泣ける生き方をしなければと思った。
 話は遡るが、新四段の年、十八歳で順位戦に臨んだ僕は、最終戦を七勝二敗で迎えた。上がり目はなく、消化試合だった。しかも、人数の多いC級2組では奇跡的なことだが、勝っても負けても順位が全く変わらないという状況だった。相手には、降級点が懸かっていた。師匠の米長先生にはこういう時は、必ず全力で指して勝つのだと教わった。だが、僕は、勝ちたくなかった。相手は、日頃から親しくさせて頂いている先輩だからである。負けようーと思ったが、十八歳の人間が、わざと負けようとするには、純粋な心との葛藤を避けるわけにはいかない。迷って相談すると、返ってくる答えは決まって「甘い」だった。僕も甘いと思った。
 僕は、どうでもいいやと思って指し、しかも勝ってしまった。対局後、猛烈に後悔した。はっきりいって、勝つつもりはなかった。指していたら、必勝形になってしまった。あっという間に終わった。なんで負けなかったんだろう。勝つ意味はなかった。本気でそう思った。以来、悔恨の念は、間欠泉のようにまばらに吹き出し、僕を襲った。迷ったことと、勝ったことのふたつが、複雑に絡み合い、揺さぶられつづけた。その度に、自分は甘すぎると思い反吐が出そうになった。
 ある日、尊敬する囲碁の小林覚さんにいわれた。「甘いんならば、甘いまま天下を取ればいい」。頭をガツンとやられた思いだった。そうなのだ。自分が甘いなどと恥じていてもはじまらない。過去を悔やんでも進歩はない。これから頑張ればいいのだ。
 一年ちょっと前だろうか。その頃から、やはり少しずつ、心が軽くなっていった。それと同時に酒の量も減り、体も楽になっていった。自分の中で、自虐的な発想が一枚一枚、まるで薄皮を剝がすようになっていくのが、気持ち良かった。
 去年の一月、僕はまたしても順位戦で上がり損なった。さすがにショックは大きかった。一月十七日、丁度阪神の地震の日だった。次の日、TVをつけると、真っ赤になった神戸の街があった。棋士や友人で、まだ行方のわからない人もいた。地元の街を歩くと、今まさに夕日が沈むところで、ビルが赤く染まりさっきまで見ていたTV画面のイメージに重なった。あわてて家に帰り、ずっと泣いた。
 気持ちの整理がつくや、僕には非常に珍しいことだが、負けた将棋を並べ返してみた。冷静な目でみると、どうしようもない将棋だった。駒が萎縮しきっている。僕の駒は、情けないくらいに生命感を持たず、後ろへ後ろへと沈むように下がってしまうのだった。
 これではいけないと自分なりに考えた結果、あれこれ悩むのは面倒くさいので、開き直ることにした。あと半年ー夏が終わるまで、将棋のことで、難しいことで悩むのを一切やめてみようと思った。
 具体的にいうと、定跡形なら、基本的な知識があり、先手番だから上手くいくが後手番では上手くいかないということをいっぱい知っているわけである。そのうえで手を読む。これが普通のやり方である。それを敢えて、知識を忘れ、局面を俯瞰的に見て、手を読まずに指してみようと思った。有り体にいえば、こう指したいな、と思った手を必ず指すことにした。
 負けても半年つづけようと思ったが、おかしなもので、却って勝率が上がった。駒に勢いがつき、魂がこもったからである。竜王戦で勝ち進み、遂に挑戦者を決めるプレーオフまでいった。僕は竜王になりたいと思った。
 碁の世界では、ずっと、普通の一流棋士だった小林さんが、突然棋聖を獲って一挙にスターになっていた。自分もあやかりたいと思った。
 力およばず佐藤康光君に負けたが、負け惜しみでもなんでもなく、爽快な気分だった。自分の信念通りに好きなように指せたからだ。取り戻した自信は計り知れなかった。
 勝って悩んだ人間が、数年後は、負けても爽やかにいた。なんという違いであろうか。
 もっとも、手を読まずに、いい加減に指すことは、すぐ辞めた。こんなことが長続きするわけはない。それは分かっていた。何故にあんな風に開き直れたのか、半年たった今では不思議に思えて仕方がない。
 九回戦が終わってから、最終戦までの一か月は、実に長く感じられた。出来るだけ出掛けることをやめ、家に居るようにした。こんなことははじめてだった。勝ったら嬉しいなとは思わなかった。負けたらどうしようーそればかり考えていた。このような気持ちになるのも、きっと僕にははじめてだった。
 それが、三日ぐらい前から、不思議に気持ちが穏やかになっていった。
 いよいよ当日がやって来て、僕はいつになく落ち着いていた。前日は燗酒をきゅっとやって十二時に寝たので睡眠も十分過ぎるほどだった。
 やけに胸がドキドキしたのは、駅を降りて、将棋連盟まで向かう道でのことだった。僕はことさら空を見上げて歩くようにした。今日はお祭りなんだといいきかせた。
 終わってみればあっけなかった。棋士になってから、最高の将棋を指すことができた。相手が投了した瞬間、全身の力が抜けていった。
 夕食前に終わったので、後輩達を連れて飯を食うことにした。ふと見ると、田村康介君がニコニコしている。昇級したら、田村君に1kgのステーキを奢る約束になっていたからである。
 十九歳、新四段の田村君は、野球のグローブもあろうかというステーキを、一心不乱に食べ出した。その怪獣のような食べっぷりを見ながら、僕はここ数年間という時間の苦味をかみしめていた。

 今の将棋界は、順位戦がすべてではない。順位戦で上がれなくとも、ほかで頑張ればいい。それは分かっていた。C2を抜けるということは、金でもなく、地位でもなく、僕にとっての、小さなこだわりだった。
 将棋指しにとって、地位は幻。喜びは一炊の夢である。これからは、こだわりつづけた季節が、無駄ではなかったと思えるように頑張りたい。
 
 


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