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先日、Keiのheartさんのブログの本願寺大谷派の実態についての記事を読んで、宗教についてやや思うところがあったので、書き留めておきます。 本当はもっと早く書こうと思っていたのですが、つい面白ニュースに引かれて・・・^^; さて、ここに『小田原北条記』という本があります。小田原北条氏が早雲から始まって氏直の代で滅ぶまでの記録、と思って戴ければ大筋間違いないでしょう。 その中に次の様なエピソードがあります。やや長いですが、まず御一読下さい。 (尚、著作権の問題があるかもしれないので、文章表現は大幅に変更してあります) 時は永禄七年(1564年)睦月。北条家三代氏康の頃。
永らく北条家に従っていた太田康資(太田道灌の曾孫)は、あることがきっかけで北条家に不満を持ち、親戚である太田資正や安房の里見義弘等と組んで北条家と全面対決するに至った。 世に鵠台〔国府台(こうのだい)〕の合戦と呼ばれる戦である。 (正確には第二次国府台合戦) 詳しい経緯は省くが、この合戦は結果的に北条家の勝利で終わった。 さて、合戦の趨勢が決まり敗走を始めた太田−里見連合軍を追撃する北条軍の中に松田左京亮康吉という武者がいた。松田の一族は北条家の家臣の中でも有力な一族であるが、康吉はその中でも勇猛な武者として知られていた。 敵は既に統率を失い三々五々逃げていくが、その中にあって異彩を放つ幌掛け武者が一人。騎乗の幌掛け武者なので一人で逃げることも可能なのに、何度も戻ってきては弓を放ち逃げ行く味方の援護をしている。 その振る舞いと言い身形と言い、一方の大将と見た康吉が「引き返して勝負せよ!」と叫びかけ、挑みかかる。 最早逃げられぬと悟った騎馬武者が弓を討ち捨て刀を振りかざして応戦した来たが、腕の差は歴然。康吉は易々と相手に組み付いて馬から落とし、あっという間に組み敷いた。 然し、いざ首を掻き切らんとして相手の顔を見ると、何と相手はまだ幼さすら残る、花の様な美少年である。 実はこの少年、里見弘次と言って大将の一人である里見義弘の甥に当たる。当年取って十五歳の若さで、然もこの合戦が初陣であった。 一瞬康吉も躊躇したが、周りは既に北条軍ばかり。ここで逃がしてもいずれ誰かに討たれるのは必定。致し方無しとその若武者の首を掻き切った。 然し流石に勇猛な康吉もその哀れさに涙を流し、「この様な辛い目に遭うのも武士なればこそ。いっそ仏道に入り、煩悩を捨て悟りを開かん」とて、帰国もせずにその場で山寺に入門してしまい、その後は只管弘次の極楽往生を祈る日々を送った。 この話を読んだとき、私は「宗教とは何のためにあるのか」という自身の疑問に一つの答を見つけた気がしました。 (思ったより長くなったので、残りは明日にします。)
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続きに期待
2009/5/17(日) 午前 0:07 [ 道後 ]
熊谷直実の話に似てますね^^;
2009/5/17(日) 午前 1:11 [ 古の碧き泉より ]
>水大師様
いつも有難うございます。昼頃には多分。
2009/5/17(日) 午前 9:20 [ 瑞雲 ]
>古の碧き泉より様
そうなんです。実はそこが重要なんです^^
2009/5/17(日) 午前 9:21 [ 瑞雲 ]
ごめんなさい。今読みました。
そっかぁーこういうことが在ったんですね。やっぱり人は死と向き合う時、宗教を意識せずには要られないんでしょうね。それにしても15歳ぐらいの子の首・・・居た堪れないのは納得です。
2009/6/25(木) 午前 1:34
>Keiのheart様
いらっしゃいませ^^
お忙しいのに過去記事をお読みいただいて恐縮です。戦国時代は勝ち残った人が書いていますので、どうしても雄々しい話が多いですが、実際はこういう悲劇が日常茶飯事。それ故に宗教の重要性が高くなりキリスト教や一向宗も広まったかもしれませんね。
2009/6/25(木) 午前 7:48 [ 瑞雲 ]