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日本語にまつわること

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まさか七回も続くとは思わなかったこのテーマ。
然も読み返してみると内容が〈*駄洒落自己規制*〉

さて、最後は「国語教育の中の日本語教育」と題して締めたいと思います。

今までだらだらと書いて来た通り、「国語教育」「日本語教育」は、その「教育対象」の面でも、「教育内容」の面でも、大まかな住み分けが為されていると言えます。

然し本当に「日本語教育」の教育内容は日本語母語話者(主に日本人)には必要無いのでしょうか。

例えば
「神田」と「銀河」と「秋刀魚」と「神話」。この四つの単語に出て来る「ん」が、本当は全て違う発音であること
とか
「雨は降らなそうだ」と「雨は降りそうにない」ではニュアンスが違うこと
とか
「こんにちは」「さようなら」「例の件」の様に日本語は「省略が多い」言語だが、決して任意に省略して良いと云う訳ではないこと
とか、若い頃に一度意識して見る事は、決して無駄にはならないと思うのです。

別にグローバルスタンダードがどうとか、国際化がどうとかいう話じゃなく、例えて言うなら、野球選手が自分のバッティングをビデオに撮って分析する様なものです。

ネクタイ一本締める位、普通のサラリーマンなら目を瞑っていても出来ますが、然しそれが本当にまっすぐ綺麗に締められたかどうかは、やはり鏡を見なければ判りません。
女性の化粧も然り。
客観的に、外部の目から見て初めて自分がしている事の良否が判ると思うのです。

どんなに’’’行間’’’が読めても、誰かに伝えられなければ単なる自己満足で終わってしまうかもしれません。どんなに’’’修辞’’’を学んでも、口の中でモゴモゴ言っていては相手の印象に残らないでしょう。
やはり言葉は綺麗であるに越した事はないと思います。

そして

綺麗な言葉を話そうと思ったら、一度「日本語」を客観視してみた方が良いのではないでしょうか。

因みに私が日本語教師になる勉強を始めたのも、この理由からです。


最後に、日本語教育関係者の間でよく言われている事を一つ。

日本で一番綺麗で正しい敬語を使っているのは就学生や留学生だろう

《就学生:この場合、日本語学校で日本語を勉強している学生のこと≫
三つ目は「行間」です。

よく知られていることですが、コミュニケーションに於いて言語が果たす役割は、少なく見積もると7%程度、多く見積もっても35%程だそうです。
この割合は研究者によって見積もりが違うのですが、もしかしたら調査を行った対象の差でしょうか?
例えば青森のおじさん相手に調査したら7%、大阪のおばさん相手に調査したら35%とかwww

閑話休題。
とにかく言語がコミュニケーションに占める割合は意外と低く、残りの大半は表情とか身振り手振りとかの、所謂「非言語コミュニケーション」で意思疎通を図っている訳です。

近年、場の空気が読めない、所謂KYと呼ばれる人が注目されていますが、空気が読めないと云うのは、言い換えると察することが出来ないと云うことですよね。

そう云う意味で

「行間を読む」ことは「空気を読む」ことと相通じる

と思います。

「行間を読む」の定義は大辞林によると以下の通りです。
文章に文字では書かれていない筆者の真意や意向を感じとる。

この「行間」には大きく分けると二つのタイプがあります。


【タイプ1】著者(話者)が何らかの理由で明示をせず、暗に示唆しているもの。

これは往々にしてわざと判り難くしていますから、察するにはそれなりの洞察力が要ります。
そして洞察力を養うには充分な教養と人生経験が必要です。(因みに人生経験は長ければ良いと云う物ではないですね。長さより濃さ、言い換えると人生の密度が重要だと思います)

ではその教養経験があれば、著者が言わんとしていることを察することが出来るか、と云うと微妙です。あと一つ、慣れが必要なのではないでしょうか。
一時期流行った「立体視」も、視力が良くても、長い時間見つめても、見えない人は見えません。でも何かのきっかけで見方が分かると、次からは見える確率が上がります。そしてこの判る体験が何回か重なると、後は苦もなく見られるようになるものです。

さて、この判る体験を文章に於いてする、つまり「行間を読む」練習に良いのが、国語の試験問題によく有る「著者の言いたい事を述べよ」だと思うのです。
但し、実際にはその様な使われ方をしていることは余り無い様ですね。
長文の中からキーワードを捜させる、要約を書かせる程度の目的に成っている気がします。

多分、「行間を読む」問題は作るのも難しいからだと思います。何しろ

教える側に卓越した能力が無ければ教えることも試験することもできない

からです。
多くの教師にそこまで求めるのは酷ですから、既に解釈が確定している文章を使って練習するのが一番でしょうね。
でないと、以前センター試験(当時の名称は共通テストか?)で有った様な、

「著者が言いたい事」の正解を見た当の著者が「私の言いたいのはそんな事じゃない」と苦情を言う

と云う様な事態になり兼ねません^^;



【タイプ2】一般常識や前後の脈略から「言うまでもない」と筆者(話者)が判断したもの。

これは本当は単なる読解力なのでしょうが、「察する」とか「読み取る」と云う能力が必要と云うことで、ここでは敢えて「行間」の一つとしました。

今の日本で真に問題なのはこちらの方だと思います。
某巨大掲示板とか、人が集まるブログのコメント欄等で、時々変な人を見かけませんか?
悪意に基づく荒らしではないのだろうけれども、どうしても議論にならない人…。

例えばどこかでブラックバスの問題について論じていたとします。
話の流れは「外来生物駆除」の方針で進んでいるのですが、或る人が
でも釣り産業にとってはブラックバスが重要なのも事実だから、管理釣り場は残しても良いんじゃないか
と発言します。
すると当然批判の声は上がるでしょうが、それに対して他の自然水系から充分に離れていることや、充分な管理人を置き、釣魚の持ち出しは原則禁止(絞めてあれば可)等の条件を挙げ、一部の人は賛成し、別の人は他にも問題点を挙げて、更に議論は進む……と云うのが自然な流れです。
ところが時々、「残す」と云っただけで過剰反応し
そんな事を言う人だとは思わなかった。人格を疑う。
とか
貴方はブラックバス擁護派のスパイだったんですね。
等と話が壮大になってしまう人がいますよね。
こう云う人の場合一度こうなるとどんなに世の中の色々な事情現実のデータを見せても聞く耳持たず(と云うか全く見ず)、一度「敵」と認定すると、後は攻撃一直線、と云うケースが多いと思います。
こう云う人は「自分の意見を固持」しているのとは違い、「自分の意見と僅かでも違えば拒否」しているのですが、どうしてこうなるのでしょうか。

私見ではこう云う人は、

他人の立場でものが考えられない ⇒ 多角的、客観的に思考できない

と云うことで、

相手の真意が判らず言葉尻にしか反応できない ⇒ 広い意味で行間が読めない

のだと思います。
こう云う思考の広がりは、本来年齢性別を問わない多くの他人と会話し、話し合うことで培われるのですが、子供が一日の大半を学校で過ごすことを考えれば、学校教育の中でもそれなりに配慮していくべきだと思います。
そして

「国語」は、その為に最適な科目

だと思います。
(勿論「討論」だけなら社会でも理科でも出来ますが、どうしても「結論重視」になってしまい、「多角的、客観的思考力」を養う為には今一だと思います)


今日はここまで(以下略
話が冗長になって来ましたが、このテーマは次回で最後にするつもりです。
今回は「修辞」についてです。
相変わらず大した内容ではありませんが、興味をお持ちの方と暇な方はお付き合いくださいませw

「修辞」と云う言葉、「耳慣れないなぁ」と仰る方もいらっしゃるでしょう。
また、「それって詭弁術とかじゃないの?」と仰る方もいらっしゃることでしょう。
この「修辞」と云うのは意味が広く、いろいろなものを含んでいて、細かい事を言っていると日が暮れてしまうので、ここでは簡単に

ものの言い様

と考えて下さい。
(「修辞学」や「修辞技法」について詳しく知りたい方は、Wikipediaで調べるか、専門書をお読みになるかして下さい。)

因みに

言葉の綾(あや)

と云う美しい言い方もありますが、この言葉、今やすっかり「いや、それは単なる言葉のあやで…」と云う言訳の表現として定着してしまい、その値打ちを下げてしまっているのが残念です。


さてこの「修辞」について、皆さんは小中高の国語の授業でどんなことを習ったでしょうか。

倒置法(例:「どう考えてもクロだよ、総理も幹事長も」)とか、反語(例:「民主党に政権担当能力は有るだろうか。いや無い。とか、比喩(例:やくざの様に詰め寄る前原大臣)等々、その名前と例は習ったと思いますが、では

それを使う練習はどの位しましたか?


いや、それ以前に基本的な構文について、どの位国語教師から指導を受けたでしょうか。
例えば

その日は雨が降っていたんだけど、私は傘をさしていたんだけど、結構濡れたよ

の様な文を時々ネットで見かけますが、真っ当な国語の感覚を持っている方なら、きっと違和感を覚えられると思います。
では、小学生がこういう文を書いたらどうなるでしょうか。国語の感覚、敢えて言うなら美的感覚が優れている先生なら訂正するかもしれませんが、多くの場合訂正されることもなくスルーされるのではないでしょうか。何故なら必ずしも文法的に間違っている訳ではないからです。

違和感の正体は言うまでもなく一つの文に「〜んだけど」が二回続けて出て来ることですが、上記の文では前の「〜んだけど」は前置き、後ろの「〜んだけど」は逆接なので、同時に出ても文法上は構わない訳です。
然し、同じ形の表現(〜んだけど)が二度出ると、組み合わせが四通りあって読み手(または聞き手)が判断に迷います。その為、上記の文は「相手に文意を効果的に伝える」と云う面で失敗している訳で、例えば

その日は雨が降っていて私は傘をさしていたんだけど、結構濡れたよ

の様に形を変えて誤解を減らした方が良いのです。

こう云うことは、流石に小学校低学年では無理としても高学年になれば教えられますし、その上で作文なりスピーチなりをさせるべきだと思います。


また、修辞を学ぶには先人の名文に触れることも非常に重要です。

以前声に出して読みたい日本語と云う本が流行しましたが、覚えていらっしゃいますか?
あの本はどちらかと云うとノスタルジーに傾いていたり、文章のほんの一部だけしか載っていなかったりと、趣旨が今一曖昧だったので一過性のものとなってしまいましたが、

「声に出して名文を読む」

と云う発想は良かったと思います。



また、実際に使ってみるということも非常に重要です。
国語の一環でスピーチ弁論をしたことがある方もいらっしゃることでしょう。
ただ、どうも学校でのこれらの行事は「修辞」の部分は軽視して、テーマ重視になっている気がします。
その為、聞いていても退屈で、結局何が言いたかったのか今一ピンと来ないものに仕上がっていることが多いのではないでしょうか。
やはりスピーチや弁論が相手に自分の主張を聞かせるものである以上「修辞技術」は不可欠なのです。

同様に実践として有効なのは討論ですね。
これは近年「ディベート」と云う形で取り上げている学校も多いと思いますが、指導する際に「修辞」に気を配っている先生がどの程度いるでしょうか。
ただ自己主張反論をするだけの授業だったら、別にする必要はないと思います。
要は、

如何に自分の意見に相手を惹き付けるか

が討論のポイントなのです。
「討論」とか「ディベート」のテーマと云うと、「平和問題」とか「いじめ問題」等の社会問題を連想しがちですが、そんな重いテーマは中学の倫理の時間にでも、みんなで話し合えばいいのです。
国語でやるなら、目的は「修辞技術の練習」と割り切って、テーマももっと身近で、軽くて、意見が言い易く、後々しこりが残らないものにすべきです。例えば

「かつ丼の上に散らすのは、三つ葉が良いかグリーンピースが良いか」

とか。

ここで問われるのは、基本的に修辞の良し悪し、平たく言うと「聞き手の胸に響くか否か」と云うことです。
例えば
「三つ葉は確かに爽やかな香りでアクセントになりますが、香りが強いのでかつ丼の風味を邪魔します」
と言うか、
「香りの自己主張が強すぎるんですよ、三つ葉は。確かに好い香りですが、かつ丼の中に入るとお互いの香りが喧嘩してしまうんです。まるで歌舞伎の中に宝塚女優が入ったみたいに」
と言うかでは、インパクトはかなり違うと思いますが如何でしょうか。
(因みに私は別に「三つ葉反対」論者ではありません。飽く迄も例ですww)

日本社会はアメリカ社会と違ってコミュニケーションの障壁が低く、一から十まで言葉を尽くして説明しなければ物事が進まないと云う訳ではありません。
然し、他の条件が同じなら「話し上手」な方が有利なのは間違いないでしょうから、「修辞」を学ぶと云うのは意外と大事なことであり、それがきちんと学べるのが実は「国語」の時間なのです。


今日はここまでにしとう御座います。
次は「行間」ですね。
結構日にちが開いてしまいましたね。まだ続きます。

前回の「水」と「water」の関係ですが、コメント欄でニナタカ・クララ様が正解をお書きになりましたので、それについて簡単に解説します。

英語のWaterは、日本語で水…ではなく、答は「水またはお湯」になるわけです。
この仕事をしていると、よく

「カップラーメンを作ろうと思ったら熱い水がありませんでした」

と云う様な不思議な言葉を聞きます。

因みに「じゃ、何℃までが水で何℃からがお湯ですか」という質問もよくされますね。
私は

「入って(または手を入れて)温かかったらお湯、そうじゃなかったら水」

と答えます。
え?いい加減?そうですねwww
でも、良いんです。普通、そういう質問をする外国人は、別に厳密な定義を求めている訳じゃ無く、ただ目安が知りたいだけなのですから。
質問が「温度を聞く」と云う形なのも、多くの場合はそれが彼らの日本語力で出来る質問だからです。曖昧な事と云うのは理解するにも表現するにもそれなりの語学力が要求されるのです。

ところで、前回コメント欄へのお返事に「ほぼ正解」と書きましたが、実は初級の学習者に対してなら上記の答えで「正解」なのです。
ただ、これが上級者になると様々な語彙が必要になります。
例えば
water pollution:「水質」汚染
water a garden:庭に「水を撒く」
my mouth started to water:「よだれ」が出る
の様に、waterには名詞、動詞、形容詞など様々な用法があります。

また日本語の「水」には「みず」と云う訓と、「すい」と云う音の二つの読み方があります。

他にも水を表す言葉に「み」「みな」等もあります。「水」「海」「港」「源」。これらの言葉に含まれる「み」または「みな」が全て共通の意味を持つと云う日本人ならすぐ理解できる認識も、学習で体得するには時間が必要です。

以上の様に、言語が異なると、単語一つでも複雑な違いがあるので、学ぶ方も教える方も十分な注意が必要です。



ではここで再び国語教育にお出まし願いましょう。
上記の様な問題が殆ど無く、(基本的に)意思の疎通に障碍の無いネイティブスピーカーへの「国語教育」の場合は何を教えるのでしょうか。

国語教育で重要なのは大きく分けると三つだと思います。

(1)言語と文化の繋がりの理解と、それを受容する感性の育成。所謂「感受性」の教育

(2)自分の意図を言語によって最も効果的に相手に伝える方法。所謂「修辞」の技法

(3)文章の裏にある、発言者の真意を読み取る力の育成。所謂「行間」の読み方

です。
(勿論、仮名や漢字の表記法の練習と言うのも重要な構成要素の一つですが、これは余りにも基礎であり、且つ日本語教育にも共通するものなので、ここでは省略します)


さて、この三つの分野について、皆さんはどんな教育を受けたでしょうか。
まず(1)ですが、国語の時間に先生が作品の背景や舞台となった場所について話して下さったことと思います。例えば与謝野晶子と日露戦争の話とか。歴史の話、風土の話、著者の略歴、etc.etc...
これは教師の総合的な知識(含むトリビア)と話術が必要になります。

私の個人的経験で言うと、この部分に関して今の国語教育はやや不足している気がします。
与謝野晶子や宮澤賢治の背景は詳しく語られるのに、寺田寅彦についてはあまり語られないのは何故でしょう。
正直言って「不倫で奔放」の与謝野晶子より、「物理学者で随筆家で多くの文人から一目置かれていた」寺田寅彦についての方が、ずっと興味深いし、教育的にも語るべき内容だと思うのですが…。

ところで寺田寅彦の随筆って、今でも国語の教科書に載っているんですかね?

実は国語の教科書に何が載っているかも重要なんですよね。
真に日本を愛する方々にも「歴史の教科書には非常に敏感」でも、意外に「国語の教科書は余り気にしない」方が多い様な気がします。

でも、例えば載っているのが「人間失格」「蟹工船」「太陽のない街」と云うラインナップだったら、教室で語られる「人生」や「社会」はどんなものになるでしょう。そんな話ばかり聞いて、自信に満ち溢れ、国を愛し、社会を守る人間が育つでしょうか。

勿論そういう作品が不要だと言うのではありません。
ただ、「国語」と云う教科は、日本人としての人間性、感受性を育てるという面があることを意識してバランス良く教育しなければならないし、教科書もそれを意識して編集されるべきだということです。
特に道徳教育が軽視されている昨今、

実は国語教育と国語教師の役割は、かなり重要なのです。



今日はここまでにしとう御座います。
書き疲れたら切ると云う形で書いている所為で、結構中途半端に切れていますね。
次回、終わるか!?(多分無理w)
今日も今日とて、記憶訪ねて三千里……アメデオ並みの記憶力と闘いながら続きを書きます。
では、今日はまず「日本語教育」の視点から見てみましょう。(先に逃げ口上を打って置きますが、飽く迄も私見です^^;)


まず次の二つの文を比べてみて下さい。

女房が風呂に入ってから寝る

女房は風呂に入ってから寝る


日本語のネイティブスピーカーは、この二文で「寝る人」が違うと云うことが苦も無く理解できますが、「じゃ、どうして?」と聞かれると、殆どの人は上手に説明できないと思います。
それはそうです。「が」と「は」の違いは、専門家の研究テーマにされるような内容なのですから。
我々日本人は、長い歴史の中で自然に変化したものを、長い人生の中で経験則として覚えているのです。

そして、それを「難しい論理的説明をせず」に、「解りやすい言葉と例で説明する」のが「日本語教育」です。
いや、それだけじゃ無いんですけどね。要はそう云う所からスタートしなければならないと云うことです。
要するに日本語教育が国語教育と大きく違うのは、当たり前のことを当たり前じゃなくして、自分が何気なく使っている言葉を重箱の隅をつつくように分析し、それを噛み砕いて伝えなければならない所です。

例えば、ある外国人が

「英語のWaterは、日本語で何ですか?」

と質問して来たら、貴方は何と答えますか?


「水(みず)」と答えた貴方。残念!70点です。



減点理由は内緒www



この様に(どの様に?)単語レベルでも、細かい分析をしなければ出来ないのが日本語教育です。
(ここだけの話、それをしないで教えている好い加減な教師もいますが)
基礎の基礎から、体系的に教えて行く場合、(少なくとも初期には)出来るだけ余計な変数を除き、規範的なものを教えなければなりません。じゃないと混乱しますからね。
(その変数がスラングであったり、ラ抜き言葉であったり、罵倒表現であったり、多岐に渡る上に日常にゴロゴロしているので、日本国内で教える日本語教師は大変です)

また、外国語を勉強する時には、どうしても「母語の干渉」と云うやつが障碍になります。
母語の干渉と言っても多種多様ですが、一番解り易いのは発音でしょうか。
例えば日本語の「ざずぜぞ」の発音は韓国語やタイ語にはありません。
ですから一般的にタイの人にとっては、タイの象タイの僧の区別が難しいのです。(発音も聞き取りも)
勿論、他にも文法や語彙等、様々な母語の干渉があります。
日本語教育…と云うか外国語教育においては、この学習者の母語の干渉を出来る限り排除することも必要になります。


とどのつまり何が言いたいかと云うと……

日本語の客観的分析から始めなければならない

ことと、

日本語の変数や母語の干渉を意識しながら教えなければならない

ことが日本語教育の大きな特徴だと云うことです。


今日はここまでに致しとう御座います。

何か随分長くなって来ましたね。
一番の問題は書いている自分が飽き始めていることですwww
勿論最後まで書きますけどね。(どこに着地するかは不明)

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