|
「市原城跡」は「勝浦街道」の「山木三叉路」から入って、勝浦方面へ約100mほど行った左側に場所にある。
城跡と言っても「光善寺」という寺が建っている場所以外はほとんど宅地化されており、遺構らしきものはほとんど残っていない。
私も勝浦街道は何百回も通っているのに、今回が初めての訪問となった。
さて、この「市原城」は「里見氏」の家臣で「忍丹波守」という武将の居城だったらしいが、記録もほとんど残っておらず、詳細は分かっていないようだ。
ただ、「関八州古戦録」という「軍記」には、1554年(天文23年)の「北条氏康」による「久留里城」攻めの際、市原城主「芦野丹波守」の舎弟「丁民部少輔」が里見氏に従属していたということが記載されている。
ただ、市原城が戦国の争乱に関わってことは間違いないようで、平成9年に行った「市原市埋蔵文化財調査センター」による発掘調査では、「刀傷」を受けた15体分の「頭蓋骨」が周辺の土塁跡から発掘されている。
(市原城の中心部とされている場所に建つ「光善寺薬師堂」)
(千葉県下ではかなり古いとされている石塔)
(お寺の駐車場に接する隣家との境が土塁の名残か・・・?)
(城主「忍丹波守」の居城跡と井戸跡)
|
戦国の城・千葉県
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
「真里谷武田氏」は、室町時代中頃から戦国時代に至り「上総地方」を支配しました。
「真里谷城」はこの「武田氏」の祖である「武田信長」が「康正2年(1456)」に築城したと伝えられています。
「武田氏」といえば「武田信玄」代表とする「甲斐武田氏」が有名ですが、この武田信長も、甲斐の十三代守護「武田安芸守信満」の次男として誕生しました。
その後、武田信長の孫「武田信興」の代に姓を「武田氏」から「真里谷氏」に改め、「真里谷信清」の代には、対立していた「原氏」が拠っていた「小弓城」攻略をキッカケに「足利義明」を迎えて「小弓公方」とし、信清は自らを「房総管領」と称したのです。
しかし、隆盛を誇った「真里谷氏」も四代目「真里谷信隆」とその弟「真里谷信応」で内紛が発生するなどし衰退が始まり、拠点が「椎津城へ移された以降、上総国は「後北条氏」と「里見氏」の係争地と化し、「天正18年(1590)」、「豊臣秀吉」による「小田原征伐」で豊臣勢に攻められて落城、栄華を誇った真里谷城はついに廃城になりました。
真里谷城跡は、房総半島の中央部から西に流れ、東京湾へ繋がっている「小櫃川」の中流域(千葉県木更津市)に位置しています。
周辺は山々に囲まれ、天然の要塞といえますが、街道から外れるなど交通の要所を抑えきれていないなど、非常に辺鄙な場所に築かれた城で、築城者の「武田氏」は地元の出身ではなかったために、地元の豪族に疎まれることが無いよう、気を配る必要に迫られ、城として機能するには不便ともいえるこの様な場所へ城を建てたようです。
但し、交通の便を除けば、多郭雑形の城で、「一郭」「二郭」「三郭」「出城」で構成され、侵略者を阻むために天然の地形を巧みに利用した山城です。
周囲は小高い「土塁」に囲まれ、城の防御を徹底した典型的な戦国の城です。
(周囲は高い土塁に囲まれ、城の防御を徹底している)
(櫓跡)
堀切を出城方向へ向かうと右側(画像は反対から写したもの)に「櫓跡」があり、さらに右へ進むと「一郭」と「二郭」にぶつかります。
(郭跡)
郭を過ぎ「大堀切」を左に曲がると、城山神社へ出くわします。
(城山神社)
神社を過ぎるとすぐに「千畳敷」と呼ばれているこの城の「主郭」です。
(千畳敷)
(千畳敷の土塁)
その他にも「虎口」「堀切」「物見櫓」の遺構が良好な状態で残され、訪れた城跡マニアの目を飽きさせません。
(堀切)
(虎口)
(物見櫓)
「千葉少年自然の家キャンプ場」を城址の敷地内へ建設するため、千葉県は真里谷城の本格的な発掘調査を開始しました。
その結果、本丸の千畳敷を取り囲む土塁から、「明代」の頃の物と思われる「中国製陶磁器」や「かわらけ」、「焼壁材」などの多量の破片や、「釘」「鉄鏃」「鋲」などの金属製品が出土し、南側の尾根伝いと二郭、三郭からは、「水瓶」の欠片などの他に「炭化米」、「大豆」、「小豆」などの穀物類が大量に出土しました。
しかし、建物址については一郭と二郭に数軒の掘立柱跡が確認された程度で、実際にどれ位の規模の建物が建っていたかは今もって不明だそうですが、残存する城跡遺構を見る限りにおいては、相当な規模の城であったことは想像できます。
|
|
今夜は千葉県印西市(旧・本埜村)にある戦国時代の城跡「笠神城」です。
久留里城や佐倉城、大多喜城など千葉県下の有名な城と比べると、笠神城はかなりマイナーで、この城を知っている城跡マニアはかなり通だと言えるでしょう。
周囲を水田に囲まれた丘陵上に位置する笠神城は天然の水掘りを巧みに利用した要害城で、伝承によると「千葉常胤」の家臣「原豊前守」が城主であったとされています。
豊前守の父「原肥前守」は、利根川の対岸に城を築いていた「豊島氏」を豊前守に攻めさせるも、逆に返り討ちにあったという言伝えが残っているそうです。
さて、この「笠神城跡」は現在「南陽院」という寺院になっていて、本堂の建っている辺りが所謂「本丸」であったと想像できます。
(南陽院)
(この本堂の辺りが本丸であったと想像できる)
私がいつも参考にさせていただいている「余湖くんのホームページ」に掲載されている「鳥瞰図」を拝見しても、やはり本堂の建てられている場所が城の中心部だったようです。
(笠神城の鳥瞰図・・余湖くんのホームページより)
寺の正面入口から見る限り遺構らしきものは確認できず少々がっかりした気持ちになったのですが、小さな子供を遊ばせていた地元の方と思しき「おじいさん」にお話を聞くと、本堂裏手に「土塁」らしき跡が残っているとのことで、早速裏手に回ってみることにしました。
(土塁跡)
ありました!
規模はそれほど大きくなくかなり埋もれていますが、間違いなく土塁が確認できます。
さらに右手へ回り込むと、土塁はかなり高くなり「切通し」も見事に残っており、まさしく戦国時代の城跡の様相を呈しています。
この切通しを通ると本堂の裏手に出ることから、、戦国時代からのモノと考えられます。
(切通し跡)
(切通しを逆側から写した画像)
本堂側から切通しを抜け右に回ると、「根古屋」への道がつながります。
これも戦国時代からあった道に違いありません。
(根古屋へつながる道で、右側はかなり高い土塁が巡らされている)
さらに藪をかき分け先に進み寺の裏手の道路に出て、左側へ廻り込み、寺の正面入口へ再び戻ろうとしたら、「蘇羽鷹神社」と書かれた小さな鳥居が目に入りました。
城跡に神社は付きもので、そのほとんどが城の由来に関係している場合が多いことから、何か新しい発見があるかもと期待を込めながら鳥居を潜りしばらく歩くと、周囲を土塁で囲まれた急坂になります。
現在は石段が整備され登りやすくなっていますが、もしかすると昔はもっと急峻な「竪堀」だったのかもしれません。
(昔は竪堀だった・・・?)
さらに登り続けると、現在は神社で昔の「曲輪」の跡と思われる場所にたどり着きます。
この曲輪は面積的にはかなり狭いことから、「櫓」が建てられ周囲を見渡す「監視所」だったのかもしれません。
(曲輪から下を見る。現在は竹林で見渡しが利かないが遠くまで見通せる場所である)
規模としては小さな城で、寺の正面に位置する南側はほとんど遺構らしきモノが残っていませんが、裏手に回ると規模は小さくとも戦国当時はかなり強固な「要塞」であったことが伺われます。
一通り探索を終え「南陽寺」の正面入口から出たら再びあの「おじいさん」とお会いしたので、お礼方々いろいろお話を伺うと、地元で城の伝承はあまり語り継がれていないものの、南陽寺には城主「原豊前守」の位牌が安置されているということと、東側に位置する集落には原氏の家臣の末裔と伝えられている家が何軒かあるようだとのお話を聞かせていただきました。
由来も定かではなく、あまり人には知られない「謎多き城」ですが、それなりに楽しむことができるので、機会があればまた訪れていたいと考えています。
最後になりますが、「余湖のホームページ」から鳥瞰図の画像をお借りしました。有難うございました。
|
|
現在の千葉県佐倉市に築かれていた「臼井城」の起源は、千葉の一族「臼井常康」による12世紀初め頃とされています。
時を経て享徳の乱の際、文明10年(1478)の「境根原合戦」で「千葉自胤」に敗北した「千葉後孝胤」は臼井城へ敗走籠城し、半年以上による激戦の末、臼井城は落城しました。
その激戦により、「太田道灌」の弟である「太田資忠(図書)」がここで討ち死にしています。
後に「臼井氏」が滅亡後の永禄9年(1566)には、「千葉胤富」が籠城する臼井城を、天下の名将「上杉謙信」と「里見義弘」が攻め落城寸前まで追い込むも、反撃に出た胤富側の返り討ちにあい、城攻めの天才といわれた謙信が大敗北を喫すという大波乱があったのもこの城でした。
この場所を訪れ、下から見る限りではそれほど堅固な感じはしませんが、実際に城跡まで登ると、とにかく凄いものでした。
まず、土塁の高さと周囲に二重に掘られた空堀の深さに圧倒されます。
(かなり高く盛られている土塁)
(外と内側に掘られた二重の空堀により城攻めの兵は突破に困難を極めたことが想像できる)
永禄9年の上杉謙信による城攻めでは、城兵の反撃で上杉軍にかなりの犠牲者が出たとされていますが、大手門へ向かう坂道に沿って築かれた土塁の高さを見ると納得してしまいます。
籠城する城兵たちは、迫り来る上杉軍の兵に向けて弓矢や鉄砲による攻撃を雨あられの如く浴びせ、上杉軍はそれ以上進むことが出来ず、二進も三進もいかなくなってしまったのでしょう。
(アスファルトによって保護されている土橋跡)
城内に入ると、本丸へ行くための「土橋」があり、土橋を渡り切った左右には城の防御のための大きな土塁が築かれています
近年の発掘調査で土橋の位置が確認された後、保存のために埋め戻され、上はアスファルトによって舗装され、貴重な文化財を保護しています。
(反対側から見た土橋)
(現在は公園に整備されている郭跡)
当時の大手門であったであろう、「南口」から入るとすぐに開けた大きな郭に出ます。
とにかく面積は広大で、ここには多くの建物が建ち、相当数の城兵たちが城を警護していたのでしょう。
(本丸から見た印旛沼)
最後に本丸に到着したとき、不覚にもデジカメの電池が切れて本丸を写すことが出来ませんでした。
本丸そのものは公園として整備されていています。
上の画像は本丸から眺めた「印旛沼」です。
印旛沼は江戸時代後期から整備されたようですが、当然のことながら戦国時代もこの地には利根川の支流が流れていたはずで、それら河川は物流や水源などに使われ、この城にとっても重要な役割を果たしていたはずです。
この本丸を発掘調査した際、黒く炭化した米や焦げた陶磁器なども見つかったそうで、そんな遺物からも城攻めが如何に激戦であったか窺い知ることが出来ます。
城のすぐ脇には、文明11年の城攻めで討ち死にした「太田図書助」ほか、53名の兵が弔われた墓が現存しており、現在でも地元の住民たちによって、手厚く管理保存されています。
また、昭和の中頃、この墓から少し南側へ下った家の建て替えのために庭の裏側にあった土盛り(城の土留?)を崩したら、鉄砲の玉と思われるモノや鎧の一部と思われる破片が出てきたという話もあるそうです。
それらが戦国時代のモノかどうか分かりませんが、幾度も攻められているこの城跡周辺から戦の遺物が出ても不思議なことではありません。
現在は公園として整備されているこの「臼井城」も、比較的遺構の状態は良好で、城郭マニアなら一度は訪れて損はないかと思われます。
とくに空堀や土塁などは戦国の当時のままで残され、この城を攻めた武将たちが如何に苦戦を強いられたか知ることが出来る貴重な城跡と言えるのではと思います。
|
|
「近きにありて遠く也・・」という諺があるように、以前から訪れようと思いながらも、中々その機会を得られず、今年の春に初めて探訪したのが、千葉県市原市にある「池和田城」でした。
場所は千葉県を横断する「小湊鉄道」の「日本の駅100選」で有名な「上総鶴舞駅」から徒歩7〜8分の非常に行きやすい場所にあります。
さて、この池和田城・・・「里見義弘」の家臣、「多賀越中守高明」の居城で、「国府台合戦」で戦死した高明の嫡男「蔵人」と弟の「兵衛」が城を護っていましたが、1564年(永禄7年)、浦賀を発った「後の小田原北条四代当主・北条氏政」率いる1万の兵の攻撃を受け、蔵人と兵衛兄弟は奮戦するも城内に内応者が出てついに力尽き、自らの手で城に火を放ち自刃し、池和田城は落城しました。
周囲が田園に囲まれ、道路から見ても然程高い場所に位置しないこの城は、ちょっと見では比較的攻めやすく思えるのですが、周囲の岩盤を削った急峻な護りには「北条方」もかなりの苦戦を強いられたようで、数百の人夫を以て周囲の家を毀し、その残がいや草木を用い何とか防御を乗り越えようとするも、相当な数の死傷者が出たと伝えられています。
この日、たまたま城跡内で犬の散歩をしていた地元の方から聞いた話では、その方が幼かった頃、城の内部にあった「洞窟」に入り、穴を掘ると当時のモノであろう「陶磁器の欠片」や「炭化した米」、「槍先」と思われるボロボロに錆びた鉄の一部、やはりボロボロに錆びた「刀の鍔」らしきものが出てきたり、鉄砲玉らしき小さな球状の鉛が出ていたそうです。
北条の上総攻めにおいてあまり鉄砲は用いられなかったのではないかという一部の研究者の説もあるようですが、池和田城落城の数年前に氏政の父「北条氏康」が、「上野国」の「富岡氏」に鉄砲と弾薬を送ったという書状が残っていることを思えば、池和田城攻略に鉄砲が使われたことは十分に考えられ、土の中から出てきた小さな鉛玉は鉄砲玉で間違いないと思われます。
(城の崖上の突き出た部分にある平地。恐らく櫓跡では・・・・)
(本丸跡、草が生い茂り中へ入れなかった)
さらにお会いした地元の方から、少々気味悪い話しも聞きました。
その気味の悪い話しというのは、今から数十年前に城の西側にあった溜池を埋めるため、土を取ろうと付近の塚を崩したところ、岩の間から2メートルもあるような大きな「白蛇」が現れ、さらにその下を掘ると塚下から落城時に死亡した兵士と思われる多量の人骨が見つかり、その中には槍で突かれたような傷や刀で斬られたような傷のある頭蓋骨も含まれていたとのことです。
気味の悪い話しはそれだけではなく、夜中に城脇の国道を走っていたトラックの前に甲冑を纏った兵が現れ、それを避けようとしたトラックが水路に脱輪させてしまったとか、戦国時代からいまだ枯れずに水が湧き出ている城内の古井戸跡で、全身焼け爛れた数人の武者がうめき声を発しながら水を啜っていたなど、空恐ろしい話しもあるようで、地元では成仏できずにさまよっているそんな武者の霊を鎮めるために、多賀氏の末裔が城跡内に祠を建てたり、現在でも月に1度は地元の人たちが集まり、城跡の中を清掃し、供え物と花を手向けてさまよう霊の成仏を念じているとのことでした。古城跡にはどこにでもあるような恐怖話ですが、あまりにも血なまぐさい過去を持つこの城にそんな話しはピッタリという感じです。
(400年以上もの間、未だに水が湧き出ている古井戸跡)
見応えのある遺構はそれほど残ってはいませんが、まだ発掘調査もされていない「池和田城」の土の下には戦国がそのまま埋もれている・・・城好きなら一度は訪れることをお薦めしたい城跡です。
|
全1ページ
[1]


