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10年以上前に参加していた「歴史サークル(すでに解散)」のメンバーで、茨城県竜ケ崎市に住んでいた「S.Oさん」から、「牛久沼の近くに牛久城っていう城跡があるんだけど、機会があったら行ってみれば・・?、そこそこに面白いよ」と勧められられたのですが、当時の私は、「甲斐の武田」つまり「武田信玄」に流れを汲む「武田氏」に興味があり、暇を見つけては山梨県を中心とした信玄所縁の遺構ばかりに足を向けていて、「牛久城」という名は聞いたことがあるという程度で、「S.Oさん」の勧めにも、「まあ機会があったら・・・」程度の生返事ばかりしていました。
S.Oさんとのそんな会話も忘れていた一昨年の晩秋、昔の仕事仲間が牛久市で営んでいるリサイクルショップを訪れる機会があり、「ちょっと行ってみようかな・・」という気になって、S.Oさんと交わした会話から約10年の歳月を経て、初めて茨城県牛久市にある「牛久城」を訪れたのです。
伝承によれば牛久城は、周辺を領地として治めていた武将「岡見冶広」によって天文後半の(1550年)頃に築城されたと伝えられています。
その後、岡見氏は常陸下妻(現、茨城県下妻市)を領地としていた「多賀谷氏」と対立し、支城の「谷田部城」「足高城」は多賀谷氏の軍勢によって落城させられるも、同盟する「小金城」の「高城氏」、「布川城」の「豊島氏」の援軍を受け、何とか牛久城だけは辛うじて守り抜きました。
しかし、やはり同盟を結んでいた「後北条氏」が天正18年に「豊臣秀吉」による「小田原攻め」に伴う「東国攻め」で滅亡したことで牛久城も開城、そして一旦は秀吉の命で「由良国繁」が城主となるも、豊臣滅亡後の元和9年(1623年)に廃城となり、牛久城は約70年の歴史を閉じたのです。
牛久城は国道6号線から僅かの場所に位置するのですが、案内板もなく道が細いのでとにかく分かり難い・・・・・・。
地元の人に尋ね尋ね何とか辿り着くことが出来ました。
道路から少し入った畑の木戸口際に看板がポツン立っており、その奥が鬱蒼とした山林になっていてその山林が牛久城跡なのですが、山林へ一歩入った瞬間に「何故もっと早く訪れなかったのだろう・・・」と後悔しました。
まず目に飛び込んだのが、城跡マニアなら「鳥肌」が立つような「土塁」と「空堀」で、掘りの深さは10メートル近くあり、周囲に繋がる土塁もほとんどが5メートル以上の素晴らしいものです。
さらに先へ進むと、そこには戦国時代そのままの状態で残されていると思われるほどの「土橋」が掘りを渡っています。
(二郭へ入る土橋)
(土橋から二郭へ入るための虎口)
土橋を渡り、「虎口」を抜けると「二郭」に入ります。
これがまた広く、恐らく相当な規模の建物が建っていたに違いありません。
(二郭)
二郭を出て左へ進むと「馬出」のように見える「郭」に出ます。
(この郭は馬出?・・・か)
とにかく牛久城はこれだけの城跡であるにも関わらず、説明文が書かれた看板が全く立てられていないのです。
ここは私有地であるため、もしかすると地主が看板を立てさせないのかもしれませんね・・・・残念です。
(超ど級の土塁)
広大な郭と見上げるような空堀の底を先に進むと、また別の土橋が目に入ります。
「一郭」へ繋がる土橋です。
(一郭へ繋がる土橋)
土橋を渡って少し進むと(一郭)へ出ました。
一郭もかなり広大で、相当な規模の建物が建てられていたのではないかと思われます。
(一郭)
一郭から下がり裏手へ廻りこむともの凄い空堀に出くわします。
画像では分り難いですが相当な深さと幅です。
(凄い規模の空堀)
一郭を囲む空堀の土塁には「竪堀」の痕跡らしきものも確認できました。
(竪堀らしき痕跡)
牛久城は牛久沼に囲まれた非常に防御に優れた城だったと思われます、
この堅固な造りを見ると、谷田部城、足高城が落城するも、ここ牛久城は持ち堪えられたのも頷けます。
造り的には埼玉県の「鉢形城」や「八王子城」と雰囲気が似ているような感じがするので、後北条による手もかなり加えられたようです。
この牛久城・・・・まだ本格的な発掘調査は行われていないそうですが、これほどまで遺構が良い状態で残されているのですから、私的には「国指定」級の価値はあると思うし、それがダメであるならせめて県の指定史跡として登録保存し、本格的な発掘調査も行われるべきだと考えます。
一度行けば、もう一度訪れたくなるのがこの城です。
(余湖くんのホープページより、素晴らしい鳥瞰図をお借りしました。)
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戦国の城・茨城県
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