戦国の城・東京都

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葛西城

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先日、仕事の途中でトイレに立ち寄った公園が「葛西城址」だった。
環状7号線に分断されて遺構らしきものは全く残っていないが、葛西城は「後北条」の支城として幾多の騒乱の舞台になったようである。
道路工事に伴う発掘調査では戦国期の物と推定される生活用具などが出土したほか、人間の「頭蓋骨」が見つかり話題になった。
 
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八王子城(3)

さて、前回に続き「八王子城」です。
八王子城は別名「悲劇の城」と呼ばれています。
城主「北条氏照」は豊臣秀吉による「小田原征伐」に控え、ほとんどの兵を引き連れ「後北条」に総本家である「小田原城」へ援軍として向かいました。
八王子城に残ったのは氏照の正室である「比佐」と婦女子に僅かな家臣と城兵のみで、いかに堅固な要塞であった八王子城でも、実戦配備に必要な人的資源が枯渇していては、無防備に等しい状況であったと推測できます。
 
まさにそのことを物語るように、天正18年(1590年)7月24日(旧暦6月23日)未明、「大手口」と北側の「絡め手」からなだれ込んだ「前田利家」、「上杉景勝」、「真田昌幸」らの武将が率いる「豊臣連合軍」の兵15,000人に攻撃され、城代だった「横地監物吉信」、家臣の「狩野主善一庵」「中山勘解由家範」ほか、領内の農民(恐らく有事の際に招集されるために訓練を受けた農兵だったのでは・・・・)が必死の抵抗をするも、多勢に無勢で八王子城はわずか一日で落城してしまいました。
 
一説によると、豊臣軍が途中落とした上野国「松井田城」の攻め方が甘いと「秀吉」から叱責された前田利家らは、八王子城においては徹底した殺戮を行い、城中はまさに「修羅場」と化した「地獄絵図」だったそうです。
 
そして追い詰められ、「後主殿」に立てこもった氏照の妻「比佐」と婦女子たちも自刃・・・・・・
建物は炎の海に包まれ、いたるところに敵味方双方の屍が転がり、城の全てが血の色に染まったのでしょう・・・。
 
前回の記した「曵き橋」を渡ると敷石の道と階段に出ます。
この敷石は近年の発掘調査で出土したものをそのまま修復、保存したもので、まさに北条氏照もこの石の上を歩いたのです。
敷石道の途中には「櫓門」の礎石や瓦なども出土し、その後の調査で「四足門」だったということも判明しました。
 
 
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(戦国期そのままの状態の敷石道と階段)
 
階段を上りきり、左へ折れると「後主殿」に到着です。
御主殿は八王子城の中でも最大の面積で、発掘調査では多くの建物跡が発見され、礎石の形状などからかなり大きな建物で、氏照が執務などを行った城の中枢部・・・つまり役所のような場所だったことが考えられるそうです。
 
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(壮大な免責の御主殿跡)
 
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御主殿跡からは、鉄砲弾などの武器や武具などのほか、陶器などの生活用具も多数発掘され、とくに同時に出土した「イタリア」の「ベネチア産ガラス器」は研究者の注目を集めました。
 
御主殿を奥に進み、藪化した狭い道をさらに奥へ入ると「殿の道」へ行き着きます。
この殿の道はかなり急峻な険しい上り坂で、本丸(主郭)へと通じており、敵に攻め込まれた際に城主の氏照が本丸へ行くための「隠し道」ではなかったのでしょうか・・・。
殿の道の途中にも戦国期のままの状態で残る石積みが現存し、要所要所に警護兵を立たせていたと思われる小さな郭状の平地も確認できます。
 
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(戦国期のままの状態で現存する「殿の道」の石積み、途中何ヶ所かに小さな郭状の平地がある)
 
つづく

八王子城(2)

前回の続きです。
 
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八王子城は複雑に配置された「曲輪群」を見る限り、超実戦的な造りであり、織田信長が築城した「安土城」を参考にしたというのも頷けます。
永禄12年(1569年)に「武田信玄」率いる2万の兵に落城寸前まで追い詰められた「滝山城」で辛酸を舐めた「北条氏照」は、滝山城を捨て、自然の要害とも言うべき守りの強固なここ「八王子城」に居を移しました。
・・・・にもかかわらず、天正18年の豊臣秀吉による「小田原征伐」の一環として、前田利家、真田昌幸、上杉景勝らによるそ豊臣連合軍の総攻撃を受け、僅か一日で落城した八王子城は、徳川家康による領地統括以後、近世に至るまで国有地として一般の立ち入りが制限され、戦国の姿そのままの状態で現代まで残されている貴重な城跡なのです。
 
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(あしだ曲輪に繋がる沢筋、八王子城は防御のために天然の地形を大いに活用している)
 
山上の遺構群を一通り廻った後は、いよいよ八王子城探索のクライマックスというべき、「御主殿」を目指します。
「あしだ曲輪」から「山下曲輪」を抜け、橋を渡ると「大手門跡」が目に入ります。
近年の発掘調査で門の礎石などが発見されました。
豊臣軍の城攻めの際には、この大手門をはじめ、あらゆる方向から数千人規模の兵がなだれ込んだと思われます。
 
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(大手門跡。礎石などは保存のため埋め戻されている)
 
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(大手門へ繋がる道。この道を通って数千の兵が攻め込んできたのだろう)
 
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大手門を後にし、「古道」を通って城の中枢部である「後主殿」へ向かいます。
古道の左手はかなり急峻な崖が続き、崖上には「太鼓曲輪」が形成されています。
戦国期には崖上に城を警護するための兵が配置されていて、侵入者を弓矢や鉄砲で狙い撃ちしたのかもしれません。
 
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(後主殿へ通じる古道)
 
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古道を進むと「城山川」に架かる橋が見えてきます。
この橋は「引橋」と呼ばれるもので、現在の橋は固定されていますが、戦国期は敵が攻めてきたときなど、橋を引いて渡れないようにして敵の侵入を防いだとも考えられているようです。
明治期の鳥瞰図から推測すると、実際に戦国期では橋がもう少し奥に架かっていたとも言われてます。
 
 
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つづく
 
今日は「東京都八王子市」に残る、「八王子城跡」です。
八王子城は「小田原城」の支城として、「後北条氏第三代・北条氏康」の次男(三男という説もあり)、「北条陸奥守氏照」によって、元亀2年(1571年)頃より築城し、天正15年(1587年)頃に氏照が本拠したと伝えられています。
 
当初、氏照は同じく八王子市内に在する「滝山城」に拠っていましたが、「甲斐」の「武田信玄」による「小田原攻撃」の一環で攻撃を受けた際、滝山城が落城寸前まで追い詰められたことに城の防御に限界を感じ、標高445メートルの急峻且つ複雑な地形を利用して築城されたのが八王子城なのです。(本拠を移した理由には、他にも様々な説がありますが・・・・)
 
しかし、後北条による「名胡桃城攻撃」に激怒した「豊臣秀吉」は、後北条氏を滅亡せしめるために「小田原征伐」を命じ、その一環として、上野「松井田城」などの後北条に属する城を次々と攻め落としながら南下してきた「前田利家」「上杉景勝」「真田昌幸」らの軍勢に加え、敗北した松井田城の「大道寺政繁」の兵も加わり、総勢15000人以上の豊臣連合軍の攻撃を受けて、天正18年(1590年)6月23日(旧暦)、遂に八王子城は落城しました。
 
この落城時、城主の氏照以下主だった家臣や兵たちは、秀吉の小田原攻めに備えるために本家である「小田原城」に参じており、留守を預かっていたのは氏照の家臣で八王子城の城代であった「横地監物吉信」他、「狩野主善一庵」「中山勘解由家範」などの僅かな家臣と兵だけで、そのほか城内には氏照の正室「比佐」と婦女子だけであったそうです。
 
そんな状況で15000人以上による豊臣連合軍の攻撃に対し、横地監物吉信ら家臣と残った兵たちらが必死に抵抗を試みるも、然したる抵抗など出来るはずもなく、多勢に無勢で僅か一日で敗北し、双方合わせこの激戦で1000名以上(一説には2000〜3000名)もの死傷者を出し、城内にいた婦女子たちも自刃したり、城の横を流れる「城山川」の途中の、「御主の滝」に身を投げて自らの命を絶ったとの言い伝えが残っています。
 
本家「小田原城」も豊臣軍22万人の攻撃を受けて落城。
八王子城の城主氏照は、秀吉の命により小田原城下にあった「田村安清」の屋敷において、兄の「北条氏政」とともに「切腹」して果てました。
 
現在、「国史跡」に指定され、「日本100名城」にも選ばれている八王子城ですが、秀吉による小田原征伐」後、時を経て「徳川」の直轄領地になり、明治以降も「国有林」として一般の立ち入りが制限されていたために、近年まで落城当時そのままの姿で保存されていました。
昭和に入ってから本格的な発掘調査が行われ、城跡からは建物や門の「礎石」や「敷石」、「水路」跡のほか、氏照が執務を執り行ったとされる「御主殿」では、「陶磁器」などの生活用具、各「曲輪」跡からは「鉄砲弾」や「石臼」など激戦の痕跡を物語る品々も多数出土しています。
 
 
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(城址入口)
 
城址入口正面を入ると、すぐ右側に「八王子城管理事務所」があり、土日、祭日などの休日は、管理事務所に申し出ると、ボランティアの方が城址内を案内してくれます。
 
非常に急峻な山城の「八王子城」ですが、現在は大勢訪れる登城者のために「新道」が整備されていますが、足に自信があるなら戦国の世から使われていた「城道(旧道)」を使って主郭まで登って行かれることお勧めします。
 
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(戦国時代に使われていた城道)
 
城道(旧道)を登り始めて気づくのは、「獣道」のような狭い道の右側が「断崖絶壁」で左側が自然の形状を利用した壁が連なっていることです。
途中、壁の数箇所に「石積」の痕跡が見られることから、所々に小さな「武者溜り」を設け、この道を登ってくる敵兵などの侵略者に「横矢」をかけられるようにしていたのかもしれません。
 
この日、一緒に登った「研究家」の方のお話では、右側の断崖の下に大きな落石が確認でき、その落石が一定の間隔を有するなど不自然な感じを受けることから、もしかすると豊臣勢がこの城道から攻め込もうとした際、城を守る北条の兵が何とか侵攻を食い止めようと落とした岩かもしれず、その際に死んで放置された兵の遺体が未だに沢下に残っているのではないか・・・とのことでした。
 
急峻な道をただ登っているだけだと、ここが城跡だとあまり感じられないのですが、左側の壁状には戦国時代の「石積み」がそのまま残り、急峻な崖上から矢を掛けられたり、鉄砲や石などで攻撃されたら右の絶壁に滑落して間違いなく命を落とすであろうことから、この城の築城にあたり、いかに防御という面に重点を置かれたかが想像できます。
 
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(戦国時代のままの状態で残っている石積み)
 
 
さらに登り続けると道が二手に分岐する場所があり、その崖上には武者溜りと思われる小さな平場があります。(画像なし)
恐らく、進行する敵兵が道の分岐点でスピードを落とした瞬間に、攻撃を仕掛けるために武者溜りを作ったのかもしれません。
 
途中にある「八王子神社」を通過し、約40分でこの城の「本丸」に到着します。
この本丸は城代の「横地監物吉信」が守り、最後まで抵抗を続けましたが、落城寸前に脱出するも、「檜原村(現在の東京都檜原村)」までたどり着いたところで力尽き、横地監物吉信は切腹して果てました。
 
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(横地監物吉信が守っていた本丸跡。発掘調査で鉄砲弾などが出土し、攻撃を受けた形跡が確認された)
 
 
思いのほか「本丸」の敷地面積は小さく、それほど大きな建物は建てられていなかったと思わます。
発掘調査でここ「本丸跡」からは変形した「鉄砲弾」や炭化した「木片」も出土しているので、この場所も豊臣軍の総攻撃を受け、建物は火をかけられ炎上してしまったのでしょう。
本丸を後にし、しばらく下ると氏照の家臣「金子三郎左衛門家重」が守っていたとされる「金子丸」という曲輪に着きます。
 
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(金子三郎左衛門家重が守っていた金子丸跡)
 
八王子城を訪れて感じたことは、他の城跡に比べ、本丸を含めどこの曲輪もその規模が非常に小さいということです。
前出の研究家の方によると、八王子城のような急峻且つ、複雑な地形を利用して造られた山城では、大きな曲輪に多数の兵を配置させるのではなく、城道をわざと細くすることで一挙に敵兵が登ってこれないような工夫を施し、少ない人数で効率よく敵を敵を倒すことができるよう「小さな曲輪」を各所に点在させてのではないか・・・との見解でした。
なるほど・・・確かに大きな曲輪に多人数の兵を配置した場合、一旦そこを攻め落とされると多くの兵を失うことになり、多くの兵を失うということは城の防御も弱くなってしまいますが、城の随所に多数点在させた少人数の兵による小さな曲輪なら、たとえ1ヶ所が落とされてもそれほどの数の兵を失っていないのだから、城の防衛力はそれほど落ちていないというわけです。
まさに先の「ベトナム戦争」でアメリカ軍が苦しめられた「北ベトナム軍」が得意とした「部隊に分散戦法(ゲリラ戦)」に似ています。
 
 
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(鳥瞰図は「余湖くんのホームページ」よりお借りしました)
 
(以下、つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東京都八王子市に戦国時代の文化財として国指定を受けている「八王子城」があります。1571年、小田原北条、北条氏康の三男、北条氏照によって八王子城は築かれました。
しかし、天下取りを果たそうとする「豊臣秀吉」が「名胡桃城(現群馬県)」を真田領とする裁定を下したにもかかわらず、それに反した北条家の家臣「猪俣邦憲」が名胡桃城を攻めたことに激怒した秀吉は「小田原征伐」を命じ、その一環として八王子城も、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らが率いる豊臣軍総勢15,000人の兵に攻められ、1590年(天正18年)7月24日に敢え無く落城しました。
その際、北条側の死者は1000人以上(一説には3000人)にも及び、城内にある「御主殿の滝」は死者の血で三日三晩赤く染まったという言伝えが残っており、近年まで落城の日が訪れると近隣の住民は血になぞらえた「赤飯」を炊いて供養をしたそうです。
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研究者の調査によれば、当時を伝承する書物に「落城の日、銃声けたたましく鳴り響き、その音はまさに雷鳴の如く」という記述が記されているとのことです。
 
しかし、ダイコウ軍曹は以前から織田VS武田による長篠の戦いで有名な「織田軍の鉄砲三段撃ち」やその他各地に残る合戦の鉄砲伝説には限りなく事実に異なるだろうと疑いを持っています。
 
その疑いの根拠は、戦国時代の伝承をそのまま信じれば数十万挺あったはずの鉄砲が約400年を経た現代において、わずか数挺しか現存していないということです。
鉄砲は当時大変な貴重品で高価なものした。
いつの戦もそうであるように、倒れた敵の屍から武器を奪い、その武器を我が方の武器として使用したのは当然であり、まして貴重且つ高価な鉄砲であるなら尚更のこと自分たちの武器に組み入れたはずなのですが、それが数挺しか現存していないのはあまりにも不自然であると思わざるを得ないのです。
また、国友を初めとする鉄砲鍛冶が信長など大名の命を受け、日夜を通して鉄砲づくりに明け暮れたことは知る人ぞ知るところです。
ただ、はたして当時の鉄砲鍛冶が伝承されているような数十万挺も生産数だけの能力を有していたでしょうか?
現在のようにコンピューター制御の機械や、旋盤の技術など無かった当時はすべてが手作りに頼るもので、銃身一本を作るにも真っ赤に焼いた粗鉄を鉄の棒に巻き付けそれを叩き上げ、最後に棒を抜いて銃身の体をなしたと何かの本で読んだことがあります。
 
ダイコウ軍曹の想像では、実際の鉄砲数は伝承されている数の10分の1にも満たなかったのではないだろうかと考えます。
八王子の城攻めで銃声が雷鳴の如くという伝説が残っているのに、近年の発掘調査で発見された鉄砲玉の数はそれほど多くありません。
本当に雷鳴を思わせるほどの鉄砲が撃たれたのであれば、もっと沢山の鉄砲玉が発掘されてもよさそうなものです。
 
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(某資料館に展示されている火縄銃。ただしほとんどが江戸後期のもの)
 
そしてもうひとつ生ずる疑問が、火縄銃の実戦性です
現在の軍用銃のように火縄銃では連発などできず、撃つごとに銃口から火薬を入れてその後に弾丸を込め、火蓋に火薬を注ぎ、最後に火縄で発火させて弾を発射するという非常に手間のかかるのがこの火縄銃なのです。
 
ダイコウ軍曹も火縄銃による実弾射撃を見学したことがありましたが、1発目を撃ち終え、2発目を発射するまでゆうに2分くらいかかっていました。
戦国時代の戦というのはテレビのドラマや映画を観てもわかるように、槍や刀を用いたガチンコの戦いです。
敵と味方がもつれ合い、前方だけでなく横からも背後からも敵が襲い掛かってくるというのに、悠長に弾などを込めている暇など無いはずです。
信長軍の三段撃ちについても、戦場という大混乱の中で、規則正しく整列した一斉射撃など考えにくいことです。
 
むしろ、戦国時代の主力武器は弓や槍刀で、鉄砲は敵を倒すというよりは威嚇する道具として使われ、現在に残る伝承はかなり誇張されているのではなかろうかと思えてならないのです。
 
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(現存する戦国時代の弓の矢先)
 
鎧に向けて鉄砲の試撃ちをさせたある戦国武将が胴に空いた穴を見て飛び上がって喜んだという話しが残っているようですが、弓矢で射抜くことが出来なかった鎧をいとも簡単に撃ち抜くことが出来る威力にどこの大名も脅威を感じたのは間違いないでしょう。
だからこそ、誇張した鉄砲の数をさも配備しているように敵方に流し、威圧を与えることで心理的効果を狙った言わば陽動作戦の道具として吹聴されたものが実しやかなものとして、さらに誇張され現代に伝わったのではないかと勝手な想像をしています。
 
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(鎧を貫く鉄砲玉に戦国武将は恐れ戦いた)
 
今後、資料の新たな発見や、発掘調査などで鉄砲に関する新事実が明らかになる時が来るかもしれません。
現時点において伝承されている史実はダイコウ軍曹にとってあまりにも説得力に欠けているのです。戦国の姿が色濃く残されている八王子城址を探訪し、そんなことを考えたダイコウ軍曹です。
 
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(築城時の石積みなど戦国時代の貴重な遺構がそのまま残る八王子城址)
 
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