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先日、群馬県水上温泉まで温泉旅行へ行った帰り道、近くにある「名胡桃城」を訪れました。
実はこの「名胡桃城」、10年ほど前に城跡マニアの「Mさん」の車に同乗させてもらい、探索をしようと途中まで出かけたのですが、走行していた関越道が事故で通行止めとなったため、一般道を迂回して現地へ向かおうとしたところ、今度はMさんの車がエンジントラブルに見舞われ、ついに断念を余儀なくされたという私には「いわくつき」の城です。
それからは私の住む「千葉県」からは然程遠くない水上であってもなかなか行く機会に恵まれず、今回10年を経てようやくの訪城となりました。
さて、この名胡桃城は天正7年(1579年)に、敵対していた「後北条」の領する「沼田城」を奪取するために合戦の前線基地と位置づけ、甲斐の「武田勝頼」が家臣の「真田昌幸」に命じて築城しました。
その後、破竹の勢いで全国のほとんどを制し、天下統一を目論んでいた「豊臣秀吉」により、利根沼田のほとんどは後北条の領地なれど、名胡桃城に限っては真田領とする旨の裁定を下されたのです。
しかし、そこは「したたか」な後北条のこと、いずれは「伊達政宗」の援軍を得て秀吉を返り討ちにせんと企んでいた後北条の強硬派は、秀吉の一方的な裁定などにおとなしく従うはずもありません。
沼田城代であり後北条の家臣「猪俣邦憲」に命じ、その頃、名胡桃城の城代「鈴木重則」の家臣をたぶらかし、寝返らせることにより、まんまと名胡桃城を奪取してしまうのです。
そこで激怒したのはメンツを潰された秀吉で、後北条が裁定に従わず、「惣無事令」にも反したというかどで「22万」の兵をもって後北条の本城「小田原城」を攻め、「北条早雲」以来五代続いた名門「後北条」は滅亡し、秀吉は天下統一を果たしました。
要はこの「名胡桃城」は秀吉に「小田原攻め」の口実を与え、秀吉に天下を取らせるに至った歴史的に重大な沿革を持つ城なのです。
今回の訪城は真夏ということもあって、雑草などの藪に行く手を阻まれるのではと覚悟はしていましたが、地元ボランティアの方々による除草作業が行われていて、「曲輪」などはある程度確認することが出来ました。
ただ、利根川を挟んだ沼田城を奪取するがために築城されたという歴史から、もう少し「要害」且つ規模の大きな城を期待していたのですが、実際に訪れてみると平地に位置し、規模もそれほど大きなものでなく、城というよりは「館跡」といった感じで、真田と後北条が躍起になって取り合ったという歴史的イメージからすれば、少々「以外な感じもしました。
この城を訪れる際は遺構などの見所に期待するのではなく、秀吉に天下統一のキッカケをつくったという側面から訪城されるほうがよいかもしれません。
城跡入口に「喫茶店」があり、店内の一角に「名胡桃城」に関する資料が展示されています。
また、ボタンティアの方がいらっしゃれば、城の歴史や発掘調査の詳細などを説明してくれます。
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戦国の城・その他
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