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舞草神社は草深い、また山深い神社です。 カーナビには無く、手持ちの地図には記載がありません。 大きな本屋で一関だけの地図を見ましたがそれにも有りません。 BOOKOFFで資料を探そうとしました。 BOOKOFFが見つかりません。カーナビは近くだと案内はするのですが見つかりませんでした。 あきらめて薄衣の道の駅に行きました。 22時を過ぎていました。 温泉のおかげでさっぱりして気持ちよい車中泊ができました。 早朝親戚の家を訪ねて、舞草神社の場所を聞くと、一関の叔父が神社の近くの学校に勤務したことがあり、詳しいから電話で聞いてみることになりました。電話に出た叔父は案内するから、千歳橋で9時に落ち合おうと即決です。 叔父の車の後をついて、舞草神社にたどりつくことができました。 神社の境内まで車でこれるのですが、ほとんど草の中を走っている感じです。 2年前に刀鍛冶の神社の話を親戚の伯父さんから漏れ聞いて、今回の旅行の目的のひとつとなりました。 舞草神社は案内してくれた叔父の子供のころは、馬の神社で、お祭りのときには近くの町や村から馬に乗った人たちが集まってきたのだそうです。 懐かしそうに叔父は話します。西側の参道から来たといいます。 その途中に巨岩があって、見晴らしが良いのだと! その参道は途中まで草をかってありましたが先は、獣道のようでした。 磐の上から、北上川のつくる田園の雄大な景色がひろがり、線路がこちらに向かっています。東北新幹線が川を渡って、この山を突き抜けているのだそうです。 千田先生は80を越えておられるようです。 言葉に力があり、お話に情熱があります。 舞草神社は源氏が攻めてきたころ、刀鍛冶の集団が居たそうです 舞草(もぐさ)の刀鍛冶たちが作った蕨手刀(わらびてとう)は当時としては画期的な刀でした。アテルイたち蝦夷といわれる、まつろわないひとたちの強さの一因は舞草鍛冶工たちが丹精こめて作った丈夫で良く切れる蕨手刀だったかもしれません。 最初にこの地で鍛冶を始めたのは文寿とされています。中国から渡来した人だとも言われ、舞草鍛冶は大陸の技術が、もとになっているように考えられています。欧州藤原三代の時期、舞草は武器製造所として欠かせない存在になっていました。藤原氏滅亡後、刀工は全国に散り、各地の刀鍛冶の元になったと言われます。 今は探し当てるのも大変な小さな神社になっていますが、日本刀の製作を先導した栄光の時代があったのでした。 芭蕉が西行法師をしたって、みちのくを旅した話 菅江真澄が東北を旅して、日記をのこした話 奥州藤原氏が菅原神社を勧請し、相川地区に神社を作ったはなし。 白山神社を確認するため、また平泉の地名が金沢から来ているのでないかと石川県まで出かけた話 奈良・京都に舞草のことを調べに言ったはなし。 ご自身が癌で、遺伝子治療をしている話 興味深いお話 満載でした。 叔父の家に戻って、従姉妹と三人で博物館に行きました。 舞草の蕨手刀が誇らしく展示されていました。 ほかにも一関が生んだ、幕末明治の展示がありました。 辞書言海の大槻文彦、 蘭学者の大槻玄沢、 関流和算を広めた和算家の千葉胤秀 ここで叔父と別れて、帰路に着きました。 数学が得意だった父のふるさとで和算が盛んであったとは初めて聞く話でした。それも微分・積分などまで考え出し、西欧に負けないレベルであったとは! いろんなことを気づかされた、すばらしい旅でした。 コメントを書く
おごう 2009年08月11日 21:55 無事に帰宅なさって安心しました。
花水の蛍さんの回った場所を地図で辿ってみましたが、凄い‼の一言です。 私も男性だったら一人旅で気になる歴史の各地を気ままに好きなだけ訪ね歩いてみたいなぁーと、思ってました。 弥生時代は刀の先は山型になった”突く”の形ですが、いつの時代から反りのある実戦型の形になったのか? どこの地方がルーツなのか?・・知りたいと思った事がありました。 鉱物資源が豊富な北上地方と、アテルイたち蝦夷の蕨手刀(わらびてとう)が結びついたのが、日本刀のルーツだったのですね。 やっと分りました。^^ これなら、”切る”ことができ強いはずです。 これだけの財力と刀があったのですから、最後まで義経と団結して頼朝に抵抗したら藤原氏の方が勝ってたかもしれない・・と、想像します。 そしたら奥州の歴史も別の道を進んだでしょうね。 花水の蛍さんのように書物だけでなく、ご自分の足で調べたら多くの興味のある事が分ったでしょう。 素晴らしい旅でしたね。(^−^)V
花水の蛍 2009年08月11日 23:55 さすがにわが友おごうさんらしい感想ですね!
蕨手刀にそりが入ったころ、大和側の剣は突きが主流の戦法だったようです。 蝦夷側は大和より一桁も少ない兵力で、馬上から切払う戦法で対抗、かなり善戦していたと言います。 歴史家の先生完全に蝦夷を応援している解説で愉快でした。 東日流外三郡誌偽書が確定したようですねと問いかけると 怪しいことも確かに有るけど真実も多いのだよと胸を張っておられましたよ!!!
おごう 2009年08月12日 09:05 花水の蛍さんのように古代史に詳しい方とお話できて、郷土史家の千田先生も大ご満悦だったでしょうね。
「東日流外三郡誌偽書(つがるそとさんぐんし)」の事は名前を聞いた事があるというだけで知りませんでしたから検索してみました。 戦後最大の偽書?! オウム真理教に与えた影響が大きい・・等などが書かれてました。 細かい内容は分りませんが、偽書であってもおもしろい話であることは確かみたいですね。
Tom 2009年08月14日 23:40 日本刀を制作する中央政権に属さない工人集団が、東北にいた。蝦夷と呼ばれる人達だった。出雲との関わりが想像される。面白いですね。
たしか、アニメ映画「もののけ姫」に鉄を生産する部落が出てきますね。大勢の女達が多々良を踏んでいる場面が出てきます。そこへ、都の政府の手が伸びてくる。そんな話だったかと。 出雲と岩手の関連。鳥取は良質の砂鉄が取れたのですか?そんな話を聞いたことがある様な気がします。あの辺には、新日鐵の工場があったのではなかったでしたっけ? 言葉の共通性、といえば、松本清張の「砂の器」に出てきますね。山陰に、東北弁に似た方言があるという話。「かめだけ」でしたっけ? 蝦夷というのは、総称だと思うのですが、人種的にはどういう人達なんですか? Tom 2009年08月14日 23:47 追加 刀の反りで、ふと」思ったのですが、岩手にはいい馬も沢山いたのではないのですか?南部馬は有名です。騎馬戦が得意だったとか、それに合わせた反りのある刀が生まれた、とか。 岩手は、確かに鉄とゆかりのある地方です。南部の鉄瓶など有名ですが、花水の蛍さんのお話しで、納得です。
花水の蛍 2009年08月15日 00:07 おごうさん 父の蔵書の東日流外三郡誌を何気なく見ていて卑弥呼が出てくるのでびっくりしました。
古代史の興味はそこが出発点でした。 古代の文書だと言うのに、そこから感じられる歴史観は現在のものなので変だなとは思いました。 面白いことは確かです。
花水の蛍 2009年08月15日 00:32 Tomさん 奥州は関東と並んで名馬の産地です。
私も下記のHPと同じような考えを持っています。 岩手は砂鉄が良く取れるところです。 実は砂鉄が取れるところは金も良く取れるそうで、川の中には蹉跌の下に砂金が有るのだそうです。アイヌたちは金の価値に気づかなかったそうです。渡来人がいち早く砂金を見つけて、大和朝廷を喜ばせ、3位の官位を授けられたとか! しかしこのために蝦夷は大和朝廷の圧迫を余計に受けるようになったそうです。国内には無いと思われた金が大量に奥州みちのくにあったためです。 出雲族はスサノオの神話からもわかるように鉄を精錬する技術を持った民族だったようです。 諏訪も砂鉄を意味する言葉だそうです。 鉄1Kg作るために木材が1トン必要だそうで、司馬遼太郎によると朝鮮の禿山は鉄を作るために生じた現象らしい。日本は植物の生育が活発なため、禿山にならずにすんだらしい。が同じところにいては燃料不足になるために移動せざるを得なかったとか。鉄を扱う鍛冶は一般の農耕民からは不気味な、気味の悪い存在だったようです。
Tom 2009年08月16日 00:23 花水の蛍さん
東北の蝦夷は、豪族の支配下に置かれていたのではないでしょうか?渡来人は、蝦夷を従えた豪族と協力したのではないのですか?それとも蝦夷と直接手を結んで産金事業を行っていたのでしょうか?豪族そのものが蝦夷だったのですか? 中尊寺の金色堂も、金の産出によって栄華を極めたことを示しているワケなんですね。だんだん話が見えてきました。奥州はかつては相当な大国だったのですねえ。出雲との連携は考えられますね。面白いです。 鉄と、金。 私は不思議に思います。人間は、軽い元素から重い元素へと支配の手を伸ばしていくように見えます。初めは、石ころでした。石器でした。主成分はケイ素、酸素です。次に銅や青銅。次が鉄。そして、金。最後は一番重いウランにまで手を伸ばします。 周期律表の原子番号の小さい方から大きい方へ。 考えてみますと、軽い元素は、宇宙の初期に出来、鉄などの重い元素は宇宙がかなり大きくなって、星の生成、死滅に伴う核融合反応が起きるようになってから出来てきたもので、後発元素です。地球は宇宙がかなり成熟してから出来た星ですから、鉄や金、ウランを比較的多く含みます。ですからヒトがそれを利用するというのは分かりますが、その鉱物や金属を軽いものから順次重いものへと支配していく、そこのところがとても不思議な気がします。 ちなみに、人間は生物で宇宙の初期に出来た軽い原素から出来ています。それにわずかの軽い金属(カルシウムなど)と、微量の重い金属(鉄など)を取り込んで生きています。 |
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★★岩手旅行・・楽しく読ませていただきました
アイヌ・・・にわか勉強しました。
光仁天皇774年から嵯峨天皇811年までの東北三十八年戦争
朝廷軍6回・計二十七・八万の遠征・・
当時の日本人口は六百万から七百万とも・・大戦争でした
その間の789年蝦夷(エミシ)軍主将アテルイと副将モレは10万の桓武朝廷軍を大敗させていますが
802年征夷大将軍・坂上田村麻呂に敗れ降伏平安京へ連行されたのち河内斬殺されたと・・・・
和睦を餌に騙し討ちだったようで・・
2009/9/1(火) 午前 0:35 [ コトブキ ]
kotobukiさん コメントありがとうございます。
坂上田村麻呂の意に反して、処刑したようですがひどい話ですよね!
桓武天皇は蝦夷を恐れていたようですね。
2009/9/1(火) 午後 6:32