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船玉神社はカーナビでは捜しにくい場所でした。あたらしく道路ができているのか、簡単には行けません。
ようやくたどりつくと、こじんまりとした社がありました。 このあたりの神社には山がつくらしく、船玉山とあります。唐松神社にも唐松山の表記がありました。もともと山にあったこともあるのでしょうが仏教徒の習合もあるのでしょう。 海岸からかなり距離があるところに、物部氏が古い伝承をもった神社をきづき、近くに神宮皇后の伝承をもつ神社があるとすると、蝦夷がこのあたりを支配した時代と重なる時期いったいどんな社会的な構造があったのか気になります。
昨年の旅のおり、一関の郷土史家、千田先生の東日流外三郡は真実も多いのだと主張されていたのが思い出されます。 そのとき先生は唐松神社が歴史解読のヒントだとおっしゃいました。 さて船玉神社から近くの古びた部落をでて国道にでました。
唐松神社に戻って、博物館に行くつもりが魔が指した様に右折して秋田方面に向かってしまいました。新道です。カーナビは道の無いところに転々としるしをつけます。 今回のたびのもうひとつのテーマは菅江真澄の墓を訪ねることです。
謎の多い旅人 菅江真澄は疑り深い津軽では散々な目にあいましたが秋田では大切にされて、さまざまな観察の旅行記をのこしています。 その当時の佐竹藩の殿様が、文芸を大切にする感性豊かな人だったことが、幸いして当時の風習などに関する記録が残ったわけです。 民俗学の草分けとして、柳田國男が尊敬のまなざしをそそぐ菅江真澄!秋田のすばらしい文化の風土から育った人です。 カーナビが案内する菅江真澄の墓は、秋田城跡の中です。周りをいくら走ってもそれらしい場所がありません。ひろい城跡には護国神社があり、菅江真澄の墓の案内はどこにもありません。
境内を歩き回って、秋田城の古代の姿をイメージした模型のあるところなどを回って、とりあえず護国神社を参拝することにしました。
終戦記念日にむかって準備中のようです。 何しろ城跡を存部に使っているのですから、りっぱな神社です。 何度か菅江真澄の墓を、土地の人に訊ねて居るうちにカーナビが真実を隠していることがようやくわかりました。国道をはさんで反対側にも城址があり、共同墓地があって、その一角にあることがわかりました。
くそ暑い日中に、ずいぶん歩き回りました。 菅江真澄の墓は小高い岡の上にあるひろびろとした墓地の中にありました。 コメント izota 2010年08月23日 12:15
熱中症にご注意。。 すばらしき執念。 さかのぼれば、若返る。。
さかのぼれば、知らしめられる。 何か。 行をして道を諭す。自らに。
花水の蛍2010年08月23日 14:40
izotaさん 今年の熱中症は怖いですね! 秋田護国神社の参道を歩いていると札幌の妹から電話が来ました。
一関の墓参りに関する連絡でした。その後で実は熱中症になって危なかったと!札幌の母ではなく電話の主の妹本人が倒れたと。 びっくりです。
用心しましょう!熱中症!!
おごう2010年08月23日 20:37
菅江真澄(すがえますみ)・・・全く知らない始めて聞く名前の人でした。 Wikipediaで検索してみました。江戸時代後期にこのような人物が居たのですね! あの見識高い柳田國男さんが尊敬するのが分るような気がします。 花水の蛍さんのおかげで色々 勉強できます♪ ありがとうございます。 花水の蛍2010年08月23日 23:27
おごうさんが菅江真澄をご存じないとは驚きました。 謎の多い生い立ちのひとで、いつも頭巾をかぶっていたそうです。
佐竹藩の殿様は頭巾の無礼をゆるして、活躍の場を与えてくれました。 真澄がなくなったとき、若い男が、頭巾をはずして真実を確かめようとするのを土地の老人たちは、先生がいつも隠そうとしていたのだからそのままにしておけととめたそうです。
司馬遼太郎の’街道を行く’のなかでその事情が書かれています。 |
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こんばんは。
東北の歴史も面白いですね。傑作
2011/2/18(金) 午後 8:59
あるくさん どうも
ご無沙汰いたしました
2011/5/6(金) 午後 8:50