全体表示

[ リスト ]

松之尾立石墓

イメージ 1

○松之尾立石墓は枕崎の遺跡を代表する遺跡ではないか。「枕崎市誌」、第3編 枕崎市の移り変わり、第1章 枕崎市の夜明け、第3節 遺跡の発掘調査では、その最初に『松之尾遺跡』と題して、松之尾立石墓を紹介している。

○「枕崎市誌」の『松之尾遺跡』冒頭は以下のように記述している。

   松之尾遺跡は、景勝の地として古くから地区民に親しまれてきた松之尾海岸の後背地、花渡川河口
  左岸に発達した海岸砂丘に立地している。この砂丘は砂採取、港湾建設等によって、現在はその面影
  を留めないが、古地図、写真、古老の聞き取り等をもとにして復元すると、標高二二叩幅100
  叩長さ600辰阿蕕い△辰董遺跡はこの砂丘の西側寄りに位置している。
   松之尾遺跡は、昭和三十六年(1961年)度の「鹿児島県遺跡地名表」によると、弥生時代後期
  の壺形土器片が散布する遺跡とだけの記載で、遺跡の性格、範囲等については不明であった。
   昭和四十七年(1972年)から翌年にかけて枕崎市が行った、砂丘の南側(枕崎港寄り)の削除
  工事中に、土器片、鉄鏃等が発見された。
   また、県文化財保護審議員の河口徳氏は、これらの遺物とともに出土したオオツタノハ・イモガイ
  ・ゴホウラ製の腕輪を前期古墳時代に副葬された「鍬形石の祖形」として発表された。

○昭和四十七年(1972年)から始まった削除工事は翌年で終了。しかし、その後、「枕崎市松之尾土地区画整理事業」が計画されたため、昭和五十五年(1980年)一月から三月にかけて、遺跡の確認と範囲の確認調査が実施された。その結果、遺跡の範囲は約4000平方辰任△襪海箸判明。そのうち約2000平方辰鮓酋景歛検他を発掘調査して記録保存することになった。

○結果、松之尾遺跡で出土したものは、壺形土器、高坏、坩、鉄器製品等の遺物のほか、土壙墓、立石等が確認されている。更に第二次発掘調査が昭和五十五年十月から翌年の一月に行われ、数多くの土壙墓、立石が現れ、また、壺形土器、高坏・坩等の多種多様な土器類、剣・刀子や鉄鏃などの鉄器類が出土している。

○調査の結果、松之尾遺跡は弥生時代終期から、古墳時代初頭にかけて盛行した砂丘に立地する埋葬遺跡であること、この砂丘を使用した初現は、弥生時代中期に求められることなどが判明したとある。なお、これらの遺物は、市立図書館、南薩地場産業振興センターに保存・展示されていると言う。

○「枕崎市誌」には、出土した遺物を、‥幹錙雰・刀・刀子)鉄器(鉄鏃)T箏租擺鎰ぴ悪ス瞑に分けて、白黒写真で掲載している。

○現地に出掛けてみると、そこは枕崎港手前の高台で、汐見公園となっている。上記したように、昭和50年前後、枕崎港整備の時に発見されたのが松之尾遺跡である。公園脇に『松之尾立石墓』の次の立て看板があった。

      松之尾立石墓
   ここにある石は、弥生時代中期頃(今から約1600年前)の墓に使用された立石です。
   石は板状の自然石で、石質は安山岩(火山岩の一つで灰色で、黒や白の斑点が見られる)です。
  ほかに立石をもたない古墳時代の墓(土壙墓)もあり、弥生時代中頃から墓地として、利用されて
  きました。
   なお、この立石墓は南薩地方にみられる独特の埋葬施設です。

○膨大な松之尾遺跡の遺物は、市立図書館、南薩地場産業振興センターに保存・展示されているというけれども、折角の松之尾遺跡の遺物は、どうしてそんなに分けて保存・展示される必要があるのだろうか。一カ所から出土したものなのだから、せめて、一カ所で見られるように善処をお願いしたい。それに南薩地場産業振興センターの展示を見学させていただいたが、恐ろしいほど不用心な展示であった。少なくとも文化財の扱いでは、あれは無いだろう。この点も善処を。

○上記の年代規定も気になる。弥生時代中期頃(今から約1600年前)とあるけれども、今から1600年前なら西暦400年前後となる。それなら、明らかに古墳時代だろう。松之尾遺跡の遺物状況は、おそらく2、3世紀のものではないか。私は全くの素人だから、断言することは出来ないが。


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事