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正平山光明寺

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○天保14年(1843年)刊行「三国名勝図会」が記録する揖宿郡指宿の佛寺には、以下のようなものがある。

  ・西意山寶蔵寺長勝院  拾九町村西方・真言宗
  ・安泰山源忠寺  拾九町村西方・曹洞宗
  ・正平山光明寺  拾町村・曹洞宗
  ・寶鏡山大圓寺  拾貳町村・臨済宗
  ・丈六山淨眞院西選寺  拾貳町村・真言宗
  ・地蔵堂  拾貳町村

○前回、拾貳町村の寶鏡山大圓寺の千手観音木像を案内した。千手観音木像を参拝した後、寶鏡山大圓寺跡や、「三国名勝図会」が記録する、『摺之濱温泉の後岡』とおぼしき岡に登った。ちょうど、寶鏡山大圓寺の後にもなる岡である。周囲は墓地になっているが、眺望がすばらしかった。一望のもとに指宿市街が見下ろされる。一時、絶景を堪能した。

○その後、拾町村の正平山光明寺跡に向かう。嘗て正平山光明寺が存在したあたりには、現在、光明禅寺と言う寺が新しく建っている。付近では、多くの正平山光明寺関連の遺物が今でも出土したりするそうで、近在の民家に保存されていると言う。

○その中のいくつかをsenjukannonさんに案内していただいた。民家の軒先に明らかに寺の鬼瓦とおぼしきものが放置されているし、聖徳太子像とおぼしきものも、民家の庭先に祀ってある。このあたりの民家は、そういうものを大切に保存しているとも伺った。

○こういうものが散逸してしまう前に、早急の対応が迫られているように感じた。もうしばらくすると、すべてが朽ち果ててしまうのであろう。折角の貴重な文化財が無造作に放置されている。何とも悲しい現実である。

○間違いなく行政は各寺の所在したところを認知しているはずである。それなのに、貴重な文化財を放置したままでいる。まるで朽ち果てるのを待っているかのように感じるのは私だけではあるまい。

○「三国名勝図会」は、『正平山光明寺』について、以下のように記し、絵図まで載せている。

      正平山光明寺
   ・地頭館より午の方、一里十町。
   十町村にあり。本府福昌寺の末にして、曹洞宗なり。開山定慧和尚、定慧は大職冠鎌足公の子なり。
  白雉四年、癸丑、五月十二日、入唐し、法相宗を傳へ、在唐二十七年にして、白鳳七年、帰朝し、
  文武天皇元年丁酉三月朔日、當寺を建立し、十一面観音[立像。長二尺五寸。日羅作。秘仏]を安置す。
  其後多くの星霜を経て廃せしを、応永中、恕翁公新たに精舎を建てられ、石屋和尚を勧請開山とし、
  守翁和尚を住持とし、福昌寺の末とし、公の母堂、敬外夫人[齢岳公の御夫人]の霊牌を安す。時に
  水田三町、荘園六ケ所を寄附せられしに、天正中、寺社勘落の時、官に収入す。其後又破壊して、
  観音堂のみありしを、先住錬山和尚が時、寺を再興せり。當寺の観音堂、応験顕著なるとて、近邑
  よりも参詣す。

○正平山光明寺の絵図には、立派な山門前に仁王像が立ち、観音堂・開山堂・方丈などの建物を載せる。

○正平山光明寺の開山が定慧和尚と言うのも恐れ入る話である。一般に、定恵(643〜666)は、皇極天皇2年から、天智天皇4年の人とするから、『在唐二十七年』はあり得ない話になる。白雉四年(653年)入唐、白鳳七年(677年)帰朝とあるけれども、それなら在唐24年になる。もっとも、「元亨釈書」は、定恵の没年を和銅7年(714年)とする。

○正平山光明寺の開山が定慧和尚であると言うのは、気になる話である。本当であれば、指宿市の歴史の古さを証明する。機会があれば調べてみたい。

○嘗て、正平山光明寺があったところあたりに、現在、新しく源忠山光明禅寺が建っている。源忠山光明禅寺も曹洞宗の禅寺だそうである。その源忠山光明禅寺内には、旧正平山光明寺の遺物がいくつか集められ、保存されている。その中に『湯豊宿郡』と記した板碑があった。案内板には以下のように記載されていた。

      板碑の略解
   當寺に安置してある「板碑」は、人皇百五代、後奈良天皇(西暦一五二〇年)の頃、指宿地頭職に
  あった津曲若狭守伴兼任、後に出家入道して「道参」と号せし人の建立である。
   往年(天文四年九月)指宿地頭の田代民部介を滅ぼし、後に指宿地頭となる。
   碑文によれば、入道後、互いに鎬を削った敵味方の冥福を弔うと共に、子孫の長久を祈念して「法
  華経千部会」法要を勤修し(天文十一年六月一日より十二年六月二十四日まで)、満願を記念して、
  この碑を自作せられ『天文十二年小春(陰暦十月)二十七日 沙門 敬白』とあることによって明ら
  かである。
   指宿市教育委員会が「市の文化財」として指定したことは、碑文の冒頭に「薩州湯豊宿主伴氏兼任
  法名道参」とある「湯豊宿」の三字である。
   現今では「指宿」「揖宿」とあるが、今より四百三十年余り昔には、この文字を使ったという「語
  元」が指定の理由である。
                 指宿市十町南迫田
                 當市史蹟 源忠山 光明禅寺侍局

○西暦一五二〇年頃の板碑に、「湯豊宿」の三字が存在するのは、貴重な史料である。ただ、それが揖宿の地名語源に直結するものとは、到底思えない。この時代で、それも板碑であれば、このような用例の仕方は普通に存在するからである。「湯豊宿」の三字は、どう考えても、飾字か佳字であろう。とても揖宿の語源とすることはできない。

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