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島津忠将公供養塔

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○中茶屋公園は牧之原から県道478号線で、福山に下りる坂の途中にある。公園前に「日州街道」の標識があるので、この道が日州街道だとばかり思っていた。しかし、中茶屋公園内にある案内図を見ると、県道478号線と旧日州街道とはまるで違う道であることが判る。県道478号は、いろは坂みたいにグルグルと回っているが、旧日州街道は斜めにまっすぐ横切っている感じである。

○国土地理院の二万五千分の一地図で確認すると、本来、この廻坂の存在するところは火口壁で、福山の宮浦神社あたりから西牧之原交差点まで、およそ380辰旅眥禳垢鯏个詁擦任△襦H根筋を利用しながら、旧日州街道が右手の谷間を登るのに対し、県道478号線は左手の谷間を登っている。それでも登りついたところは西牧之原交差点で同じ場所である。

○中茶屋公園のあるところでも、県道478号と旧日州街道は合流している。その合流地点から200辰曚錨个辰燭箸海蹐法島津忠将公の供養塔が存在する。

○島津忠将公の供養塔前の旧日州街道沿いに、『忠将の墓』の案内標識があり、以下のような案内板が設置されている。

      史跡島津忠将供養塔
  永禄四年(一五六一)廻城(仁田尾城)の攻防戦において、第十五代藩主島津貴久は肝属の宿敵
  肝属兼続と対峙した。七月十二日未明、竹原山の陣危うしの報に接し、勇将忠将(貴久の二弟)は
  古城(馬立塁)にあって怒髪天を衝き、単騎出撃救援せんとした。
   重臣町田忠林は、途中、伏兵あるやも知れずといましめたが、これを聞かず愛馬月毛に乗り、
  急坂をかけ登った。将卒もあとを追って、出撃奮戦したが、衆寡敵せず乱戦中遂に戦死した。
   忠林以下従臣三十余人も力戦して悉く戦死した。
   忠将年四十二歳、法号心翁大安居士、清水楞嚴寺に葬る。二世島津以久(宮崎佐土原藩主)天正
  三年(一五七五)冥福を祈り、供養塔を建立した。
          平成十四年三月二十五日     福山町教育委員会

○案内板の冒頭、『永禄四年』の文字が『永緑四年』となっている。こういう誤字はいけない。多分、同じ福山町教育委員会の設置だと思うけれども、案内標識には『忠将の墓』とある。上記文中に、『清水楞嚴寺に葬る』とあるのだから、この地に忠将の墓が存在するはずもなかろう。この地にあるのは、あくまで『島津忠将供養塔』である。

○ウィキペディアフリー百科事典は、島津忠将について、以下のように載せる。

       島津忠将
   島津忠将(しまづ ただまさ、1520年(永正17年)-1561年8月23日(永禄4年7月13日))は、戦国
  大名島津氏の武将。父は島津忠良。幼名は又四郎。政久。官は右馬頭。兄は島津宗家15代当主島津貴
  久、弟に島津尚久。室は佐多忠成の女。子に女(入来院重豊の室)、島津以久(日向佐土原藩初代藩
  主)、女(島津忠長の室)。
   薩摩島津氏の分家、相州家4代当主。父は相州家3代(伊作家10代)当主の島津忠良。兄の貴久が島
  津宗家を継いだため、相州家を継ぐ。武勇に長けた人物で、兄・貴久をよく補佐して各地を転戦。領
  内統一戦のほとんどに参加し武功を挙げた。天文17年(1548年)、大隅肝付氏・日向伊東氏の備えと
  して要衝・大隅清水城の城主となる。
   永禄4年(1561年)、大隅廻城城主の目が不自由であることにつけこみ、肝付兼続が廻城を奪った。
  これに対し、貴久は忠将と長子の島津義久を向かわせた。忠将は竹原山に陣を構えていたが、突出し
  た味方の将・町田久倍を救おうとしたところ、兼続の攻撃を受け戦死する。弟を討たれた貴久は自ら
  軍を率い出陣し兼続を撃退、廻城を奪還している。その後貴久は廻城を「福山城」と改名した。
   島津氏を戦国大名として躍進させる礎を築いた人物の一人として、高く評価されている戦国武将で
  ある。

○なかなか島津忠将の評価は高い。ただ、上記したウィキペディアフリー百科事典には見えないけれども、肝付兼続の室、御南は忠将の姉妹だし、忠将の兄、島津貴久の正室は肝付兼興の女で、肝付兼続の姉妹である。

○島津忠良と肝付兼興は、島津家と肝付家の共存を希求したと思われるのだが、その子供の時代はそうではなかった。そういう時代の悲劇の一つが廻城の戦いであったのではないか。

○島津忠将公供養塔は高台にあって、霧島市街が一望のもとに見渡せる。大きな樹木が邪魔して、現在は見ることは出来ないが、錦江湾・桜島も全部望める絶景の地である。折角なら、大きくなり過ぎた樹木を伐採し、供養塔を見晴らしの良い展望台にしてほしいものである。

○松尾芭蕉の「奥の細道」平泉の一節、

   三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ
  形を残す。先づ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館
  の下にて大河に落ち入る。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえた
  り。さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草
  青みたり」と、笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
    夏草や兵どもが夢の跡
    卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

の風景がここにはある。

●上記に、
   ・尾根筋を利用しながら、旧日州街道が右手の谷間を登るのに対し、県道478号線は左手の谷間
  を登っている。それでも登りついたところは西牧之原交差点で同じ場所である。
と書いた。先日、実際に牧之原から福山まで旧日州街道を歩いてきた。牧之原の旧日州街道は、西牧之原交差点を通っているわけではなかった。西牧之原交差点から国道504号線を南に1、5劼曚氷圓辰拭嵎瀬(ほぜ)」のバス停から西に下る道が旧日州街道である。訂正しておきたい。

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