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<矢切止夫氏著>
柳沢女太平記
四代将軍徳川家綱公は温和柔順にして御政事向きは大老酒井雅楽頭へ御委任せられしゆえ、雅楽頭の威勢はおおいに盛んなり。さて家綱公には御子なくして御舎弟二方あり、兄を甲府宰相左馬頭綱重公、弟君は館林右馬頭綱吉公と申しあげた。
さて甲府の緬重公は、生れつき大酒を好み給い日夜飲酒にふけり修身済家の道にうとく、忠臣根津字右衛円が、しきりに諌言なすといえども改めず、終にはうるさがって手討になし給う。しかし死した後も、その忠魂が出てきて君の飲酒を戒しめたので、緬重公も後には、その忠魂を尊敬し根津に祠を造る。今も下谷にある根津権現はこの祠堂なのである。が、それに反して綱吉公は怜悧にましまし仁義の道を旨とし給い、兄綱重公とは実に月とすっぽんの違いなりと世人はこぞって賞めたたえたものである。
時に延宝八年五月、右大臣征夷大将軍徳川家綱公が病にかかり給うに世子なく、臣下の面々御相続の評議を色々なきったところ、大老酒井雅楽頭が、しきりに我意をおしたてて傍若無人の挙動なり。
家綱公まだ御元気の頃より御弟君の内のいづれかをと仰せ出されていたけれども雅楽頭は、これを拒みしが家綱公思い止り給わず、雅楽頭へ御内談には、もし君たらんには甲府と館林とは何れがよろしきや、と仰せありたれぱ、雅楽頭御答に甲府公は飲淫にふけり国事を顧りみず、もとより御主君などは思いもよらず、館林公は怜悧にて和漢の書に達し給へども惜むらくは文あって武なし。もし将軍にならせられても今日のような様にては狡猾者にそそのかされ、終に国家危急に急に及ぶべし。まずまず御養君の御沙汰はおとどまり給うべし、と諌止したというのである。
さて、おのずからこのことはいつしか世上に洩れ聞こえてたからして、綱吉公の御附人牧野備後守思うよう、我君が御養君にならせ給い万一家綱公が蒐じ給い将軍に任じ給はばよし、さもなくば我々までも昇進はかなうまじ、何卒大願成就なさしめん、と独り心をいためたのであった。
時に京都真言の学寮智積院へ御武運長久の御祈祷を頼みたる所が、寺僧に随高坊という者ありたり。
彼償は元永田あたりに住み居りし松並道三といえる医者の子にて、博学秀才観相に抄を得て、すべての事が掌を指さすがごとき念力ある者なりしが、手続きをもとめて御祈蒔を頼みたるところ、それ以来牧野備前守邸内に滞留していた。
さて、牧野は深く随高坊を尊敬し緬古公の人相を観せたところ
「御主君は、当然天下を掌に握らせるは必定なり」と申したれぱ、綱古公もおおいに喜ぱれ、
「我もし天下の主とならば、何なりとも貴僧の願いを叶うべし」と仰せあれぱ、感激した随高坊は平伏して、
「やつがれの願いは、なんとか大僧正の身分に昇りて、天下の御祈祷を仰せ付けられたく」と、申し上げ、
《筆註……ここから柳佐和弥太郎(柳沢)が登場する》
それより「妹婿の柳佐和弥太郎」の住居を志ざし立ち出でける。
そもそも柳佐和弥太郎といえるは小普請役柳佐和刑部左衛門の子にして才知押すぐれし者にて妻は松並道三といえる医者の娘にて「おさめ」という容顔美麗にして才智すぐれたものだった。
さて随高坊は、麹町二番町の弥太郎方に滞留して、牧野術後守より綱基地の御武運長久の御祈祷依頼を請われるまま、
「綱吉公の御容貌を観相したるに、必ずや天下の主と成り給うは疑いなし」など弥太郎にも物語りきかせた。
さて立身出世を願うは人の情なれども白分には縁故がなきためなんともならずと、かねて弥太郎、は深く歎き居たりし身ゆえ、この事を聞き小躍りなして歓び、随高坊の紹介にて牧野備後守屋敷へゆくと、進物をもってゆき礼をつくして尊敬し交り深くなりぬ。
さても牧野は弥太郎の才知あるを知ったからして、綱吉公へ上申し御伽番に周旋したからして、浪人だった弥太郎の歓び大かたならずであった。
しばしば側近習番にもやがて召出され、百五十俵二人扶持を給いたのに感激して、それより、茶の湯、或いは詩を作り歌を詠じ、雑談等して、日々御側をさらす勤仕したれぱ、なお百五十俵くだされ都合で二百俵二人扶持となりたるしくみであった。
さて緬基地とは性偏頗にして学問をこのませ給い、折々御気分欝々になられるを家臣一同は牧野備後守はじめ皆々心配していた。
そこで弥太郎は、ここぞ我が力を売る所と張りきり、綱吉公の御心を慰めたれぱ、いつとなく御気分もまぎれ何気色うるわしくならせ給う。そこで綱吉公の御母堂も深く喜悦あらせられ、牧野備後守に間合せられたれば、牧野は、柳佐和弥太郎が才知機転より仰素読もなされるよう御病状も次第に御全快あらせられたと、しきりに弥太郎を賞めたれば、母君桂章院殿にも御満足の上意ありたれぱ、弥太郎は厚ぎ御沙汰に伏して喜ひを申上げたり。
ここに館林公の御家来にて本庄次郎左衛門とて万百石賜りたる人は柱章院殿の御甥でありたれば、今は家臣となれども正しくは綱吉公には本庄は伯父にあたっていた。
そこで手づるを求めて立入なば立身出世の早道ならんと交りを結びしあと、弥太郎はしきりと賄賂を送りたれぱ、本庄も弥太郎を愛顧するようになった。
或るとき弥太郎は次郎左衛門へ改まって申したるは、
「先生の御厚志にて、度々拝領ものなどを賜っておりますれぱ、「愚妻さめ」をば御局側年寄福井さま御殿まで伺わせたく存じますが、なにとぞ良ろしゆうに……」と相談をした。本庄が承知して便宜を計ってやると、
「有難うこざる」と柳佐和弥太郎はおおいに喜びて、色々な珍貴な品々を収り揃えさせてから、おさめに申しふくめ、局の許まで差し出した。さて、兼ねてよりとりなしがよくしてあったので、御手寄福井さまは、「おさめ」伴ってゆき、桂章院へ献上のうえで御目見得の仰せもうけてきた。
「夫の弥太郎の骨折りで、綱吉の不快が直りかけは満足なり、そちも時々は館へまいるべし」
桂章院殿はねんごろに仰せられて上々の首尾であった。
さても綱吉公は学問にのみ御心を傾けられ女色をきらいカ男色を愛し給うが故に、御母堂の御心労ひとかたならず、よって牧野備後守に仰せられるは柳佐和弥太郎はきけ者ゆえ、女色を進めまいらせんためと存じ万事を弥太郎に任せたり。それゆえ柳佐和は仰せかしこみ、もっぱらその事のみ心を砕きたる。
さても延宝八年五月六日に、四代将軍家綱公卿養生叶わず御他界あらせられたれども、御世継ぎ君の御決定なきゆえ、御三家をよばれて大老酒井候御老中も列席にて、御評議の上ついに綱吉公と定りたれば、ここに至って家綱公薨去の仰せ出されありて即日綱吉公は大納言に任じ西の丸へ入り給いたり。時に大老酒井候は病気として引こもり、己が意のごとくならざりしため切腹してはてた。それゆえ堀田備中守が大老を仰せつけられた。
綱吉公天下の主となり給いたれば御母君の弟本庄久郎右衛門へ五万石賜り因幡守に任じ、牧野備後守には二万石御加増あり、その他餌林家に仕えし輩ことごとく御取立あり。
なかんずく柳佐和弥太郎は西京より美女を召し下し、綱吉公の仰伽ぎに差出したれぱ御愛顧ひと方ならず三千石下しおかれ御側役をも仰せつけられ出羽守と任官し、なお一万石御加増にて都合一万二千石を賜り御側御用人にまで立身したのでその威勢は日々に盛になった。
また知積院の所化随高坊へは兼ての約定もあれば大僧正に任ぜられ、一ッ橋外に地所を清め御武運長久のため一字の祈願所を建立せられ御城の鬼門を護持の文字をもって護持院題僧正と改めて、寺領千石を賜りその荘敢さは人の目を奪う程であった。
時に京よりの側室は、若君出生せしかば一層御寵愛も深かったが、柳佐和夫婦に注意されて彼女は御台所を大切になし、将軍にすすめまいらせ折々は、奥方さまの許へも入らせたれば、奥方も遂に御懐妊あそばしたれば、御着帯の御祝儀として柳佐和出羽守へ二万石の御加増あり総高五万三千石となりたり。
しかるに御台所は女子を御安産、また側室は御男子を御出生にて徳松君と称し西丸へ移らせられしが御疱瘡にて逝去ましましたれば、彼女は深く歎き悲しみについに病死されてしまった。
柳佐和は大いに力を落し、綱吉公も若君及び彼女の死を歎き給い以前の御病を又も脳発し、日々欝々として入らせられたれば、御病気平癒の御祈蒔を護持院へ仰せ付られることとなった。
網吉菅公は戌の牛なりとして市中の犬を大切に取扱い殺生を禁じ給いたる。また柳佐和の取なしを以て綱吉公には牧野備後守、堀田備中守、本庄因幡守等の邸へ成らせられ、御慰みに御能などを催したのであった。
中にも柳佐和出羽守は容顔美麗なる舞妓を召抱え諸芸を御覧に入るべきと将軍家におなりを願いたるに、御土産として三万石賜り、御能の後には美麗の舞妓どもに、琴三弦をかきならせ興をそえ君の御心をなぐさめけると、しきりに御奉公を申しあげた。
…八切先生註…
いくら原文の儘といっても程度があるので、あまりにひどい個所は直したが、どうにもならぬのが内容である。今から一世紀以上も前の明治十一年のものでも、これではどうしようもない。
しかし芝居の話が歴史として日本ではまかり通るから、こうした俗説の万が面白可笑しく今では一般の常識化されている。が、「さめ」病死もしていないし、護持院降光も随高坊ではなくて京よりきた朝鮮人の坊さんなのである。
また、「生類憐れみの令」も本当は政治的なものであって、皮革商で儲けてきた騎馬民族の残党の神道派への弾圧だったのである。
つまり酒井忠清が切腹してはてたとするのもでたらめであって、すべてが実際とは違いすぎる。
柳沢をわざと柳佐和としてあるのだから、事実、相違も仕方ないといってしまえばそれまでだがに弥太郎は養子に入ったのでもなけれぱ浪人していたのでもない。また自分の側室となった町子は京から迎えたが将軍へというようなことはなかったのである。
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