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◎写真は柳沢吉保公の故地。
武川村柳沢集落付近の名勝。
国の指定記念物「舞鶴の松」
樹齢400〜500年
武川町三吹万休院庭園
<矢切止夫氏著>
さても光陰は休むこともなく、その年もくれて明ければ宝永六年の春を迎え、あら玉の正月となった。
御祝いの元旦の儀式も七種の年賀の膳もおわり、正月の十日とぞなりにける。よって明十一日は具足開きの当日なれば将軍もおわせまし、それゆえ明日は西丸家宜公と御跡目に正式に決める儀式をとり行なう。そのため水入らずにつき掃部頭始め老中も出席に及ばざるむねが将軍自身より仰せ出された。
掃部頭これを聞きふしぎに思い、万一家宣公に凶事あっては国家の人事で大乱のもとはこの上へ有るべきはなしと、すぐさま御前へまかり出て御機嫌を伺い言上なしたるは、
「明日は仰具足開きの御祝いにて、当日は親子御二方のみにて行い給い、愚老を始め老中の者は出席に及ばざるよしのお達しですが、さりながら私めは老年に及びそうろうて、明をも知れぬ命に思えば今生の思い出になにとぞ出席をお許しなされたく、この段願い奉まつる」と、心配して申し上げた。
が、将軍家にあっては御許しこれなく再三しいて願いたるに、御不興に思いめされ、
「以後は出仕に及ばず早々に国元へ立戻り隠居住るべし。
しかしこれ迄の勤めを思し召され」
と貞宗の御刀を拝領仰せられ、それで御前を伺候下りはしたが忠義一途の掃部頭そのまま大奥に到り御台所へ御目通りを願いでて御前へ伺候すると、今日の始末を言上に及び御暇乞いの為参上仕ると落涙に及んだ。
かねて賢明の御台所は掃部頭の意中をすぐ推察なさり万事みづから心をくばり、どうか国許へ戻っても、息災で居れよと仰せられ掃部頭に別れを告げ給えり。
そして君御不例の由なればと御台所は御見舞を出された。そのためその夜は当直の者を休息させ、引き退らせて待っておられると、
「わしは元気である」と将軍家は心配させまいと、大奥へおもむかれた。
そこで奥女中にて御寝所を出められ御台所は直接に将軍家へ御談判の様子であった。
やがて夜中であったが諸役人総登城して具足開きに参列せよと叩令がでた。
家宣公はこのため無難に御家督と定り、松平美濃守は御役御免遠慮仰せ付られる結果となったのである。
その後百万石の墨付を取戻さんとして井伊掃部頭は、柳佐和中家へ到り美濃守吉保を説き伏せ難なく御墨付取戻しに成功。よって美濃守は隠居しで子息の吉里が家督相続をなし、甲斐守と改めて大和の郡山において十五万千二百石余を賜った。
吉保はやがて入道して保山と号したが、妻のさめと仲良く安堵のおもいをなしてすごした。
これひとえに御台所の貞烈によるものと掃祁頭の誠忠のなす所なりという。かくてこの後は事故もなく相すみたのである。
間もなく御台所にあっては御逝去あそばされたが、御自害のよしも風聞せり。
時に宝永六年五月朔日、家宣将軍宣下あり徳川六代の君と仰がれけるとぞめでたかれ
《八切先生註》
適当というか、でたらめというか飛んでもない話てあろ。
綱吉が、おさめにかきくどかれて世つぎときめた家宣を手討ちにして殺してしまおうとしたとか。
御台所(原文でけ御産所)が談判して取りやめにさせたが、妻としては婦徳に反するのではあるまいかと反省して自殺というのは可笑しい。
また幕末有名だったが桜出門外の変で、殺された井伊掃部頭がでてきて大活躍するけれど、元禄十三年まではたしか井伊直興が大老だったが、その後はずっと柳沢吉保が大老なのである。
江戸時代の幕閣にあって、大奥の御台所の許へ、井伊が別れを告げに行くあたりは「南部坂、雪の別れ」の忠臣蔵の模倣である。男子禁制の所ゆえ大老でもゆけはしない筈である。
また、夫と共にいるおさめが妊娠したからといって、綱吉の子であるというのも変である。
それに初めは舞妓が気に入って通ったのが、途中から人妻のおさめに転向もおかしい。 少女趣味の男が成熟したおとなの女へ、好みが変ることなど常識ではありはしない。
また護持院が祈祷して病状を悪化させたのを、井伊が拝み直して治したというのもひどい。
今でいえば劇画のように挿絵を主にしたものゆえ、とやかくいっても始まらぬが、宝塚で大正時代にレビユーを始めたとき、衣裳代の関係で袖の短かいものをきせ、これに和洋大合奏の賑やかな曲をつけたのが、「元禄花見踊」のタイトルであったため、「元禄時代」といえば何か派手な連想を台え、天下泰平だったようなイメージをもたされてしまい、それが今では常識のごとく固まっているが、とんでもない狂乱な大弾圧と大冷害の時代だったのは、これから書く柳沢吉保の実際によって判ってほしい。
真の元禄時代を解明してゆくには、彼を通して書くしかないから、これまでの俗説を打破するために、次々とここまで愚にもつかぬものを羅列してきたのを御柁びする次第である。
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