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<写真は信玄画像>
最後の2枚の写真はおかしいぞ。
1枚は高野山成慶院の重文「信玄像」の写真に武田菱が入っている。???
柳沢兵部丞信俊(柳沢吉保のおじいさん)
武川(六河)衆の領袖、柳沢壱岐守信勝はこの信房と同一の人物と思われる。信房の子信兼は武田勝頼に仕えて武功があったが、天正八年上州膳城攻めの際軍法に触れて自刃し、長男信久は逃がれて穴山氏に仕え、家跡は信久の弟源七郎信俊がついだ。
信俊は、武川衆の中での実力者青木尾張守信立(信親とも)の三男であるが、実兄で武川衆横手家(現、北杜市白州町横手)を嗣いだ横手監物信国が、元亀元年(1570)正月、駿河国花沢の城攻めに討死したため、名門横手家の絶えることを惜しんだ武田信玄の命により、横手家を嗣いで横手源七郎長俊と称した。
ところが、天正八年(1580)十月、上州膳城において柳沢靱負信兼が軍令に背いて先陣の功を立てたのを勝頼が怒り、自刃を命じたため柳沢家は断絶の危機を迎えた。勝頼も、信兼が忠功を急ぐあまり、やむなく軍令を犯した心情を憐れみ、また信俊が膳城攻略に際して立てた殊勲を賞し、柳沢信兼の名跡を与えた。こうして信俊は柳沢氏をついだのであった。信俊は智勇兼備の名将で、長篠の合戦においても大将勝頼の側近にあって防戦これ努め、勝頼の危急を救った。
『寛政重修諸家譜』柳沢家譜に、その事績が述べられている。
「武田信玄および勝頼に仕え、元亀元年(1580)正月実兄横手監物信国、駿河国花沢城を攻むるの時戦死せしかぱ、信玄の命により信国が遺跡を継ぎ、横手村に往す。三年十二月、三方原合戦に、山県三郎兵衛昌景が手に在て戦功あり。天正三年(1575)五月長篠の役にも、武田勢敗軍すと難も、しぱしぱ返し合せ、勝頼に従ひて防戦す。
天正八年(1580)十月上野国膳の城素肌攻の時、信俊も頗る戦功ありしにより、勝頼その忠賞として柳沢信兼の一跡を与ふ。これより柳沢村に移り庄す。
天正十年(1582)勝頼没落ののち、武川の諸士と同じく東照宮の御塵下に属し忠節を励ます。
このころ北条氏直使を遣はし、武川の士を味方に招かんとするの時、信俊・米倉主計助忠継・折井市左衛門次昌らに力をあわせ、氏直が使を討ちとりてこれを献じ、また氏直に属せし小沼の小屋を攻破る。
この年甲斐国新府に渡御(徳川家康)あるの時はじめて拝謁す。このころ北条勢、逸見日野村の花水坂に屯(たむろ)して、しぱLぱ武川衆を襲ふ。信俊、山高宮内少輔信直と謀り、三吹の台に伏兵を設けてこれを追尉し、首二級を討取り、家臣も敵一人を生捕り新府の御陣に献ぜしかぱ、功ありし家臣に青銅三貫文を賜ふ。
八月十六日、本領甲斐国柳沢郷において七十二貫八百文の地を賜ひ、十二月七日御朱印を下さる。
天正十二年(1584)小牧の役に、信濃国勝間の砦を守り、御帰陣ののち尾張国一宮城を守衛す。
天正十三年(1585)真田昌幸を御征伐として軍を信濃国上田に進めらるるの時、信俊、妻子を証人として駿河国輿国寺にたてまつり、大久保忠世が羊に属して軍功ありしかぱ、
天正十四年(1586)正月武川の士と共に一紙の御書を賜ふ。
天正十七年(1589)より甲府城の番を勤め、この年采地を加へられ、
天正十八年(1590)小田原陣に供奉し、八月関東に入らせ給ふの時、武州鉢形領の内において、二百三十石の地を賜ふ。
天正十九年(1591)九戸一揆の時、大久保忠世が手に属して陸奥国岩手沢に赴き、文様元年(1592)朝鮮の役に兵船を作らるるの時、伊豆山より良材を伐出す事をうけたまはる。
慶長五年(1600)台徳院殿信濃国上田に御進発の時、大久保忠隣が手に属して供奉す。
信俊かつて台徳院殿より親筆の和歌一軸を賜はる。
慶長十九年(1614)十一月晦日采地において死す。年六十七。法名良心。鉢彩領今市村の栗地に葬り、後一寺を建立して高蔵寺と号す。
妻は武田家の臣石原四郎右衛門昌明が女。
墓----今市村宝珠山高蔵寺。戒名は「高蔵寺殿安宗良心居士」
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