江戸の名君”柳沢吉保公”

全国の柳沢吉保の足跡や資料などを収集しています。

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柳沢吉保のお父さん

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<写真は武田遺宝>


 柳沢吉保の父(柳沢安忠)

 信俊が死に、その嫡男安吉(当時の信文)が亡父の家督をっいだ時、さきに安吉が自身の功によって与えられた知行、すなわち蔭料一六〇石は、十三歳の弟安忠に賜わった。

 安忠は一家を創立して二代将軍秀忠に仕えた。安恵は早熟で、十三歳の少年にもかかわらず、壮丁の働きをりっぱに果してのけた。

 というのは、父の没したのは大坂冬の陣の最中であった。
 やがて元和元年(1615)四月、大坂夏の陣が起こり、武川衆にも出陣命令が発せられたが、安忠の兄安吉は不幸にも病中であったので、弟である安忠は兄安吉に代って出陣し、みごとに軍役を果し、人々をして舌を捲かしめた。

 安忠の事績を『寛政重修諸家譜』で見よう。

 初名信時、通称長蔵、十若衛門、刑部左衛門、致任Lてのち露休と号す。柳沢兵部丞信俊の四男。母は武田家の臣石原四郎右衛門尉昌明が女。慶長十九年(1614)父信俊死するののち、兄孫左衛門安吉その遺跡を継ぐ。
 安吉かって知行せしところの采地百六十石、帝安吉に賜ひ、台徳院殿に仕へたてまつる。(時に十三歳)

 大坂再陣の時、兄安吉病に罹るにより、これに代りて御陣に候す。
 この年駿河大納言忠長卿に附属せられ、彼卿ことあるののち処士となり、
 
 寛永十六年(1639)十二月めされて上総国山辺郡のうちにおいて百六十石の采地くらまいを賜ひ、
 御広敷の番を勤め、慶安元年(1648)九月二十五日くら米七十俵を加増せられ、
 三の丸広敷番の頭となり、のち常憲院殿(綱吉)に附属せられ、
 神田の館においかんじよヨ訓Lらて勘定頭を勤め、
 しばしば加恩ありて采地百六十石・くら米三百七十俵の禄とたる。

 延宝三年(1675)七月十二日致仕し、
 これより先、常憲院殿親筆の山人の二字、及び荷葉(はすのは)に翡翠(かわせみ)の御画を賜ふ。
 
 貞享四年(1687)九月十七日死す。年八十六。法名源良。市谷の月桂院に葬る。
 のち安忠が院号正覚をもつて山号となし、月桂寺と改む。妻は青木清左衛門信生が女。
 
 とある。安忠が、十四歳の少年武者の身で兄に代り、大坂夏陣に出陣Lて善なく軍役を果たL、家名を輝かしたのは賞讃に値いする。

 大坂の役ののち、武川衆諾士とともに駿河大納言忠長に仕えたが、忠長が兄の将軍家光に忌まれて没落すると、安忠も浪人生活に入った。
 しかし、七年後の寛永十六年十二月、再び出仕を命ぜられ、
 上総国(千葉県中部)山武郡市袋村において采地百六十石を与えられ、
 江戸城三之丸奥広敷番頭を命ぜられた。
 江戸幕府も慶長八年(1603)の開府から半世紀に近く、慶安元年(1648)を迎えた。この年、安忠は禄七〇俵を加増され、

 将軍家光の四男徳松(のち綱吉五代将軍)付きを命ぜられた。当時徳松は三歳であった。

 徳松(綱吉)は、同四年六歳を迎えたが、四月賄料として一〇万石を与えられ、七月神田橋の館に移り、
 十月上野国館林城一五万石に封ぜられた。

 承応二年(1653)八月、八歳で元服、兄である将軍家綱の一字を与えられて綱吉と名のり、官は参議従三位右近衛権中将に叙任された。
 
 安忠が館林侯綱吉付きになったことが、柳沢家将来の運命を決Lたというも過言でない。

 このことが、柳沢家譜には、ただ「以将軍家之命、仕于綱吉公」と、淡々と記されている。

 安忠は、やがて理財の才能を認められ、奥広敷番頭から、枠田屋形の勘定頭に擢(ぬきん)でられ、功によってっくら米一〇〇俵ずつ三度の加増を受けた。 安忠が武士の表芸といわれる武道にすぐれていたことに、十四歳で兄に代って大坂夏の陣に出陣し、家名を輝かしたことでわかるが、望まれる武士の裏芸、学問経済の手腕を備えていたとは驚くべきことである。

 それは慶安四年に家綱の将軍宣下があり、のち徳松のために神田橋の館の造営をはじめ、一家創業の激務を勘定頭として見事に処理したことで明らかである。前記の三度の加増も思うに神田屋形の造営の功績に対する恩賞であろう。

 なお、明暦三年の大火の時に神田屋形も類焼の厄に遭うが、幕府から普請料二万両を与えられ、安忠の献身的活動により再興の屋形は不日に落成した。この以後、徳松の神田の屋形を神田御殿と呼ぶことになる。
 由来、徳川将軍の子弟は、大名に封ぜられても自身は江戸の屋形に住して封地に赴かたいのが例である。
 したがって綱吉は館林藩主に封ぜられても、館林城には城代家老を置き、自身は神由御殿に住み、政務の報告を受けてこれの処理を指示するを常とLたのである。
 安忠は、このような環境のたかで慶安元年(1648)より延宝三年(1675)までの二七年間、職務を守りぬいたのであった。

 延宝三年七月十二日に致仕し、家督を嫡男吉保に譲って露休と号し、隠居の身となった。
 貞享四年(1687)九月十七目、八十六歳をもって没した。
 法名を正覚院殿張無源良居士といい、江戸市谷の月桂院に葬られた。月桂院はのち正覚山月桂寺と改号された。

 安忠の病篤しと聞いた将軍綱吉が、側用人牧野成貞を見舞に遣わして望む所を尋ねさせたところ、安忠は、綱吉の裁決によって改易となった越後高田の名門、松平光長の名跡を立てて欲Lいと請い、綱吉を感激させたという。
 安忠が瞑目する十四日前の貞享四年九月三日、嫡男吉保の側室飯塚染子が吉里を生んだ。こうして安忠は心置きなくこの世を去った。

柳沢吉保のおじいさん

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 <写真は信玄画像>

最後の2枚の写真はおかしいぞ。
 1枚は高野山成慶院の重文「信玄像」の写真に武田菱が入っている。???

柳沢兵部丞信俊(柳沢吉保のおじいさん)

 武川(六河)衆の領袖、柳沢壱岐守信勝はこの信房と同一の人物と思われる。信房の子信兼は武田勝頼に仕えて武功があったが、天正八年上州膳城攻めの際軍法に触れて自刃し、長男信久は逃がれて穴山氏に仕え、家跡は信久の弟源七郎信俊がついだ。


信俊は、武川衆の中での実力者青木尾張守信立(信親とも)の三男であるが、実兄で武川衆横手家(現、北杜市白州町横手)を嗣いだ横手監物信国が、元亀元年(1570)正月、駿河国花沢の城攻めに討死したため、名門横手家の絶えることを惜しんだ武田信玄の命により、横手家を嗣いで横手源七郎長俊と称した。

 ところが、天正八年(1580)十月、上州膳城において柳沢靱負信兼が軍令に背いて先陣の功を立てたのを勝頼が怒り、自刃を命じたため柳沢家は断絶の危機を迎えた。勝頼も、信兼が忠功を急ぐあまり、やむなく軍令を犯した心情を憐れみ、また信俊が膳城攻略に際して立てた殊勲を賞し、柳沢信兼の名跡を与えた。こうして信俊は柳沢氏をついだのであった。信俊は智勇兼備の名将で、長篠の合戦においても大将勝頼の側近にあって防戦これ努め、勝頼の危急を救った。

 『寛政重修諸家譜』柳沢家譜に、その事績が述べられている。

 「武田信玄および勝頼に仕え、元亀元年(1580)正月実兄横手監物信国、駿河国花沢城を攻むるの時戦死せしかぱ、信玄の命により信国が遺跡を継ぎ、横手村に往す。三年十二月、三方原合戦に、山県三郎兵衛昌景が手に在て戦功あり。天正三年(1575)五月長篠の役にも、武田勢敗軍すと難も、しぱしぱ返し合せ、勝頼に従ひて防戦す。

 天正八年(1580)十月上野国膳の城素肌攻の時、信俊も頗る戦功ありしにより、勝頼その忠賞として柳沢信兼の一跡を与ふ。これより柳沢村に移り庄す。

 天正十年(1582)勝頼没落ののち、武川の諸士と同じく東照宮の御塵下に属し忠節を励ます。
 このころ北条氏直使を遣はし、武川の士を味方に招かんとするの時、信俊・米倉主計助忠継・折井市左衛門次昌らに力をあわせ、氏直が使を討ちとりてこれを献じ、また氏直に属せし小沼の小屋を攻破る。

 この年甲斐国新府に渡御(徳川家康)あるの時はじめて拝謁す。このころ北条勢、逸見日野村の花水坂に屯(たむろ)して、しぱLぱ武川衆を襲ふ。信俊、山高宮内少輔信直と謀り、三吹の台に伏兵を設けてこれを追尉し、首二級を討取り、家臣も敵一人を生捕り新府の御陣に献ぜしかぱ、功ありし家臣に青銅三貫文を賜ふ。

 八月十六日、本領甲斐国柳沢郷において七十二貫八百文の地を賜ひ、十二月七日御朱印を下さる。

 天正十二年(1584)小牧の役に、信濃国勝間の砦を守り、御帰陣ののち尾張国一宮城を守衛す。

 天正十三年(1585)真田昌幸を御征伐として軍を信濃国上田に進めらるるの時、信俊、妻子を証人として駿河国輿国寺にたてまつり、大久保忠世が羊に属して軍功ありしかぱ、

 天正十四年(1586)正月武川の士と共に一紙の御書を賜ふ。

 天正十七年(1589)より甲府城の番を勤め、この年采地を加へられ、
 天正十八年(1590)小田原陣に供奉し、八月関東に入らせ給ふの時、武州鉢形領の内において、二百三十石の地を賜ふ。
 天正十九年(1591)九戸一揆の時、大久保忠世が手に属して陸奥国岩手沢に赴き、文様元年(1592)朝鮮の役に兵船を作らるるの時、伊豆山より良材を伐出す事をうけたまはる。

 慶長五年(1600)台徳院殿信濃国上田に御進発の時、大久保忠隣が手に属して供奉す。

 信俊かつて台徳院殿より親筆の和歌一軸を賜はる。
 慶長十九年(1614)十一月晦日采地において死す。年六十七。法名良心。鉢彩領今市村の栗地に葬り、後一寺を建立して高蔵寺と号す。

 妻は武田家の臣石原四郎右衛門昌明が女。

 墓----今市村宝珠山高蔵寺。戒名は「高蔵寺殿安宗良心居士」

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 <図版・印刷用>

柳沢吉保故地を想う。お抱え儒者、荻生徂徠を甲斐へ(参考 「武川村誌」)

 柳沢吉保は、甲府藩主になったとはいえ、幕閣の首班という立場にあっては、自撰の霊台寺(れいだいじ)碑の述べる山川形勝の実地を尋ねるこ

とはもとより、祖先発祥の地武川一帯を調べることはできないが、硬文の吋容と実地を確かめたいので、平生信任している儒臣の荻生徂徠と田中省

吾にその任務を託したのであった。

 当時祖株は柳沢家に出仕以来満10年で年齢は四十歳、儒学におげる評価は、京都の伊藤仁斎に譲らず、吉保も自慢の種にしていた。

 「家の飾り惣右衛門ほどたる儒者は、公儀にこれたき様に思召し侯。」と家臣が記している」惣右衛門とは徂徠の通称である。

 当時、徂徠の右に出るほどの儒者は幕府にもいないと評価され、柳沢家の飾り(名誉の象徴)といったのであろう。

 大小の諾侯が辞を卑くし幣を厚くして招くのに一瞥も与えたかった徂徠が、吉保の求めには欣然として応じたのである。

 「士は已を知る者のために死す」という、徂徠は、吉保において知已を見出した。
 吉保の命を受げた徂徠は、僚友田中省吾と宝永三年(1706)九月七目(太陽暦十月十三日)に江戸藩邸を出発、甲州賂に向かった。

 初夜は八王子に泊り、
 八日、小仏峠の瞼を越え、鳥沢で日は暮れたが闇中を強行して猿橋に到り、松明の光りで奇橋の奇たるゆえんを確かめ、猿橋に宿った。

 九日、笹子峠を越えて勝沼の葡萄を賞味し、石和駅に急いで主君の祖五郎旧光公の旧荘を訪ねようとしたが、既に目が暮れて果さず、石和宿に泊

り重陽の節を祝った。

 十目、甲府に入り、州大夫(城代柳沢保誠)に面会レ、藩主の命を伝えて城中を巡視し、その壮麗に驚き、天守台に登臨し、城外四方を展望し、霊

峰富岳をはじめ山川1を眺め、

 十一日、旧府城(現武田神社)に機山公の英武と雄図を偲び、城跡の質素なるに驚き、「人を以城桝となす」機山信玄の真意を解したという。

 ここから東に足を運んで藩主「寿蔵の地、霊台寺」の工事現場を巡視の上、宿所に帰着した。

 同夜、城代、沢権太夫保格の邸に老臣以下の参集を求め、藩公親製の「穏女山霊台寺碑」の披露を行った。
 田中省吾が朗読し、徂徠が文意を解説した。一同は藩公吉保の名文と徂徠の解説に服した。

 九月十二目は藩公の祖先発祥の地、武川衆ゆかりの地を訪れる日である。

 甲府を後にし、藍河(相川)、荒川・貢川)を渡り、宇津谷村を経て塩川を越え、韮崎宿に到り仏窟山雲岸寺の仏窟(現在の穴観音)に参詣した上

で釜無川の東岸を北行し、
 七里岩の台上に新府城跡を仰ぎ見たがら釜無川を渡り、徳島堰に兵左衛門俊正の遺業を誉め、

 柳沢氏の本家、青木氏の故郷青木村に、青木家歴代の菩提所、「武隆山常光寺」に到着した。

 藩公吉保の伍父兵部丞信俊は、青木家の出身である。

 後年の話にたるが、享保九年(1724)、甲斐より大和郡山へ国替の時、領内の民が年貢米を残らず納めた。
 一般的にいって、国替のようた場合、農民は上納を怠り、滞り勝ちになるものであるのに、吉保、吉里父子は、年貢の徴収にも、農民の難儀にな

らないように、非道のことのないように、無理強いのないように、検見の時にも農民らに物入りのないようにと、いつも郡代、代官を戒めるので、

役人たちも心付き厚く、その結果、このように滞納しないのであろうと、その頃大名たちが江戸城中で噂したと『源公実録』に見える。


 荻生徂徠入峡と吉保

 吉保は、甲府藩主になると、甲府を永住の地と定め、菩提寺を開基することを決意した。

 『甲斐国志』古跡都第八山梨郡北山筋に、「●廃竜華山永慶寺」(りゅうかざん、えいけいじ)の項がある。
 この寺は宝永二年に吉保が自身の寿蔵の所とするために、山梨郡岩窪村の竜華山下に地をトし、山城国宇治の黄檗宗大本山黄檗山万福寺に準じて

、はじめ穏々山霊台寺(おんおんざんれいけいじ)の名で開基した禅刹であった。

 したがって、宝永三年に吉保が自撰した碑文の題は穏々山霊台寺と記す。穏々山霊台寺は宝永三年から同七年までの問に竜華山永慶寺と改名した

のであるが、『甲斐国志』すら「寺山号ヲ改ムルノ故ヲ知ラズ、」と述べているほどで、改名の年月や理由が不明なのは惜しい限りである。

 吉保は、菩提所穏々山霊台寺を開基すると、文字通り心血を注いで「穏々山霊台寺碑」の一篇を草した。


 <碑文は図版参考 訳は佐藤八郎先生(故)>

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