江戸の名君”柳沢吉保公”

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柳沢吉保の生涯

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『柳佐和実伝』

 さても綱吉公には脚気欝を散ずるため各所へならせ給いしが、柳佐和の邸にて御覧ありし舞妓が深く御心に叶いしより日夜とも御酒宜宴あらせられ、かの舞妓を相手に婬酒に耽り給うようなった。そこで、
「このほど君の御行状は、美女を召し抱え婬酒にふけり給うのみ、なんとか御改止あってしかるべし」
 井伊掃部頭登城なし牧野備後守へ申されたるゆえ、牧野は君へ御諫言申上げたるがかえって御不興を蒙り側役御免となりたれば御側御用人は柳佐和一人とあいなった。 そこでその後の柳佐和は万事心のままに綱吉公へ媚を献じるのにあくせくした。
 さてその頃、新吉原三浦屋次郎左衛門の抱えの遊女で、当時全盛の聞え高き大町清浦らを大金にて身請し、妻おさめにも遊女の粧いをさせた柳佐和は、頃も弥生の中旬にて庭前の桜盛りなれば、綱吉公へお成りを願いして、殊に仰喜悦の脚気色なされるようにと、その用意をなした。
 時にご三月十九日、綱吉公が成らせられ庭の景色をうつし、暫くあって柳佐和の妻「おさめ」が遊女の粧いにて新造やかぶろを連れ八文字にて徐々と姿をみせ、やがて綱吉公の御側へ参ると、色眼をつくって長きせるの吸いつけ煙草をさしだした。
 そこで「おさめ」が容色に迷いたまいし将軍家は酒興に乗じ怪しくなられ、とうとう泊ってゆく旨を仰せ出された。ゆかしき移り香は還御後も消えやらず、その後も将軍はしばしば成らせ給うほどに、「おさめ」やがて懐妊をなした。
「もし御男子出生ありたれば四海の王」と喜びあっていたところ、月みちて御男子出生ありたれば柳佐和夫婦は天へ昇る心地にてその由、君へ言上に及ひたるに、将軍は御祝儀として二万石を下しおかれ、よって合計十五万二千石となり、美濃守と改め、松平の称号を賜り柳佐和の威勢十よ他に並ぶものなきようになりしとぞ。
これより将軍家には御治世二十五年に至りたれども、さて御世継なく、よって老臣評議のうえ甲府宰相綱童公の御子息家宣公と定め大納言に任じ西ノ丸へ御入りありたり。
 さてこの君聡明にますます御孝心深く、きわめて至仁の聞え高く衆人その徳を賞されていた。
 しかるに綱吉公には柳佐和の家に仰男子出生につき、なにとぞ我が血統を以て相続させんと思えど、一旦家宣公卿養君となしたる上は、もはやせん方なし、いかがせんと思い煩い仏給いたまえていたり。

 ある日護持院僧正を召され何か御柑談ありたるが、程なく将軍家には怪しい御病気を発したるゆえ、護持院を召され西ノ丸に於て御病気を平癒を修したるが、何の修法であったのか御病悩は逆にいやますばかり、ついに御発狂のていなれば、井伊掃部は深く怪しみ、ある夜白身で西ノ丸へ当直を養目(ひきめ)の法を修したに不思議なるかな将軍家の御病気が速やかに御平癒ありたり。
 掃部頭はさてこそとそれより護持院僧正に面談の上、修法の件を詰問あり以後は登城無用ときびしく言渡された。そこで護持院僧正は戸も出せず赤面なして、そのまま御城を下っていった。

 さてもおさめは或る日、綱吉公の御酒宴の席にでて、そっと御機嫌をうかがっていた上で、
「私こと賤しき身にて度々君の御惰をばいただき、ついには御胤をやどし今の越前守殿を生みました。しかし可哀そうなのは、あの子でございます。この身に表向きの夫が居るばっかりに、越前守どのは正しく君の御胤であっても何ともなりませぬ。先年御養君が甲府より西ノ丸へ入らせられ御世継ぎとして定まりましたゆえ、越前守どのぱ御城にて御誕生ましまさば、正しく御世継になり給うべきに、賎しきこの身にやどり給いしゆえ果報ったなきこととなり申し、生みし身としては辛うございます」
 涙ながらに袖をひき訴えたゆえ、綱吉公もさらに心を乱し給い、
「なる程、越前守は我子に相違なき故に世継となさん、と思えど一旦家宣を養子となしたれば今更せんすべなし、よりてこれまで種々に手だてをめぐらせど事ならず。されどここにひとつの手段あり。来る正月十一日は具足開きの式日なれば当日は老臣を遠ざけ、家宣を千討ちになしてしまい、そして、「さめ」の生みたる高子をば次の将軍にしてやらん」と仰せられ、
「万が一にも事ならざる時は、やむを得ぬから其方の生んだ兄をば百万石に取立て、甲斐の国主となすべし」
 と仰せあり、料紙や硯を取よせ給い、甲斐信濃二ケ国にて百万石を迫て沙汰すべきものなり松平美濃守へ、と御白筆にてしるしたまい、「おさめ」へ御渡しあそばされた。
 おさめはこれを頂戴なしありがたく御礼申し上げ、なおも御心を慰さめ奉まつり御酒宴も終りたれぱ、いつものごとく御寝所へ伴い将軍家もその夜は柳佐和御殿へ泊りたり。
さて翌朝、綱吉公は改めて松平美濃守吉里を召され、其方の数年来の忠勤は類がなきよりこのたび甲斐の国主となし百万石をあてがうべしと、御墨附を給わりたれば、吉里謹んで御請け申した。
 お伴してきた柳佐和へ将軍家は声を落し思う仔細もあれば、当分はこの事を他へ披露すべからず、との上意にて、承知した美濃守も有がたく御礼を申上げ御前をまかり出たり。

 

誤伝 柳沢吉保(2)

 <矢切止夫氏著>

  柳沢女太平記

 四代将軍徳川家綱公は温和柔順にして御政事向きは大老酒井雅楽頭へ御委任せられしゆえ、雅楽頭の威勢はおおいに盛んなり。さて家綱公には御子なくして御舎弟二方あり、兄を甲府宰相左馬頭綱重公、弟君は館林右馬頭綱吉公と申しあげた。

 さて甲府の緬重公は、生れつき大酒を好み給い日夜飲酒にふけり修身済家の道にうとく、忠臣根津字右衛円が、しきりに諌言なすといえども改めず、終にはうるさがって手討になし給う。しかし死した後も、その忠魂が出てきて君の飲酒を戒しめたので、緬重公も後には、その忠魂を尊敬し根津に祠を造る。今も下谷にある根津権現はこの祠堂なのである。が、それに反して綱吉公は怜悧にましまし仁義の道を旨とし給い、兄綱重公とは実に月とすっぽんの違いなりと世人はこぞって賞めたたえたものである。

 時に延宝八年五月、右大臣征夷大将軍徳川家綱公が病にかかり給うに世子なく、臣下の面々御相続の評議を色々なきったところ、大老酒井雅楽頭が、しきりに我意をおしたてて傍若無人の挙動なり。
家綱公まだ御元気の頃より御弟君の内のいづれかをと仰せ出されていたけれども雅楽頭は、これを拒みしが家綱公思い止り給わず、雅楽頭へ御内談には、もし君たらんには甲府と館林とは何れがよろしきや、と仰せありたれぱ、雅楽頭御答に甲府公は飲淫にふけり国事を顧りみず、もとより御主君などは思いもよらず、館林公は怜悧にて和漢の書に達し給へども惜むらくは文あって武なし。もし将軍にならせられても今日のような様にては狡猾者にそそのかされ、終に国家危急に急に及ぶべし。まずまず御養君の御沙汰はおとどまり給うべし、と諌止したというのである。

さて、おのずからこのことはいつしか世上に洩れ聞こえてたからして、綱吉公の御附人牧野備後守思うよう、我君が御養君にならせ給い万一家綱公が蒐じ給い将軍に任じ給はばよし、さもなくば我々までも昇進はかなうまじ、何卒大願成就なさしめん、と独り心をいためたのであった。

時に京都真言の学寮智積院へ御武運長久の御祈祷を頼みたる所が、寺僧に随高坊という者ありたり。
彼償は元永田あたりに住み居りし松並道三といえる医者の子にて、博学秀才観相に抄を得て、すべての事が掌を指さすがごとき念力ある者なりしが、手続きをもとめて御祈蒔を頼みたるところ、それ以来牧野備前守邸内に滞留していた。

 さて、牧野は深く随高坊を尊敬し緬古公の人相を観せたところ
「御主君は、当然天下を掌に握らせるは必定なり」と申したれぱ、綱古公もおおいに喜ぱれ、
「我もし天下の主とならば、何なりとも貴僧の願いを叶うべし」と仰せあれぱ、感激した随高坊は平伏して、
「やつがれの願いは、なんとか大僧正の身分に昇りて、天下の御祈祷を仰せ付けられたく」と、申し上げ、

《筆註……ここから柳佐和弥太郎(柳沢)が登場する》

 それより「妹婿の柳佐和弥太郎」の住居を志ざし立ち出でける。
そもそも柳佐和弥太郎といえるは小普請役柳佐和刑部左衛門の子にして才知押すぐれし者にて妻は松並道三といえる医者の娘にて「おさめ」という容顔美麗にして才智すぐれたものだった。

 さて随高坊は、麹町二番町の弥太郎方に滞留して、牧野術後守より綱基地の御武運長久の御祈祷依頼を請われるまま、
「綱吉公の御容貌を観相したるに、必ずや天下の主と成り給うは疑いなし」など弥太郎にも物語りきかせた。
 さて立身出世を願うは人の情なれども白分には縁故がなきためなんともならずと、かねて弥太郎、は深く歎き居たりし身ゆえ、この事を聞き小躍りなして歓び、随高坊の紹介にて牧野備後守屋敷へゆくと、進物をもってゆき礼をつくして尊敬し交り深くなりぬ。
 さても牧野は弥太郎の才知あるを知ったからして、綱吉公へ上申し御伽番に周旋したからして、浪人だった弥太郎の歓び大かたならずであった。
 しばしば側近習番にもやがて召出され、百五十俵二人扶持を給いたのに感激して、それより、茶の湯、或いは詩を作り歌を詠じ、雑談等して、日々御側をさらす勤仕したれぱ、なお百五十俵くだされ都合で二百俵二人扶持となりたるしくみであった。

さて緬基地とは性偏頗にして学問をこのませ給い、折々御気分欝々になられるを家臣一同は牧野備後守はじめ皆々心配していた。
 そこで弥太郎は、ここぞ我が力を売る所と張りきり、綱吉公の御心を慰めたれぱ、いつとなく御気分もまぎれ何気色うるわしくならせ給う。そこで綱吉公の御母堂も深く喜悦あらせられ、牧野備後守に間合せられたれば、牧野は、柳佐和弥太郎が才知機転より仰素読もなされるよう御病状も次第に御全快あらせられたと、しきりに弥太郎を賞めたれば、母君桂章院殿にも御満足の上意ありたれぱ、弥太郎は厚ぎ御沙汰に伏して喜ひを申上げたり。

 ここに館林公の御家来にて本庄次郎左衛門とて万百石賜りたる人は柱章院殿の御甥でありたれば、今は家臣となれども正しくは綱吉公には本庄は伯父にあたっていた。
そこで手づるを求めて立入なば立身出世の早道ならんと交りを結びしあと、弥太郎はしきりと賄賂を送りたれぱ、本庄も弥太郎を愛顧するようになった。
 或るとき弥太郎は次郎左衛門へ改まって申したるは、
「先生の御厚志にて、度々拝領ものなどを賜っておりますれぱ、「愚妻さめ」をば御局側年寄福井さま御殿まで伺わせたく存じますが、なにとぞ良ろしゆうに……」と相談をした。本庄が承知して便宜を計ってやると、
「有難うこざる」と柳佐和弥太郎はおおいに喜びて、色々な珍貴な品々を収り揃えさせてから、おさめに申しふくめ、局の許まで差し出した。さて、兼ねてよりとりなしがよくしてあったので、御手寄福井さまは、「おさめ」伴ってゆき、桂章院へ献上のうえで御目見得の仰せもうけてきた。
「夫の弥太郎の骨折りで、綱吉の不快が直りかけは満足なり、そちも時々は館へまいるべし」
 桂章院殿はねんごろに仰せられて上々の首尾であった。
さても綱吉公は学問にのみ御心を傾けられ女色をきらいカ男色を愛し給うが故に、御母堂の御心労ひとかたならず、よって牧野備後守に仰せられるは柳佐和弥太郎はきけ者ゆえ、女色を進めまいらせんためと存じ万事を弥太郎に任せたり。それゆえ柳佐和は仰せかしこみ、もっぱらその事のみ心を砕きたる。

 さても延宝八年五月六日に、四代将軍家綱公卿養生叶わず御他界あらせられたれども、御世継ぎ君の御決定なきゆえ、御三家をよばれて大老酒井候御老中も列席にて、御評議の上ついに綱吉公と定りたれば、ここに至って家綱公薨去の仰せ出されありて即日綱吉公は大納言に任じ西の丸へ入り給いたり。時に大老酒井候は病気として引こもり、己が意のごとくならざりしため切腹してはてた。それゆえ堀田備中守が大老を仰せつけられた。

 綱吉公天下の主となり給いたれば御母君の弟本庄久郎右衛門へ五万石賜り因幡守に任じ、牧野備後守には二万石御加増あり、その他餌林家に仕えし輩ことごとく御取立あり。
 なかんずく柳佐和弥太郎は西京より美女を召し下し、綱吉公の仰伽ぎに差出したれぱ御愛顧ひと方ならず三千石下しおかれ御側役をも仰せつけられ出羽守と任官し、なお一万石御加増にて都合一万二千石を賜り御側御用人にまで立身したのでその威勢は日々に盛になった。
 また知積院の所化随高坊へは兼ての約定もあれば大僧正に任ぜられ、一ッ橋外に地所を清め御武運長久のため一字の祈願所を建立せられ御城の鬼門を護持の文字をもって護持院題僧正と改めて、寺領千石を賜りその荘敢さは人の目を奪う程であった。
 時に京よりの側室は、若君出生せしかば一層御寵愛も深かったが、柳佐和夫婦に注意されて彼女は御台所を大切になし、将軍にすすめまいらせ折々は、奥方さまの許へも入らせたれば、奥方も遂に御懐妊あそばしたれば、御着帯の御祝儀として柳佐和出羽守へ二万石の御加増あり総高五万三千石となりたり。
 しかるに御台所は女子を御安産、また側室は御男子を御出生にて徳松君と称し西丸へ移らせられしが御疱瘡にて逝去ましましたれば、彼女は深く歎き悲しみについに病死されてしまった。
 柳佐和は大いに力を落し、綱吉公も若君及び彼女の死を歎き給い以前の御病を又も脳発し、日々欝々として入らせられたれば、御病気平癒の御祈蒔を護持院へ仰せ付られることとなった。
 網吉菅公は戌の牛なりとして市中の犬を大切に取扱い殺生を禁じ給いたる。また柳佐和の取なしを以て綱吉公には牧野備後守、堀田備中守、本庄因幡守等の邸へ成らせられ、御慰みに御能などを催したのであった。
 中にも柳佐和出羽守は容顔美麗なる舞妓を召抱え諸芸を御覧に入るべきと将軍家におなりを願いたるに、御土産として三万石賜り、御能の後には美麗の舞妓どもに、琴三弦をかきならせ興をそえ君の御心をなぐさめけると、しきりに御奉公を申しあげた。

 …八切先生註…

 いくら原文の儘といっても程度があるので、あまりにひどい個所は直したが、どうにもならぬのが内容である。今から一世紀以上も前の明治十一年のものでも、これではどうしようもない。
 しかし芝居の話が歴史として日本ではまかり通るから、こうした俗説の万が面白可笑しく今では一般の常識化されている。が、「さめ」病死もしていないし、護持院降光も随高坊ではなくて京よりきた朝鮮人の坊さんなのである。
また、「生類憐れみの令」も本当は政治的なものであって、皮革商で儲けてきた騎馬民族の残党の神道派への弾圧だったのである。
 つまり酒井忠清が切腹してはてたとするのもでたらめであって、すべてが実際とは違いすぎる。
 柳沢をわざと柳佐和としてあるのだから、事実、相違も仕方ないといってしまえばそれまでだがに弥太郎は養子に入ったのでもなけれぱ浪人していたのでもない。また自分の側室となった町子は京から迎えたが将軍へというようなことはなかったのである。


 

誤伝 吉保公 その1

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 <写真>
1)生け花 郡山 甲州流(写し) 

2)柳沢吉保のお祖父さん(◎信俊ー安忠ー柳沢吉保)の
 生まれ育った地。
 山梨県北杜市武川町柳沢(むかわまちやなぎさわ)から見た
 甲斐駒ケ岳


 <柳沢吉保公関連ブログ>

 ■http://blogs.yahoo.co.jp/DIRECTORY/cat.html?p=%CC%F8%C2%F4%B5%C8%CA%DD&cid=555021934

http://blogs.yahoo.co.jp/kuramotomami0029
 ■http://blogs.yahoo.co.jp/many445gg/45004024.html
 ■http://blogs.yahoo.co.jp/tos0411jp/8383507.html
 ■http://blogs.yahoo.co.jp/xxx79429238/33382459.html
 ■http://blogs.yahoo.co.jp/takashi23yama/34143438.html
 
  今こそ柳沢吉保の真実を徹底究明する
なぜ世間は柳沢吉保を悪者にしてしまったのか
     誤伝 柳沢吉保

 ここに提示した資料は、私の最も尊敬する八切止夫先生の手による、
『柳沢吉保 元禄太平記』のはじめの部分から転載しました。
 先生は多くの歴史書を著されていて、私の手元にも数冊あります。先生は孤高の研究者で、その独特の歴史観と調査範囲の広さは他の追随を許さないものが感じられます。先生はその時代の歴史学者と一線を引いて活動しておられ。ある意味では異端児扱いを受けていたとも聞いています。
 また先生の本は現在でも高価で、人気の程が伺われます。先生の書いた柳沢吉保関係の本は多数あると思われますが、出会った折にまた紹介します。

 歴史は創られる場合が多々あります。山口素堂それにこの柳沢吉保それに…… この講座は柳沢吉保を悪者に仕立て上げた人々の資料とその真意を探っていきたいと思います。

 参考資料  八切止夫氏著 『柳沢吉保 元禄太平記』
1974(昭和49年)刊。

    俗説柳沢騒動

 「護国女太平記」なる実録本がある。これが種本になってまず上方では、
「けいせい揚柳桜」なる芝居が、寛政五年(1793)正月に大坂角座で上演されたし、江戸では文政二年(1862)五月に鶴屋南北作るところの、
「梅柳若葉加賀染」が玉川座で大当りをとった。明治に入ってからは、
「裏表柳のうちわ絵」を、河竹黙阿禰が書下ろし、中村座で、柳沢古保役の九代目団十郎と、おさめの役の岩井半四郎のからみで、江都の人気をさらった。
 だから芝居を史実と思い誤る人や、実録本とあるのを売らんが為の能書きとは思わず、文字通りに受けとった人々によって、今でも、すっかり間違えられて、(柳沢弥太郎というのは、百五十石どりの小姓組番頭の身分から立身しようというので、悪事を働いた侫臣)といったことにされてしまい、
「元禄年間の悪政は将軍綱吉が悪いのではなく、そそのかした柳沢が私欲を計って政治を勝手にしたからである」とするのが定説になっている。
 そして柳沢が軽い小姓番の身分から甲府十五万石までに、天下泰平の世なのに異常な大出世をする蔭には、
「さめ」とよぶ妻女があったからだと実録本ではしている。
 つまり柳沢弥太郎なる男は、
「なんとか立身したいものだ……」と日夜その心をくだいていたが、これといって出世できるような手蔓がない。

 そこであせっていたが或る夜のこと。はっとヒラめくものがあった。そこで、その時は何も口にせずだったが、次の日から非番の節には、
「所用がある…」と外出して、明暦の大火から移転し建物も立派に並ぶ新吉原へ通いだし、散茶女郎、梅茶女郎、格子女郎、太夫の区別もなく片っ端から揚げてみた。「わが妻女さめは、あれぞこの廓言葉で申す『みみず千匹』……つまり古原でさえその持主は居ない稀代の名器の持主でありしょな」と、ようやく臨床実験の他流試合を重ね、その結果、おおいに納得するところがあった。そこで弥太郎は、
「これさ……わしの頼みをきいてくれぬか」と、さめにきりだしてみた。
「はい嫁しては夫に従うが妻の道……なんなりと仰せなされて下さりませ」と、答えるのに、
「其方の万人に一人……持つかどうかとされている稀代の秘所を、わしの出世のため役立ててくれぬか」
といった。そこで、さめは天性の美貌をそなえた色白な顔を紅潮させ、
「……と仰せなされますのは?」恥ずかしそうに低い声で尋ねたところ、
「何も間かんともよい。唯、はいと承知してくれたら、それでよいのじや」
 弥太郎はいい聞かせるごとく口にした。しかし女人の身ゆえ、およその見当はついたものの、さて、己が身にそなわる(みみず千匹の具合)など、自分では判ろう筈はなく、
「……して、この身に何を」と、またくり返して聞きだした。そこで、弥太郎が叱りつけるごとく、きっとして、
「なにも妻とは申せ、いつもわしに抱かれて居るわけではあるまい……空いている時に何んせいと申すだけではないか」と、すこし声を荒々しくさせた。そこまで口にされては、
「まあ…おまえさまは…」と、さめも、仰天してしまい、おろおろしながら、
「他の事ならば何なりと、お云いつけは守りもしますが、そればっかりは……」びっくりして拒もうとした。しかし弥太郎は泣き崩れる妻へ
「間きわけのない……取り乱して何とした。用いて使うても減ずるものではないのに、なんで下惜しみ致すのか」烈しい口調で怒鳴りつけてからが、
「そちやわしの出世を邪魔せんとするのか」とまで口にした。それゆえ、
「滅相もない…」と、怨めしげに、さめが顔をあげたところ、
「わが立身に協力せぬ、できぬというは邪魔致すも同断ではないか」きつい声で難詰した。
「いくら云わしやっても、おまえさまという夫のある身が、なんでそないな…」と、さめは困りまた泣き伏してしまうのへ、
「えい、めそめそ致すでない……夫がそうせいと申すに、それを聞かぬ妻があってよいものか。其方は己が身のことゆえ存じよらぬが、備え居るは稀代の秘宝。もし上さまに御賞玩して頂ければ如何ぱかりお喜びなされようかと、忠義のために孟子て居るのだ」
 と将軍綱吉へ伽をするよういいつけたが、それでも、さめは首をふり、
「でも、あまりといえば余りな仰せ。お許しなされて下さりませ」と泣きくずれた。「そちや、わしが上さまへ忠を尽くしたいというのを拒むのか」と責められても、唯しくしく鳴咽するのみたった。それでも弥太郎は諦めようとはせず次の夜もやはりかきくどいた。
「いくら仰せられましても…,それは女として操を破ることになります」
あくまで厭がるのへ、弥太郎は、これではならじと言葉を柔らげ、
「源平の昔に源ノ義朝の妻の常盤御前が、その操を敵の平ノ清盛に許し、やがては亡夫の仇をとり平家を滅ぼした故事を、そちや知らぬのか…操とは破っても棄てても、それが夫の為にさえなりや良しとするものじや」
 かんで含めるごとくいって聞かせ、
「……なにも妻とは申せ、わしが四六時中そもじを用いて居るわけではなかろ。なあ、わしが何んせぬ折りに将軍さまへ、お裾分けをしたらよいのではないか」そっと声を落とし、
「そうじや裾を分けひろげて何するのじや…唯それだけのことだ」
 と、いってのけた。
「お、お裾分けなどとまあ、そないにお手軽な…」
「なにも其方を千代田城へ差し出してしまうのではない…・茶菓を出すごとくおすすめし摘んで頂くだけではないか」
 と、泣いて厭がるさめを脅かしすかし、ようやく納得させると弥太郎は、
「恐れながら…」と将軍綱吉へ、
「実はてまえ屋敷には門外不出の、世にも稀なる名器がござりまする」秘かに訴えでた。
「如何なるそれは、珍器財宝なのか」
 そこで緬古が、興味深く尋ねたが、弥太郎は、
「ここへ持参できるようなものではなく、又それは世に類のないもの…」
 とのみ申しあげ、
「なにとぞ手前の屋致へ…」いくら間かれても、一点ばりで押し通した。そこで綱吉も、(こりや余程の珍奇な物であるらしい)と好奇心を抱くようになり、ついに
「では、ものは試し一度いって見ることにするか」と、元禄四年三月。初めて柳沢の屋敷へゆき、そこで、
「これが、この世の無二の宝か…」
すすめられて、ざめを抱くと、千余の蛆矧がのたうち廻るような口にもいえぬ法楽に、さすがの将軍も夢みる心地にさせられてしまい、それから五十余度も柳沢家へ通うようになった。
そこで小姓の身分にすぎなかった弥太郎も、やがて甲府十五万石の柳沢吉保とまで立身、
「持つべきものは良き妻である」と、おおいにさめをねぎらったが、妻の方は唯さめざめと泣いたというのが伝わるのが、「護国女太平記」の話の筋である。

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