雑記(長州とか薩摩とか土佐・・・

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  あるTV番組を見ていたら、東京の世田谷で『松蔭神社』の紹介をしていた。
  私は、山口の萩にあることしか知らなかったので、ちょっと調べてみました。

 長門国萩松本村(山口県萩市椿東椎原)に生まれ。
 長州藩で禄高26石の下級藩士の杉百合之助の次男。幼くして叔父である吉田大助の養子となる。
 思想家・教育者・兵学者

 吉田松陰は、幕府の開国政策を非難し、朝廷の権威や攘夷の断行を唱え、老中の暗殺(間部詮勝)を企てたとして、安政6年(1859)『安政の大獄』により江戸に送られました。
 そして、同年10月27日。江戸伝馬町牢で国賊として処刑されたのです。(享年30歳)

 斬首という極刑に処された松蔭は、この時点では『国賊』扱いでした。処刑された松蔭の遺体は、その二日後に桂小五郎(木戸孝允)・伊藤利輔(博文)等の門下生と長州藩の周旋方によって貰い受けられ、小塚原(荒川区南千住)の回向院墓地に埋葬されたのです。
 この小塚原という場所は、盗賊や人殺しといった犯罪者達の遺骸も埋められていました。松蔭は罪人として、斬られた首を縫い合わすことも許される事なかったといいます。

 この処置を最も憂慮したのが、松蔭の門下生であり、妹婿でもあった久坂玄瑞でした。彼はどうにかして、松蔭の亡骸を移そうと考えていたのです。

 松蔭亡き後、1年半が経った文久元年(1861)5月。
 久坂が江戸で知り合ったとされる、松山藩の儒学者 山田方谷に手紙を書きます。内容は、松蔭の改葬が幕府より、早く許可が下りる事を頼むものでした。
 何故、儒学者の山田方谷に頼んだのかというと、彼の主君である板倉勝静は、大老井伊直弼の政策であった『安政の大獄』を批判した為、寺社奉行を罷免されたいう経緯があり、桜田門で井伊直弼が暗殺された後、幕府の重役として復帰していたからでした。同じく『安政の大獄』を批判していた、松蔭の事を理解してくれるだろうと期待したのではないでしょうか。結局は、どうにも出来なかったようですが。

 松蔭の改葬までの道程は、長州藩の藩意の道程であったともいえます。
 文久元年3月 長州藩では藩士の長井雅楽が、《幕府が行った開国を事実と認めた上で、公武一体となって国難に立ち向おう》という、(公武合体と開国)の【航海遠略策】を打出します。藩主の毛利慶親はこの策を藩論とし、中央進出を狙っていたのです。

 これに、久坂玄瑞や松蔭の門下生は大反対しました。理由は、松蔭が唱えていた、尊王攘夷の実現に反するということでした。
 久坂は脱藩し、京都で朝廷を動かし、藩主に上書して藩論を尊皇攘夷に変えさせたのです。
 1度は朝廷側からも好意的に迎えられたこの策も、久坂等と結びついた朝廷の関係者によって非難され、長井雅楽は失脚・責任を取っての自害に追い込まれます。
 長州藩は、久坂の思惑通りに【攘夷】に方針をかえ、幕府に攘夷断行を迫ります。

 同年8月 久坂は【廻瀾条議】を藩主に提出。
 これには今後、長州藩がどのように進むべきかが記されており、また吉田松陰の≪忠義の魂≫を弔い、その善行や功績などを広く知らせる事が盛り込まれていました。
 『尊王攘夷』を推進めていく中で、精神的な象徴が必要だった長州藩は、松蔭に目をつけました。最も久坂玄瑞の提案だったのは言うまでもありませんが。
 しかし、その象徴が罪人のまま刑場に埋められているのは都合が悪く、急いで藩主から朝廷に働きかけ、松蔭の罪を拭い去り、改葬・復権をするようにと幕府に命じたのです。
 
 こうして文久3年1月5日
 松蔭の遺骸は、荏原郡若林(東京都世田谷区)に改葬。
 この件に尽力した、久坂玄瑞は信州方面に出張中で参加出来ず、高杉晋作と桂小五郎に事細かに指示を書き付けた手紙を出しています。
 面白いのは、改葬は僧侶に任せるのではなく、神式でするようにと言っている事です。理由としては、仏教は外来宗教であり幕府が庇護しているから、尊王攘夷を掲げる我々としては、日本古来の神道でなければならないというものでした。

 世田谷区の墓所には、1882年(明治15年)に松陰神社が創建されたのです。

       上記の理由で、松蔭神社が東京にもあった訳です。

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なるほど、分かりやすい解説でした。松陰は、どうやら本人の意思とは違う方向で利用されてしまった存在だったんですねぇ。「強い日本を作る」という理想に燃えた松陰にとって、倒幕からやがて日中戦争・太平洋戦争へいたる経緯はどうみえたのでしょう?

2005/10/10(月) 午後 5:33 佐々木斉久

なるほど。。。僕も世田谷に松蔭神社があるのは不思議に思っていました。。。(学校が松蔭神社の近くにありました。)『松下村塾の分校(?)みたいな物が世田谷にあったのかな』ぐらいに思っていたのですが、墓所だったんですね。。。勉強になりました。

2005/10/10(月) 午後 11:09 tos**_104*63

回向院から松蔭神社への改葬にそんな複雑な事情があったのは知りませんでした。回向院のほうの墓石も主が居なくても大切に今も祀られていましたよ。

2005/10/11(火) 午前 10:32 ぴあし

>佐々木様 同じ事が坂本竜馬にも言えるんですよね。この2人は本人の意思とは関係なく政治的に利用される事に、きっと天国で悔しがっているのではないでしょうか。

2005/10/12(水) 午前 2:03 yan*mis*n

>104様 複数あることは、何か所以があるものなのですね。私も今回調べてみて実感できました。

2005/10/12(水) 午前 2:12 yan*mis*n

>ぴあし様 本当に複雑です。久坂さん、頑張りました!

2005/10/12(水) 午前 2:16 yan*mis*n

いやぁ、龍馬に限っては、たとえ名前を利用されても、「そんなこんまいことはどうでもえぇゼヨ!」って、言いそうだなぁ〜。

2005/10/13(木) 午後 5:16 佐々木斉久

面白いですね。 松陰ももし現代にタイムスリップしてきて、この神社をみたら驚くだろうな。 これは僕がめざしていたものじゃない!って・・・ でも後世の人には必要だったんだな、うん。

2005/10/13(木) 午後 6:45 coz**ind200*

佐々木様 あは(^^)確かに竜馬さんなら、笑い飛ばしそうな感じですね。男は小さい事を気にしないっ!とか言っちゃって。

2005/10/14(金) 午後 11:50 yan*mis*n

林太郎様 立派な自分の神社を、松蔭さんが見たら逆に喜びそうなイメージがあるのは私だけでしょうか???

2005/10/15(土) 午前 0:00 yan*mis*n

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うーむ。 松陰の弟子たちは松陰の考えていたこととは違う過激な改革の道を選択するのだが、そんな彼らに神として祭り上げられてしまった松陰は果たして喜んでいるかなぁ。 結果として維新が成功したから良いけど、失敗の可能性のほうが高かった。 この神社に死者を弔う素朴な純粋さより政治的プロパガンダを感じてしまうのは私が不純だからでしょうか? でも弟子の活躍はきっと誇りに思っているだろう。

2005/10/16(日) 午前 1:50 coz**ind200*

>林太郎様 少なくても高杉晋作や井上馨ら、弟子の協力があってのことだし、松蔭の教えを広めたという点では《良し》と思ってくれているんじゃないかな、とか思ってます(^^*)

2005/10/17(月) 午後 3:31 yan*mis*n

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そうだったんですね!勉強になりました。長州藩も第二次長州征伐前まで、高杉ら急進派が政権を担うために内戦、粛清などの産みの苦しみを経るわけで、その為彼らの師 松蔭を藩意を纏め上げるために神に祭り上げたとしてもそれは仕方ないことだと私は思います。

2005/10/17(月) 午後 5:23 ゆーくんままま


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