幕臣

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永井 尚志 中篇

文久2年(1862) 京都町奉行として復帰
 当時の京都は攘夷の嵐が吹き荒れていた。開国に理解があった永井だが、頑なな朝廷の攘夷の命を受けないことには幕府の存続にかかわるという実感をもつこととなる。

同年12月 三条大橋にて京都守護職就任の松平容保一行を迎える。

文久3年(1863) 八月十八日の政変

元治元年(1864) 大目付就任 
 禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮。

元治2年(1865)禁門の変から1年。
 長州征伐のため、総督の尾張藩主 徳川慶勝の補佐役として長州へ赴き、長州藩主の責任を追及。その結果、長州藩は三人の家老と十数名の家臣を処罰し、三家老の首級と共に恭順の意を示す。
 永井は首の真偽を確かめた後、藩主の謹慎などを提示し、征長軍は実際に出動されないこととなった。しかし、幕府内部からはその処罰が寛大すぎたとして大目付を解任される。

 その後長州では、高杉晋作を中心とした討幕派の藩士(奇兵隊)により藩の実権が握られ、幕府への脅威が強まっていった。この危険を重視した幕府は、再び永井を大目付への再任、次いで外国奉行、長州御用掛に任命する。その間5ヶ月。

 ≪ 蛇足 ≫
 永井の二度の長州行きには、新選組の近藤勇を始め、伊東甲子太郎ら数名と共に護衛と探索の名目で同行している。長州出張については、新選組から会津を通して幕府に申請し了承された。京都赴任の際、永井は3年間壬生村の医師の家を間借りしていた。その時、近藤らと多少の接触があったものと思われる。

慶応3年(1867)12月 若年寄り就任
 10月 新選組は板倉伊賀守と永井尚志の身辺警護の任務につく。
 当時の新選組に対する永井の証言「新選組ノ者トハ別ニ予ノ統率ノ職権ハナカリシモ常ニ随附シテ離レス。頗ル情誼深カリキ。故ニ隠現トモニ予ノ身辺ヲ保護シ呉レタリ」(史談会速記録)とある。 

 同じく10月、土佐藩の後藤象二郎が大政奉還の建議を幕府に提出。これに永井が対応している。武力抗争を避け、徳川家の権勢の存続を求めていた幕府は大政奉還を受け入れた。永井は大政奉還においても交渉能力を発揮した。
 14日に幕府から朝廷へ提出された起草文は永井によって作成されたといわれているが、実は松山藩主板倉勝静の依頼により、山田方谷が起草したのが真相であるという。
 大政奉還後、永井は新選組を伏見の警護に当たらせる。

 ≪ 蛇足 ≫
 この前月20日に、永井は近藤勇を後藤象二郎に引き合わせている。彼に近藤は深く感銘を受けたとされ、隊員に『土佐の後藤先生には何があっても手を出すな』と命じている。

慶応4年(1868)1月 鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争
 将軍 徳川慶喜が密かに江戸へ去ったあと、永井は大阪城の混乱を収拾し城を尾張藩に預け、必要最小限の荷物だけを持ち逃れるようにして江戸を目指した。
 命からがら江戸へ戻った永井は、鳥羽伏見の責任を負わされ罷免される。

 4月 江戸城無血開城
 
慶応4年(1868)8月
 永井は養子岩之丞とともに長崎の海軍伝習所時代の生徒であった榎本武揚の旧幕府軍と共に艦隊『回天』に乗込み、箱館を目指す事になる。

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