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原田左之助(佐之助、忠一) 
 天保11年(1840)伊予松山藩中間の原田長次の長男として誕生。
 中間という身分は、武士ではあるがそのなかでも低い身分であったとされる。

 安政3年頃に江戸の松山藩邸で父と同じく中間として働く。怜悧な男で、容姿万端、美男であったと、のちに同藩士の内藤素行が語っている。

 2、3年後に郷里に戻り若党となる。この頃、ある武士と口喧嘩になり『切腹の作法を知らぬ下司野郎』と身分の低さを侮辱され、激怒。武士の前で勢いに任せ、自分の腹を切裂いてみせた。幸い、傷は浅く一命を取留めた。
 この事件が切欠けとなったのか、後に出奔。

 江戸に流れ、文久2年(1862)試衛館に食客として居着いた後、文久3年に近藤らと共に浪士隊に参加。
 試衛館に辿り着くまで何をしていたのかは不明。しかし、永倉新八の記録から『槍術種田宝蔵院 谷三十郎門人 免許』と記載があることから、大阪の谷三十郎の道場に通い、免許皆伝を受けた後江戸に入ったのだろうと思われる。
 ちなみに『種田宝蔵院流』という流派は存在しておらず、『種田流』と『宝蔵院流』の2つの流派を原田が自分の強さを強調する為にくっつけたのではないかと思われる。更にいうと谷三十郎は『種田流』の遣い手だということははっきりしている。

 選組結成後は、試衛館以来のはえ抜きの隊士として、十番隊組長となる。度重なる戦闘において、常に殿軍の組長として十番隊を指揮し活躍している。例えば、芹沢鴨一派の粛清、長州の間者であったとされる楠小十郎斬殺、池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路事件など)
 一時は、坂本龍馬暗殺の下手人としても疑われた。(暗殺現場に落ちていた鞘と原田が贔屓にしていた店の下駄、『こなくそっ』という方言により、伊東甲子太郎が証言した為)しかし、色々諸説がある為、断言は出来ない。

 鳥羽伏見の戦いを経て江戸へ引き揚げ、甲陽鎮撫隊として戦うも、官軍の攻撃の前に敗退。新選組幹部として、散りぢりなった隊士達をなんとかまとめようと奔走するが近藤と衝突し、永倉らと共に袂別。
 その後、永倉と同門であった幕府学問所取締役の芳賀宜道を尋ね、『靖共隊』を結成。原田は永倉と共に、副長の役職に就く。
 新選組・旧幕府軍などから兵が集まり、江戸城和田蔵門内の会津屋敷跡に屯所を設ける。ここでは、フランス式調練を取入れた訓練が行われた。

 江戸城無血開城が行われると、靖共隊は水戸街道から会津へと移動。再戦に備える。

 しかし、原田は山崎宿で残してきた妻子の身を案じ、隊を離れる。京都へ戻るはずだった原田はどういった理由からか、『彰義隊』に加わり上野戦争へ。
 しかし、新政府軍大将 大村益次郎の指揮の前に敗れる。

 その時受けた傷が癒えず、明治元年5月17日に死亡。

 享年29。(何故か彰義隊の名簿に原田の名は無い)

 原田が最期までその身を案じていた、息子の名前は茂といい、この名は14代将軍 徳川家茂から一文字取ったといわれている。妻のまさは昭和6年ごろまで生き、多くの孫達に見守られ亡くなったとされている。

 ≪ 馬賊説 ≫
 日清戦争の時、昔語りをする老軍人が「自分は原田左之助だ」と名乗った。原田は上野、新潟、下関、釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったという。
 明治40年頃の新聞で報じられたが真偽は不明。

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えーと、実は、私の大叔父は、福岡の筑前玄洋社の頭山満さんの親戚で、いわゆる満州馬賊として暴れまわった人物です。馬賊として有名なのは、宇和島伊達家の伊達宗城さんの孫である伊達順之助です。原田左之助は伊達騒動の原田甲斐方からも、保科正之の槍術師範であった原田伊予からも、大変、興味のある存在です。こちらも転載させていただきました。あとで、ゆっくり、お邪魔させてくださいね。

2008/10/12(日) 午後 5:27 留守番タロ子

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