雑記(長州とか薩摩とか土佐・・・

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赤根武人は、天保9年1月13日(1838年2月7日)に周防国玖珂郡柱島(山口県岩国市柱島)の医師・松崎三宅の次男に生まれた。

別名、文平・幹之丞・貞一・柴屋和平

15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に文を学び、後に長州藩重臣浦家の家老・赤根忠右衛門の養子となる。在郷時は、半年ほどであったが吉田松陰にも師事。

安政4年(1857年)には梅田雲浜の望南塾に入塾。任蔵、羽倉外記にも学んだ。

剣は神道無念流の斎藤弥九郎。文武の秀才であったとされる。

安政の大獄に伴い師・梅田雲浜が逮捕されるに伴い帰郷する。

文久2年(1862年)12月には 高杉晋作・伊藤俊輔(博文)・久坂玄瑞・井上聞多(馨)らと共に品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちに参加。

高杉晋作とは、文久2年御楯組(おたてぐみ・金沢で時折遊びに来る外国公使を殺害しようと企むが、藩主毛利定広に漏れ、櫻田邸に謹慎。謹慎中に同志らと結んだ盟約)結成以来の血盟の同志で、彼の創設した奇兵隊にあっていち早く頭角を現し、翌年10月には奇兵隊の第三代総管に就任。

元治元年(1864年)に禁門の変で敗れ、京都を追われた長州藩に、第一次長州征伐が迫ります。この事を切っ掛けに藩政を主導していた俗論派(幕府恭順派)と正義派諸隊(奇兵隊を含む武力討幕派)の調停を図り高杉と対立。

それが同志に疑われる事になり、翌慶応元年(1865年)1月に脱藩して大坂へ赴いた。
その後、捕縛され京都の獄舎にて繋がれる事に。

獄中の中で再び、長州征伐(第二次)が行われる事を知った赤根は幕府に上書して、【寛大の処置を以て放免されるならば、幕長関係の調整に尽力するであろう】と申立てている。
しかし、暫く経ってもこの上書に対する反応がないので、赤根は獄中で、

桜山昔日鐵花地慨慨何人祭我魂

と辞世の句を作り、死ぬ覚悟をしていた。

ところが、11月2日になって放免。

これは、新選組参謀であった伊東甲子太郎の周旋により幕府大目付永井玄蕃頭が決定したといわれる。
獄中の赤根の上書の意を受けた結果といえよう。

新選組局長近藤勇と共に、長州尋問のために下向した永井の随員となった。
11月16日に広島についた赤根は、五日後の21日に故郷の柱島に潜伏し、形勢を探索。

しかし、強固な抵抗に合い長州入りを断念した永井達は一路京都へ。

赤根は周旋を理由に更にそのまま長州に居残り、故郷付近の阿月、岩国あたりに潜伏していたが、12月末、柱島で長州藩士槇村半九郎に捕えられる。

正月3日、山口に送られ、一回の取調べもないまま18日には、

「奇兵隊総監所勤申脱走せしめ、上国において相捕えられ、獄中より存外の書面を差出し、帰国の上も数十日の間所々に忍隠れ、多年の御厚恩を忘却し、不忠不義の罪遁れ難い」

という反逆の徒として、慶応2年1月25日(1866年3月11日)、鰐石で斬首された。

享年二十八歳

― 真は誠に偽りに似 偽りは以って真に似たり(辞世の句)


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裏切り者と謗られたその霊は、贈位による復権は認められることもなく、死後130年程経ってやっと名誉回復され、東行庵内の奇兵隊や諸隊士顕彰墓地に建てられたのである。

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