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天保九年(1838年)生まれ。
土佐郡江ノ口村の郷士 岡田義平の長男として生まれる。
当時の土佐では身分による差別が激しく、多くの志士は郷士を目指したといいます。以蔵の父も『郷士』という身分をお金で買いました。郷士の身分をお金で買うことはこの時代それほど珍しいことではなかったようです。
しかしながら以蔵の身分は郷士ではなく『足軽』でした。どういうわけか以蔵の父の思惑で、以蔵は足軽の身分を、以蔵の弟が郷士の身分を継いだのです。(足軽として、藩との繋がりを保ちたい為ともいわれています)
剣術は独学で習得。身分の低さや道場に通うお金が無かった等、いわれています。
しかし、1854年 武市半平太(瑞山)の道場の門を叩き、本格的に剣術を学びます。
安政一年(1854)年 武市が叔父と槍剣道場を開き、藩内東部に剣道出張指南として、武市に従い江戸に出る。
安政三年(1856) 武市と共に鏡心明智流の名門 桃井春蔵の道場に入塾(2年間で中伝の免許を取得)
万延元年(1860) 武市に従って中国、九州を武術修行する。
その後、武市の結成した『土佐勤王党』に加盟。
しかし、なぜか後に名簿から削られています。武市の意向なのか分かりませんが、暗殺の現場には、武市の指示に従って進んで出ていたようです。
武市が、学の無い以蔵を、ただ単に暗殺の道具として使ったともいわれています。
土佐藩下目付けの井上佐一郎をはじめ、同志の本間精一郎や池内大学。森孫六、大川原重蔵、渡辺金三、上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人 村山加寿江の子多田帯刀などを天誅と称して暗殺(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)
一時は坂本龍馬の斡旋で、幕末の英雄 勝海舟の護衛も務めました。
文久(1863)三年三月
徳川家茂上洛の際、一緒に上洛していた勝は、以蔵と京の夜道を歩いていると三人の刺客が現れて、斬りつけてきた。以蔵は前に進み出て早打ちに一人斬り倒すと、後の二人は逃げていった。勝は以蔵の早業に感心したといいます。
しかし、後に勝が以蔵に対して「人殺しをたしなんではいけない」と忠告すると、以蔵は「それでもあの時、私がいなかったら先生の首はないでしょう」と言った。勝は返す言葉がなかったという。
また勝は、武市の以蔵に対する扱いや、勤王党のテロ路線の行く末を予見・看破し、龍馬のように武市と袂を分かつように諭したが頑迷な以蔵の態度に、呆れてあきらめてしまったともいえる。(氷川清話)
八月十八日の政変後
土佐では、藩主の山内容堂を中心とする土佐勤王党弾圧が一気に高まります。武市が土佐に戻ると以蔵は一人京都に留まりました。
しかし、幕吏に強盗として捕えられ土佐に搬送(土佐山田町)されます。
元治元年(1864) 以蔵はもちろん土佐勤王党の志士たちは拷問を受けます。
しかしながら、郷士である武市は拷問を受けてはいません。ここでも身分による扱いの差が見られました。過酷な拷問の中、死んでいく仲間も多かったそうです。
武市はこのままでは以蔵が全てを自白してしまうのでは、と疑念を抱きます。
そして武市は以蔵の毒殺を図るのです。送った毒を以蔵が飲まなかったとも、毒殺する事を家族が反対して、断念したとも言われています。どちらにしても未遂に終わります。
その武市の裏切りを知った以蔵はこれまで拷問に耐えてきましたが、ついに全てを自白してしまうのです。おの証言をもとに武市の罪状が決定されました。
慶応元年(1865)五月十日
武市は切腹。以蔵は、打ち首のうえ晒し首の刑に処せられました。
享年 28歳
辞世の句は
君が為 尽くす心は 水の泡
消えにし後は 澄み渡る空
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