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榎本武揚と共に箱館に上陸。
五稜郭を根城に永井は箱館奉行となり、新政府軍と戦った。
1869年(明治2年)5月1日
新政府軍との激しい戦いが続くなか、永井は弁天砲台を守ることとなる。その弁天砲台を守る兵士のうち半数を、相馬主計をはじめ新選組隊士が占めていた。しかし、新政府軍の遊軍隊の新入破壊活動をうけ致命的な打撃を受けてしまう。
籠城戦を試みるも食料がつきかけ、兵力も疲弊していく中、新政府軍 薩摩藩士黒田清隆の進めにより同月18日五稜郭にいる榎本武揚と共に降伏。
東京へ護送された幹部は東京兵部省にて約3年拘束され、1871年(明治4年)の1月4日に放免。
彼らが無事放免された影には薩摩藩士 黒田の活躍があったといわれている。
1872年(明治5年) 明治政府に出仕。
開拓使御用係、左院小議官を就任。
1875年(明治8年) 元老院権大書記官就任。
1876年(明治9年)10月 政府の要職を退官。
その後は向島の屋敷『岐雲園』にて余生を過ごす。
この屋敷はかつての盟友岩瀬忠震の別荘であたという。その庭には祠が建てられ朝夕その盟友達の霊を弔っていたという。
1891年(明治24年)7月 76歳で死去。
墓所は 東京都西日暮里の本行寺にある。
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