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元治元年5月20日(1864年6月23日)大阪西町奉行所与力の内山彦次郎が天神橋(蜆橋とも)で暗殺されました。
『元治新聞紙』という記録によれば、数人の浪人が内山の乗っていた駕籠を槍や刀で刺し、内山を引きづり出した上での斬殺。
内山は、前年の冬から浪士が内山の屋敷門前に度々『天誅』を示す貼り紙をしていたので、用心の為に常に護衛を2名つけていましたが、突然の襲撃に反撃することもなく逃走。犯人は特定されていません。
ところが、西本願寺侍臣であった、西村兼文が明治になって脱稿した『新撰組始末記』では、内山は新撰組の大阪での豪商への金策の暴挙に憤りを覚えており、常にこれを排除しようと思っていたとの事。
そんな中、『大阪力士事件』が起きます。奉行所に届け出た近藤を内山は、渡りに船とばかりに厳しく詮議したといいます。近藤達はこれを非常に恨みに思い、内山を暗殺することにしたと。
そして、西村兼文の『新選組始末記』をベースとして、広く他書籍に書かれる事になったのです。新選組が『真犯人』として。
しかし実際、近藤達が届け出たのは、内山がいた西町奉行所ではなく『東町奉行所』でした。西町奉行の内山が管轄外の事件を扱うのは、あまり考えられません。
そもそも、内山彦次郎はあの『大塩平八郎の乱』で功績があった人。若くして『譜代』まで登りつめたという逸材でした。ただ、幕閣の中では評価は高い人だったようですが、お膝元の大阪では、御用金を巡って商人達とは深い因縁があったようです。
どっちかというと、勤皇の志士を名乗る輩に狙われる可能性が大きいように思えます。
新選組の関与を全く否定する事は出来ませんが、幕府側にいた彼らが内山を殺す事は一寸無理がないでしょうか。
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