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新選組初代局長の1人 『新見錦』
彼は、何故京都の祗園新地貸座敷『山緒』で水府浪人の梅津某の介錯によって切腹したのか―
永倉新八の『浪士文久報国記事』では三条木屋町の旅宿で水戸浪士・吉村常郎に狼藉を働いた上での処遇であったとある。
元々、新見錦はその多くが謎に包まれており、常州水戸の脱藩者とれているが、水戸藩に『新見』姓の記録が見当たらないので変名の可能性がある。
新徴組生き残りの草野剛三の語り残しによると、新見錦は芹沢鴨とともに『東禅寺事件』に関係して、捕らえられ入牢していたともいう。
剣は芹沢鴨と同門の神道無念流。岡田助右衛門の門人であった。
文久三年二月 芹沢鴨と共に浪士組に参加。
また、剣術の師である岡田助右衛門も五番世話役として浪士組に参加している。
浪士組一番隊に配属されていた早川文太郎の『尽忠報国勇士姓名録』によれば、新見はこの時、二十八歳。
≪三番組小頭≫となり、沖田総司の義兄林太郎や井上源三郎らを引率していた。
この段階で、芹沢一派である平間重助等とは一角を分けていたものと思われる。
伊東甲子太郎による浪士隊の江戸帰還に反対し、京都に残留。
新選組の第一次編成時には芹沢、近藤勇と並んで隊長に名を連ねている。
四月 大阪の平野屋五兵衛へ、百両を金策する為の口上書には近藤勇と連名で新見の名前が残っている。
しかし、同年六月の第二次編成時には副長に降格。
永倉新八の浪士文久報國記事によれば、新見は隊規を破り、ことに乱暴が酷く、近藤、芹沢が説得しても一向に聞き入れなかったとあるので、この事からの降格と思われる。
八月十八日の政変時は、殿を務める。
その後の確実な消息が今日まったく伝わっていない。
そして、文久三年九月十四日 同郷人の介錯による切腹へと展開してくのである。
新見は新選組として表立って活動していなかった時期なにをしていたのだろうか?
続く
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